魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成の初恋 伊藤初代 10年後の再会「父母への手紙」(1)

2014-07-22 23:42:49 | 論文 川端康成
川端康成の初恋 伊藤初代 10年後の再会「父母への手紙」(1)

">「抒情歌」(じょじょうか)から「父母(ちちはは)への手紙」へ

 康成にとって、「抒情歌」の書かれた昭和7年(1932年)は、重要な転機をなす年であった。
 「抒情歌」と踵を接して「父母への手紙」が書きつがれ、翌昭和8年には「禽獣」が発表され、さらに10年から『雪国』の断続掲載がはじまる。また、康成のこの期における自己確認の書「末期の眼」と「文学的自叙伝」が8年と9年に書かれている。

 川端康成は自作の意味するところを最もよくわきまえた、鋭利な批評精神の持ち主であった。たとえば敗戦後の再出発期には「哀愁」、昭和40年代には「美しい日本の私」というように、生涯のそれぞれの転機に、それまでの歩みを検証し、再出発のための文学理論を提示することによって、あらたな創造の世界に踏みこんでゆくという、きわめて自覚的な作家であった。
 そのような康成の、初期作品に訣別し、新しい一歩を踏みだそうという時期に「抒情歌」は書かれているのである。

 しかもこの昭和7年(1932年)は、康成の青春を支配したといっても過言ではない伊藤初代と、1922(大正11)年に別れてから、ちょうど10年めにあたる年であった。康成の一人相撲といってもよいこの恋愛もようやく緊張が薄らぎ、康成の内部で整理されて、客観的にこの愛の意味を顧みる余裕のできた時期である。

 初代との再会があったのは「抒情歌」の発表直後、羽鳥徹哉によれば、この年の「『文学時代』4月号締切まぎわの3月頃」であるが、すでに再会以前に、康成の内面において、この一方的な恋愛はほぼ正確に見据えられていたと思われる。

 すなわち愛とは執着であり、そのよって来たるところは人間の自我にほかならぬ、という認識である。この絶望的な認識を得るまでに、康成は10年間の痛切な葛藤の期間を必要としたのである。その結果として発見されたのが、自我を離脱し、執着を滅却して「偽りの夢に遊ぶ」という秘法であった。
 草花への転生という「抒情歌」の奇抜な発想は、みずからの苦い10年間の執着の果てに生みだされたものなのである。

 川端文学初期の根本的テーマが〈孤児根性〉であることは言うまでもないが、その〈孤児根性〉からの脱出のねがいをこめた初代との恋愛もまた、康成を救抜してはくれなかった。「父母(ちちはは)への手紙」は、亡き父母に呼びかける形式によって、〈孤児根性〉の本質をいま1度問い直し、そこからの脱却を宣言した作品である。

 「抒情歌」もまた、いまは亡き恋人に語りかける形式によって、わが青春を支配した愛からの離脱を歌った物語であるといえる。
 最終的には、因果応報の輪廻思想を除いた仏教=ギリシア神話の花ことばに帰依することにより、自我を離脱して自由な世界に羽ばたくという「おとぎばなし」を造型し得たのである。
 かくて康成は初期のテーマに一応の決着をつけ、「禽獣」から『雪国』に至る次の道程に踏みだしてゆくのである。


川嶋至の伊藤初代論

 ところで、康成の青春に深い影響を残した伊藤初代のことは、第1章第6節、第7節において述べたが、ここでふたたび、初代の存在が大きな意味をもつことになる。

 作品における初代の役割を最初に指摘したのは山本健吉の前掲『近代文学鑑賞講座13 川端康成』を嚆矢(こうし)とするが、実地調査を加えて、という面からすると、三枝康高「特別レポート 川端康成の初恋」(『川端康成入門』有信堂、1969・4・20)、長谷川泉「川端康成における詩と真実」(『川端康成論考 増補版』1969・6・15)、羽鳥一英(徹哉)の「愛の体験・第1部」「愛の体験・第2部」「愛の体験・第3部」を収録した『作家川端の基底』(教育出版センター、1979・1・15)を挙げなければならないだろう。
 特に羽鳥の重厚な3部作は、伊藤初代の全体像を俯瞰したという意味で逸することのできぬものである。
 地道な実地調査によって貴重な発見をした点で、田村嘉勝の功も大きい。

 しかしながら、伊藤初代の存在を広く世に知らしめたという点では、川嶋至の果たした役割に及ぶ者はないであろう。
 川嶋は早くも大学院時代に伊藤初代の存在に着目し、「『伊豆の踊子』を彩る女性」(上下)を発表したが、これは注目されることなく終わった。
 川嶋はこの仮説にみずから信ずるところがあったのだろう、細川皓の名で雑誌『群像』の新人文学賞に応募した。
 入選はしなかったが、選考委員のひとり伊藤整の推挽によって、この評論は『群像』1967(昭和42)年年9月号に「原体験の意味するもの―『伊豆の踊子』―」として発表された。

 さらに、これを機縁に、講談社から川端康成論を書く機会を与えられた川嶋は『川端康成の世界』(1969・10・24)を出版した。
 この書において川嶋は、伊藤初代をモデルに描いた康成の一連の作品を非常に重要なものと考え、康成が青春時代の日記において、この女性に佐川みち子と名づけて記していることから、これらの作品を「みち子もの」と呼んだ。(一方、三枝(さえぐさ)康高は、「ちよ物」と呼んでいる。

   ……私は、この恋愛事件を川端氏の生涯の転機となった決定的な事件と見るし、後で触れることになる、事件の後日談と合わせて、氏の文学の方向を決めた、いわば川端文学解明の重大な鍵と見るのである。

 川嶋はこう考え、鈴木彦次郎、三明永無ら当時の友人、それに初代の妹まきなどに面接して独自の調査をおこなった。
この調査をもとに、川嶋は「伊豆の踊子」について、驚嘆すべき仮説を発表した。





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