魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成の手紙 初恋 運命のひと 伊藤初代(6)

2014-07-18 00:30:07 | 論文 川端康成
川端康成の手紙 初恋 運命のひと 伊藤初代(6)

康成の執着
 康成が書いた「南方の火」という作品は、現在、4編が残されている。康成の執着を語る、作品の多さだ。
 第一は、一九二三年七月十日、再刊された『新思潮』創刊号に載せた作品である。しかし康成はこの作品を未熟と見て、生前、どの刊行本にも全集にも載せなかった(37巻本全集第21巻収録。)。

 第二は、この『新思潮』作品の続稿と思われる原稿用紙四枚の断片である(37巻本全集第24巻収録)。

 第三は、のち小林秀雄たちと『文学界』を創刊したとき、それに連載しようと一度だけ掲載した(1934年7月1日)したものの、息がつづかず、そのままに放置されたもの(三十七巻本全集第22巻収録)。

 第4は、1927年8月13日から12月24日まで、129回にわたって連載された、康成の初めての新聞小説『海の火祭』から分離したものである。
 この長篇の第12章「鮎」に康成は改訂削除をほどこして、「南方の火」と名づけ、戦後、第一次全集に掲載した(37巻本全集では、第2巻収録)。

 これが現在、「みち子もの」の全体を語った完結版というところだろう。しかし内容には「篝火」「非常」「霰」などと重複がある。この長篇を、ここでは完結版「南方の火」と呼ぶことにしよう。
 康成は「独影自命」2の7で、その事情について、次のように述べている。

   「篝火」、「非常」、「霰」、「南方の火」の四篇は同一の恋愛を扱つた作品である。この事件を書いたものは一つも作品集に入れなかったわけである。
   大正10年のことで、私は23歳の学生、相手の娘は16歳、これらの4篇に書いた通りで、恋愛と言へるほどのことではなく、事件と言へるほどのことでもなく、「篝火」で10月8日に岐阜で結婚の約束をしてから「非常」の手紙を受け取るまで僅かに一月、あつけなく、わけもわからずに破れたのだつたが、私の心の波は強かつた。幾年も尾を曳いた。
   さうしてほかに女とのことはなかつたので、私はこの材料を貴ぶところから、「篝火」、「非常」、「霰」(原題「暴力団の一夜)などは草稿のつもりで作品集には入れずにおいた。私はこの材料を幾度か書き直さうとして果さなかつた。

 こういう事情で「南方の火」は、なかなか成稿にならなかったのである。
 しかし「南方の火」という題名について、康成にはよほど執着があったようである。その理由は、「南方の火」に託した、康成の思いの深さにある。

丙午(ひのえうま)の女
  「丙(ひのえ)は陽火なり、午(うま)は南方の火なり。」と「本朝俚諺(りげん)」に出てゐる。時雄はこの言葉が好きだつた。火に火が重なるから激し過ぎるといふのだ。弓子は火の娘なのだ。「丙午の二八の乙女」――この古い日本の伝説じみた飾りも彼が夢見る弓子を美しくする花火だつた。その上に弓子の星は四緑だつた。四緑は浮気星だ。四緑丙午だと思ふことは一層彼の幼い小説家らしい感傷を煽り立てるのだつた。
   美しくて、勝気で、強情で、喧嘩好きで、利口で、浮気で、移り気で、敏感で、鋭利で、活発で、自由で、新鮮な娘、こんな娘が弓子と同い年の丙午生れに不思議に多いことを、時雄は六七年後の今でも信じてゐる。
                                                   (「海の火祭」、「鮎の章)

康成の女性に対するきらびやかな夢を託した言葉――それが「南方の火」だったのである。


漂泊の姉妹

 この恋は、婚約してから一ヶ月足らずで終わってしまったが、康成の中では長く尾をひいた。
 康成は「独影自命」の中に、古い日記を引用して、繰り返し、みち子への慕情を告白している。

 大正11年(注、1922年)4月4日
   岐阜の写真屋より送り来し例の写真袋を取り出して、みち子と二人にて撮りし写真を見る。いい子だつたのに、いい女だのにの念しきりなり。彼女の手紙読む。一時は本当に我を思へる如き文言の気配を嗅ぐ。いい性質文面に現はれたりと思ふ。哀愁水のごとし。(3ノ1)

 大正12年(注、1923年)11月20日
   地震に際して、我烈しくみち子が身を思ひたり。他にその身を思ふべき人なきが悲しかりき。
9月1日、火事見物の時、品川は焼けたりと聞きぬ。みち子、品川に家を持ちてあるが、如何にせるや。我、幾万の逃げ惑ふ避難者の中に、ただ一人みち子を鋭く目捜しぬ。(3ノ4)

 大正12年1月14日
   九段より神田に徒歩にて出で、神保町近くにて、電車の回数券を石濱(注、金作)拾ふ。金なき折なりしかば、これに勢ひを得て、浅草行きを決す。
   松竹館の前に立ち、絵看板を見て、余愕然とす。「漂泊の姉妹」のフイルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。ふと、みち子、女優になりしにあらずやと思ひしくらゐなり。みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子を思ひ、強ひて石濱を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。十四五歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子としか思へず、かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀恋の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを、辛うじて堪ゆ、石濱、「みち子に似てるぢやないか。」余ハツとして「さうかなあ。」と偽りて答へたるも、後で是認す。痛く動かされて心乱る。余の傾情今もなほ変るはずなく、日夕アメリカのみち子に思ひを走らす。(中略)活動小屋を出でしばし言も発し得ず。(4ノ1)

 そのころ既に、みち子が浅草のカフェ・アメリカに出て働いていることも、品川辺に住んでいるらしいことも、噂で知っていたようだ。しかし、このような思い込みは、まだつづく。

 大正15年(注、1926年)3月31日

   大仁駅にて、仙石鉄道大臣そつくりの老人の後より車室に入り来りし女、彼女にあらずや。小説「南方の火」、「篝火」なぞに書いた女だ。傍を通る時、よく見る。首白く、手白し。その昔、彼女手を上げて髪を直す時なぞ、紅き袖口よりこぼるる肘(ひじ)の鉄色なるが悲しかりしを忘れず。20になれば肌白くなるべしと祈るやうに思ひしを忘れず。神わが祈りを哀れみしか、彼女今や白し。されど彼女のうしろに青年紳士の従ふあり。小  意気なる季節の洋服を纏ひ、温雅なる風貌なり。
   30を過ぎたるべし。彼女も臙脂色(えんじいろ)のコオトの下に趣味よく着飾れり。賢き女なれば教養ある良家の子女の如き趣味に進みたるらし。二人の身辺に豊かなる生活の匂ひ温かなり。彼女僕に気附けるものの如く、車室の最後部の席に坐す。僕屡(しばしば)、首を廻らして、女の顔を見る。
   藤澤駅より片岡鉄兵、池谷信三郎君と共に乗り来る。(中略)
   二人座席なかりしかば、僕も席を棄てて立ち話す。これにて彼女の胸から上見ゆ。彼女目を閉ぢ頬を紅らめなぞして、苦痛を現はす。何  が故に苦しむや。僕これを悲しむ。僕憎めるにも咎めるにもあらず。唯単純に顔が見たいのだ。五年振りにて会い、またいつ見られるか知  れぬ顔を見たいのだ。美しくなり幸福になつた顔を明るい気持で見せてくれることが出来ないのか。彼女何が故に苦しみの色を現はすや。  彼女にも巣食へる感情の習俗を悲しむ。(6ノ5)

別れてから5年たっている。あのころ悲しかった鉄色の肘(ひじ)も、今は白くなっている。豊かで幸福な妻になっている。それを康成は素直に祝福したいと思う。それなのに、彼女は顔に苦痛の色を浮かべて自分の視線を避ける。
 しかしこれも康成の思い込みに過ぎなかった。みち子が栗島すみ子でなかったように、この女性も遠い別人であった。
 というのは、そのころみち子は、悠長な旅行を出来るような境地にはいなかったからである。
 前引『伊藤初代の生涯』によると、そのころすでに初代は、浅草のカフェ・アメリカで支配人をしていた中林忠蔵と結婚し、一女珠江をもうけていた。中林は長身の美男子であった。多くの女給の中から、支配人であり目の肥えた中林が初代を妻に迎えたということは、初代のよき気質を見抜いてのことであったろう。

 ところが1923(大正12)年の関東大震災でカフェ・アメリカも倒壊した。とてもすぐには再建できない。
 青森県黒石町(現、黒石市)の出身であった忠蔵は、思い切って仙台に行き、そこでカルトンビルのカフェに勤め、支配人になった。カルトンビルは、当時、仙台で唯一の五階建てビルであったという。忠蔵は能力を買われたのであろう。
 11月、初代は母となった。逆算すると、遅くとも1922年(大正11年)末には、中林と結婚していたことになる。
 母となった初代は、江刺から父親忠吉と妹マキを招いた。苦労した父に孝養を尽くすことが、初代の永年の夢だったからである。しかし忠吉は来ず、マキだけが来た。

 それでも、4人の幸福な生活が現出した。初代の生涯で、あるいはいちばん幸福な時期であったかもしれない。
 1924年になって、忠蔵が病に倒れた。結核性の病気であった。よい医者のいることを考え、一家は東京に戻ることにした。赤ん坊の珠江は忠蔵の伯父にあずけ、マキを連れて東京に出た。初代はふたたびカフェにつとめて夫の療養費をかせいだ。妹マキが忠蔵の世話をした。
 忠蔵は1926(大正15)年の半ばに世を去った。初代は夫の郷里黒石で立派に法要をいとなんだ。

 そのような夫の療養のさなかに、初代が鎌倉近くの汽車に乗るはずもなかった。すべて康成の幻想である。
 岐阜・長良川の「篝火」において頂点に達した康成の夢は、こうして無惨な終幕を迎えることになった。
 そして時間を経るにつけ、結婚の約束をして長良川の鵜飼を見た、あのときの情景が、あたかも原風景のように、康成の脳裡に浮かぶようになったのである。


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