肥後細川庭園の森博志さん。

2019-09-08 00:00:09 | おさんぽ
護国寺や腰掛神社などを案内していただいたのは文京区のボランティアガイドさん(女性)。コースの最後は都立『肥後細川庭園』。2017年に、都立『新江戸川公園』から改名した。旧田中角栄邸の隣で細川家のお宝を管理する永青文庫と敷地がつながっている。都知事は以前、日本新党にいた縁で細川元首相とは懇意なのだろう。次の知事選挙では自民党推薦の元背泳選手が対抗馬のようなうわさが流れている。



つまり、元々、この場所は細川家の藩邸だったわけだ。肥後細川家は大藩なので、江戸市中に上屋敷、中屋敷、下屋敷二か所を構えていた。上屋敷は現在の東京駅の丸の内側の北側、オアゾとセンタービルのところにあった。正妻が住んでいて、江戸城に出向く時はこの屋敷を使っていた。中屋敷は現在の白金高輪駅の近くにある高輪皇族邸(旧高松宮邸)の場所。上皇がいずれ移り住むことになっている。実は細川中屋敷には大石蔵之介他16名の赤穂浪士が預けられ、藩邸内で切腹している。本来、中屋敷は藩主の隠居した父親とか仕事をしない人が住むことになっていた(小藩では中屋敷がないことが多い)。

また下屋敷は二ヶ所で、中央区の浜町公園の場所と、この文京区の神田川北岸である。パンフレットにも江戸時代の地図として肥後藩の土地のように書かれているが、敷地の一部は『抱屋敷』と書かれている。厳密にいうと、上屋敷、下屋敷のような場所は幕府が肥後藩に貸しているものであり、抱(かかえ)屋敷の場合は細川家の個人資産としていた。そのため、明治維新後も多くの場合、抱屋敷だけは大名家に引き継がれたわけだ。



ところが、念のため安政三年(1856年)の江戸の地図で確認すると、細川家の土地となっているうち、南側(つまり神田川に面した方)の土地については、細川家ではなく、但馬豊岡藩京極高厚となっていて、細川越中守へ貸置と書かれている。豊岡藩は、藩主が京極家という名家ではあるが小藩であり、財政立て直しのために、たとえば藩邸を一つだけにして、残りの藩邸を貸し出して地代を稼いでいたのだろうか。

庭園は江戸時代の配置を参考に、整えられてはいるが、狭い江戸のこと、さらに幕府の目もあることから、広さよりも内容を重視しているようだ。いわゆる池泉回遊式庭園である。高松の栗林公園を見た記憶が脳裏に残っていて、それには負けるだろうが、江戸の中では一、二を争うべき大名庭園である。

ところで、ガイドの女性の方は、細川護熙氏と会話をしたことがあるそうだが、その話の始まりのところで、「もり・ひろしさん」と話した内容を教えてくれたのだが、「もり・ひろしさん」というのが、誰のことか全然わからなかったのだが、話の終わりの方で、「護熙氏さん」のことだとやっとわかった。「護熙(もりひろ)氏」あるいは「護熙さん」というべきで、「氏」と「さん」の両方を付けようとするから訳が分からなくなる。
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