鹿島清兵衛物語(明治に生きた「写真大尽」)展

2019-08-18 00:00:12 | 美術館・博物館・工芸品
六本木のFUJIFILM SQUAREで開催中(~8/31)の『鹿島清兵衛物語』という写真展を観た。明治時代の日本写真会を支えた一人であるという功績者である一面、酒問屋「鹿嶋屋」の清兵衛という八代受け継いだ名跡を大散財で傷つけたという負の一面があり、大変におもしろい人物で、森鴎外などが小説の主人公として記述したり、反対にネガティブな一面を中心に見ると、とんでもない大馬鹿者のように書かれたりしている。



調べれば調べるほどわからなくなり、さらに昭和中期に彼の住まい跡から埋蔵金が発掘されるという謎が謎を呼ぶ事件も起きている。

ということで、深く調べるのも大変なわけだ。何が正しいのかよくわからないので、勝手に解釈してみる。

そもそも清兵衛は1866年、大坂の酒問屋「鹿嶋」当主清右衛門の次男として生まれた。「鹿嶋」には東京(江戸)に鹿嶋家の分店「鹿嶋本店」があり、跡取り娘である乃婦がいた。4歳で江戸に送られた清兵衛は八代目を名乗り、婿養子として鹿嶋本店を任されることになる。東京の仕事は「下り酒」と呼ばれ、大坂の「鹿嶋」で伏見、灘で作られた酒を消費地である東京に送り、販売することで、相当の利益があったようだ。



ここからが、この写真展と結びつくような写真大尽の話になるのだが倉庫の中に先代(つまり妻の父)の残した写真機を見つけたわけだ。そして、20代に写真の世界にかかわっていく。海外から写真機や照明器具などを集めてくる。一方、そのころ乃婦との間に4人のこどもが生まれていた。そして自宅近くに玄鹿館という巨大な写真館を建てる。スタジオである。また実弟の清三郎を英国に送り、写真技術を勉強させる。

ここまでは、今でもCSRの一環で、ある話だろう。ところが、当初は日本各地の失われそうな風景を記録するという立派な被写体を探していたわけだ。老朽化していた広島の厳島神社の海中鳥居の写真も今に残っている。ところが、いつの頃か被写体が女性に変わっていく。とくに、新橋芸妓「ぽん太」をビールの宣伝用ポスターで撮影してから、急に親しくなっていったようだ。本展覧会でも「ぽん太」とその妹分「おゑん」の写真が多く出品されている。

結局、ぽん太(本名、恵津)は八代目清兵衛が身請けすることになり、後に清兵衛が鹿嶋家から離縁されると後妻ということになる。二人の間にはこどもが12人も生まれる。現代なら表彰状かもしれないが、当時は誰もそんなことは思わなかったはずだ。おゑんの方は清兵衛の弟である清三郎の妾ということになった。

そして、鹿嶋家から離れた清兵衛は玄鹿館を閉鎖し、別の場所に「春木館」を建てるが、事業は失敗。さらに演劇の舞台照明の仕事も始めるが、照明作業中のマグネシウム爆発で右親指を失う。写真館を閉めるしかない。唯一、若いときに覚えた横笛の腕前を生かし、能の舞台での笛方の仕事を始めることになる。そしてなんとなく最後は寂しい人生を58歳で終える。

一方、本店に残った乃婦は、別れた亭主が外で作った大量のこどもたちに、支援金を送っていたそうだ。

という話で終わればよかったのだが、清兵衛が亡くなって(1924年)から39年後の1963年、鹿嶋家の跡地が開発されビル工事が始まると、地中より小判が大量に出てきた。写真現像液用のガラス容器に入っていたことから八代目清兵衛のものと思われた。当時の価格で6000万円。現在価値は10億円。一応、鹿嶋家のものと認められ子孫たちに配分されたそうだが、決め手となったのは、清三郎が残したガリ版刷りの資料「古金の発見」ということで、こどもの頃に、家の床下に埋めてある小判を掘り返して数を数えたという記載があったそうだ。

しかし、清兵衛の時代は明治であり、既に小判は流通していない。清兵衛は離縁され困窮するのだが、小判のことは忘れていたのだろうか。

なお、清兵衛は乃婦と結婚したわけだが、その時には乃婦には実弟が生まれていたそうで、本来はその弟たちが跡を継げばよかったのだが、既定路線として清兵衛が跡を継いだそうだ。弟の一人は、金融業を始め、相当の利をなしたようで、その後、曲がりくねった道をたどった結果、現在は埼玉県で鹿島屋(株)としてガソリンスタンド十数店を経営している。

八代目鹿島清兵衛の人生、資産を道楽と女につぎ込んだ大馬鹿者とみるか、私財を投げ打ち日本に写真文化を打ち立てた功績者とみるか。ネガとみるかポジとみるか。まさに写真家にふさわしい人生だ。
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