魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

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川端康成と伊藤初代 岐阜記念写真の原本

2016-05-08 15:04:03 | 論文 川端康成

(右端は、三明永無。島根県温泉津町・瑞泉寺・三明慶輝氏ご提供)
川端康成と伊藤初代 岐阜記念写真の原本


3人の記念写真

 最近、ふたたび、川端康成と伊藤初代の恋について、話題が再燃している。
 新聞にも、岐阜で撮影された三人の記念写真が掲載されて、読者の注目を集めている。

 しかし、現在、新聞に掲載されている写真は、複製につぐ複製の結果、残っているもので、これらの複製写真の原本となった一枚が、現存するのである。
 それが、ここに掲げる写真だ。

 よく見ていただきたい。伊藤初代の顔の上方に、かなり大きな白いシミがある。他にも、白い小さなシミが、いくつか、ある。しかし、そう、これこそ、大正10年(1921年)から95年後に現存している、正真正銘の原本なのである。
 この写真原本は、一昨年2014年秋、島根県大田市温泉津(ゆのつ)町西田の古刹・浄土真宗本願寺派 三明山(さんみょうざん)瑞泉寺(ずいせんじ)で発見されたものである。


三明永無(みあけ・えいむ)という人物

 この写真の右端に写っている人物、この人こそ、川端康成と伊藤初代の恋を取り持ち、大正10年10月8日、岐阜市の長良川沿いの宿で二人の結婚の約束ができた、そのお膳立てをし、何かと康成を助けた三明永無(みあけ・えいむ)である。
 
 そして上記の瑞泉寺は、三明永無の誕生した寺であり、今も三明永無が眠る寺なのだ。



カフェ・エラン

 三明永無は一高(第一高等学校)文科の、川端康成の同級生であり、寄宿舎で同室の親友であった。
 この同室の四人の学生(他に、鈴木彦次郎、石濱金作)が大正8年から、寄宿舎の近くにあった、本郷のカフェ・エランに通いつづけ、そこで「千代」と呼ばれていた伊藤初代と親しくなった過程は、このブログ「運命のひと 伊藤初代」の章で、くわしく述べた。
 翌大正9年、エランは店を閉じ、伊藤初代は、マダムの故郷、岐阜の貧しい寺に預けられた。
 その初代をたずねて、まず三明永無が岐阜を訪問し、ついで康成を誘って一緒に岐阜へ行き、初代と会ったのである。

 このまま岐阜にいたくない、東京へ出たい、という初代に、康成の恋心は再燃した。
 その心を汲んだ三明永無が、二人の恋の成就(じょうじゅ)と結婚を応援することになり、その年の秋、9月と10月の二度、岐阜を訪ね、永無の努力で、康成は初代と、結婚の約束をすることができたのだ。
 それが大正10年10月8日のことだった。



瀬古写真館の記念写真

 翌日、3人は、岐阜市の繁華街、裁判所の前にある、瀟洒(しょうしゃ)な写真館、瀬古写真館で記念撮影をした。
 写真は2種類あった。1つは、康成と初代の2人だけが写ったもの、もう一つは、三明永無も入って3人で写ったものであった。
 それから東京に帰った康成と、岐阜の初代との間に、頻繁な手紙のやり取りがあった。初代から寄せられた10通が、一昨年7月、公開されたことは、周知のとおりである。そこには、次第に高まる初代の恋心が切々と表現されていた。



突然、途絶えた手紙

 しかし突然、初代からの手紙は途絶えた。10月23日に投函された手紙が最後だった。
 そして初代から突然に手紙の途絶えたことに苦しみ、寂しがった康成の手紙――それは、書かれたものの、あまりにしつこいことを懸念してか、ついに投函されずにしまったもの――が、一昨年(2014年)7月9日、新聞各紙に掲載されたものである。
 やがて、11月8日(それは、結婚の約束をしてから、ちょうど1ヶ月後のことだった)、久しぶりに初代からの手紙が届いた。しかし、そこには、驚くべきことが書いてあった。



「非常」事件

 「私には、或る非常があります。(中略)それを話すぐらいなら、死んだ方がましです」という内容の手紙だった。初代から、一方的に、結婚の約束を取り消すと言って寄越したものだった。
 私は、この手紙を「非常の手紙」と呼び、この事件を「「非常」事件」と呼んでいる。

 その後も、さまざまな経緯はあったが、結局、初代の心は戻りはしなかった。
 初代は上京し、カフェからカフェへと勤めるが、翌大正11年(1922年)、ついに川端康成の前から姿を消した。



全集「あとがき」に発表

 それでも、康成の、初代に対する激しい恋心は消えることはなかった。その思いを切々と書き綴った日記を、およそ30年後、川端は、活字にして発表する。
 それは、太平洋戦争の終わったあと、昭和23年(1948年)から刊行され始めた川端康成全集の「あとがき」においてであった。
 岐阜で写した写真を取り出し、初代に想いをめぐらす康成の真率(しんそつ)な心が、そこには描かれている。



失われた写真

 この全集は、全12巻だった。第一次全集と呼ぶ(川端康成の全集は、これまで、4度、出ているので、最初の12巻の全集は、「第一次全集」と呼ぶのが、ふさわしい。)

 この全集の各巻末尾に書かれた「あとがき」は、川端康成の秘密をさらけ出した重要なものなので、第三次全集には、まとめて掲載することになった。このとき、川端康成自身が命名して「独影自命」と呼ばれるようになった。
 この「あとがき」によると、康成はこの2種類の写真を大切にしていたが、色んな事情で、とうとう失ってしまった。
 一方、伊藤初代の方も、二度の結婚後も、大切にしていたが、晩年、とうとう、これらの写真も、康成から受け取った写真とともに、失ってしまった。
 では、これらの写真は、永遠に失われたのか?



三明永無が保持していた!

 昭和47年(1972年)4月16日、川端康成は、自宅のある鎌倉から近い、「逗子マリーナ・マンション」の一室において、みずから多量の睡眠薬を飲み、ガス管をひねっておいて自裁した。
 その秋、日本近代文学館が主催して、『川端康成展――その芸術と生涯――』が開催された。新宿伊勢丹を皮切りに、全国諸都市を巡回したのである。
 その展覧会の準備にあたった、当時、川端康成研究の第一人者であった長谷川泉は、この機会に、川端康成の青春、いや生涯にわたって大きな影響を与えた伊藤初代のことも展示したいと考えた。
 長谷川泉は、すでに、川端の親友であった三明永無とも昵懇(じっこん)であった。

 そこで、岐阜の写真を持っているのは、三明永無しかないので、この写真を展覧会に貸してほしいと言った。三明は、応じた。(2種類の写真のうち、2人だけの写真は、川端と初代しか持っていなかったので、すでに散逸して、失われていた。3人の写真が1枚だけ、三明永無が大切に保存して、残っていたのである。)



原本を複製

 この展覧会には、事情があって、この写真は展示されることがなかった。(その事情は、別の項で、語ろう。)
 そこで長谷川は、この写真を3枚ばかり、写真館に依頼して複製し、その3枚は、1枚は長谷川自身が持ち、1枚は川端家に返還、そして最後の1枚は、当時、岐阜と川端康成の関係を掘り起こししていた岐阜在住の研究者・島秋夫に渡った。
 岐阜では、この島秋夫所持の写真が、さらに複製されて、出回っているようだ。
 また、川端家は、現在、公益財団法人・川端康成記念会が保持し、日本近代文学館に寄託されている。そこで、各新聞社は、この写真を用いるとき、(所定の料金を支払い、)日本近代文学館から取り寄せて、紙面に掲載するのである。



三明永無の遺品の中にあった!

 ところが、一昨年秋、それまで、名のみ知られて、その故郷も出自も明らかでなかった、三明永無の故郷が明らかになった。
 (これについては、この発掘に一役割を果たした私の論考がある。近日、このブログに発表する予定である。)
 三明永無の墓があり、誕生した寺でもある、島根県瑞泉寺を、『山陰中央新報』の石川麻衣記者が訪ねると、永無の遺品は大切に保存されており、その中に、「岐阜記念写真」も発見されたのだ。
 90年余りの歳月を隔てたため、写真はセピア色に変色し、ところどころに、白いシミが浮き出ていたが、その裏面には「大正十年秋」と、永無自筆の書き込みがあった。

 つまり、このとき発見された写真こそ、現在出回っている、岐阜の3人の記念写真の原本なのである。
 『山陰中央新報』は、この発見を何度も紙面に発表し、石川記者の署名記事も出て、全国紙も後追いの記事と写真を載せた。
 ところが惜しいことに、このとき『山陰中央新報』は、三明永無遺品の写真を修正してしまった。つまり、白いシミのない、きれいな写真にして、掲載したのである。このため、それ以前に発表された、長谷川泉経由の写真と区別がつかなくなってしまったのだ。



私は、三明永無遺品の写真を尊重する!

 しかし私は、新しく発見された、三明永無の遺品として残された、このシミのある写真をこそ、重視するものである。永無が終生、生涯の大切な記念として身につけていたものだからだ。大正10年の息吹がこもっている。
 幸い、瑞泉寺ご住職の三明慶輝(みあけ・けいき)氏も、『山陰中央新報』文化部も、「自由に使ってくださって結構です」と許可をくださったので、一昨年刊行の拙著『魔界の住人・川端康成―その生涯と文学―』上巻(勉誠出版)の表紙にも、口絵にも、使わせていただいた。
 今、多くの皆さんに知っていただきたいと、ここに掲出する次第である。



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