豊臣秀吉(桑田忠親著)

2020-03-30 05:54:15 | 歴史
著者は無数の歴史本を書き上げた桑田忠親氏(1902-1987)である。1965年63歳の時の著書である。秀吉という超有名人のことを書いてもしょうがないのではないかとも思えるが、著者によれば、無数にある秀吉についての著述について、歴史上の真実なのか、あるいは推定なのか虚偽なのか、そういうことを調べてみたい、という意味のことが書かれている。

hideyoshi


新書と言っても240ページを超すので、ほんのさわりしか書けないが、

1. いつから天下取りを考えたのか
  よく戦国武将は、すべてナンバー1を目指してトーナメントを行ったということになっているが、秀吉もそういう天下取りを目標にしていたのだろうかという問題。
たとえば、明智光秀や黒田孝高あたりまで天下取りの野望といわれるが、とんでもない小物ということ。謙信だって信玄だって、目先の関東一円あたりの王様になりたかっただろうが、もっと先のことなど考えるはずないだろうとしている。信長は確かにそういう目標を突き進み安土城に天皇を住まわせようとまで考えていたが、今川義元を打ち破るまではそなことはないだろうとのこと。つまり、戦国武将は現実主義だったはず。秀吉だって、信長にうまくとりついてナンバー2を狙っていた程度で、そもそも足利15代将軍がいるのに、天下取りというイメージを描くことは難しかっただろう。運が回ってきたのは、まさに明智光秀の首をみた時からだろうと書かれている。

2. 矢作橋のたもとで蜂須賀小六の子分になったこと
  現在の矢作橋には私もいったことがあるが、相当大きな橋だ。木曽川は幅が広いし中洲を使っても橋を架けるのは難しい。事実、秀吉の時代には橋はかかっていなかった。(以下私見:著者は書かれていないが、渡し船に無賃乗船しようとして蜂須賀小六に捕まったのではないだろうか)

3. 人望、政策
  天下統一に至るまでの秀吉については、その人身掌握や採用した政策(刀狩とか検地とか)は世情安定に大いに役立ち、多くは徳川政権に引き継がれた。そして妻や子を愛しすぎた。

4. 趣味
  茶は芸、一流は和歌。茶には多大な金を注いだが、一流の域ではなく、むしろ和歌には秀作が多い。
   つゆとおち つゆときえにし わがみかな なにわのこともゆめのまたゆめ
  辞世の句が一世一代の秀歌である。 

5. 三国統一、秀次、秀頼
  朝鮮出兵のことだが、本来、明を攻撃するために朝鮮を支配下において、朝鮮に攻めさせようとしていたのだが、無理な話だ。さらに天皇を北京に住まわせて、インドも攻めるつもりだったのだが、なぜ、体を張って秀吉の無謀を抑える者がいなかったか。

つまり怖かったわけだ。周囲はイエスマンだけになった。そして秀頼が生まれ、秀次は切腹となる。実際、秀次はご乱行が多かったし、秀頼にしても人格はひ弱な青年に終わる。

(以下私見:徳川家にしても、家康の実子がそれほど優秀であったかは疑問があるわけで、なぜ安定政権を得たのかは、天下取りの最終章で、『関ヶ原』『大坂の陣』と大戦争があって反対勢力を壊滅させたことが功を奏しているとみる。秀吉の場合は、四国、中国、九州、小田原と順々に敵をつぶしていったため、その過程の功労者を大名にしたてていったため、群雄割拠的になった。政権を長期化するためには、朝鮮を攻めるのではなく、江戸城に押し込めた徳川家康が実力を増加させる前に、逆関ヶ原の戦いを起こすべきだったのだろう。そして、長生き。)