般若心経を撮影しました。

2019-05-30 09:16:49 | 私の在家修行

毎日仏教の在家修行を行っています。その中の一つ般若心経を読んでみます。1年以上かかり、般若心経をやっと覚えることができました。今度は長いお経の観音教を覚えたいと存じます。この他写経、座禅を毎朝行っています。庭や室内の掃除、片付けも修行の一つになります。もう少ししたら夕方にも行いたいと思います。

毎日行う事に価値がありますので休むことはありません。

https://www.youtube.com/watch?v=sEMimhNMIa0

 


考え(理性と妄想)

2018-02-11 13:51:42 | 私の在家修行

ブッダの教えには考えは苦*1、と言われることもありますし、熟慮して真実をありのままに見なさいと言われることもあります。一見、考えては駄目なのに熟慮するの?と矛盾している様に思えます。

 この「考え」と言う単語がくせものなので、言葉の定義をしっかりする必要があると思います。駄目だと言われるものは、身勝手から生じる「妄想」です。例えば「あ~宝くじが当たらないかな。」とか、「あの人好みだなお近づきになりたいな。」などと言うのが典型的な妄想です。こういう事は考えれば即苦になりますので「考えは苦」あるいは「行(サンカーラ)は苦」と言われます。

 しかし、身勝手のない思考、真実をありのままに見る思考は必要です。例えば前回述べたような「何故エレベーターで待たされて不快になるのか、腹が立つのか」とか「なぜ人は苦と感じるのか」などと言う事実を良く分析するような思考は理性であり必要です。これも日本語では「考え」に含まれますので混乱の元です。欲と正しい希望の話の様にしっかり区別する必要があります。

 つまり身勝手から生じるあらゆる考えは苦ですが、真実をありのままに見て苦を減らすために理性で行う考えは苦を減らすために必要なものです。後者は完全な客観なので、身勝手な「我」が介在する余地がないと見ることが出来ます。あるいは完全な客観視には主観から「生じる」勝手な理屈で何かを作り出しておらず、「見る」だけなので「行」(作り出す事、サンカーラ)ではないと見る事も出来ます。いずれにせよ矛盾はありません。

 以上の理由から、単に「考えるな」と言ってしまうのは若干誤解を招く表現だと思います。ブッダも熟慮して苦の原因を明らかに見て大悟したのであり、全く何も考えなければ四聖諦を悟ることはできませんでした。こういう真実を見るための思考は必要ですし、ブッダも真実をありのままに見る様に勧めています。つまり、ありのままに「見る」すなわち熟慮する事と、苦になる「考え」とをはっきり区別していないと、こう言う混乱が生じます。これは欲と正しい希望とを混同するのとほとんど同じ理屈で生じる間違いです。

 結論として欲が原因で「ああなって欲しい」とか「こうなったら良いな」と考えたり、楽しいことや夢中になることを妄想する様な「考え」は苦になりますから止めた方が良いでしょう。

*1:経典にはヴィタカ「尋」とヴィチャーラ「伺」として「考え」の話は非常に詳しく述べられていますが、これらの話は縁起なども含めてあまりに詳細になるのでここでは述べません


1_ 弥勒菩薩研究 (みろくぼさつ)

2018-02-04 19:18:43 | 私の在家修行

1_ 弥勒菩薩研究  https://www.youtube.com/watch?v=mSphqohMAws


1_ 般若心経研究

2018-02-04 18:37:03 | 私の在家修行

1_ 般若心経研究   https://www.youtube.com/watch?v=dahuaX1cRj4

素晴らしい内容です。是非ご覧ください。

 


頭を坊主にしました。

2018-02-03 09:24:17 | 私の在家修行

私も老人になり、頭が半分ほど剥(は)げていました。1年ほど前から、坊主頭にしょうかと迷っていました。しかし、なかなか決断ができなかった。そうしたところ、1週間ほど前から在家修行を始めたのでこの際坊主頭にしました。まだ寒い日が続くので頭が寒いが少し我慢しよう。今朝は、髭剃り洗顔のあと頭も洗いました。頭髪がないので簡単に洗えてすぐ乾きます。頭も清潔になり気持ちが良い。


座禅の方法

2018-02-02 15:40:46 | 私の在家修行

http://www.white-family.or.jp/healthy-island/htm/repoto/repo-to357.htm

座禅にはともすれば厳しい修行のイメージがつきまというが、寺院が主催する座禅会では若い女性の姿も目立つようになってきた。「気分が引き締まった」との感想に加え、「美容と健康にもいい」といった声も。とかくストレスのかかる現代社会。自宅での日常生活にも、座禅のエッセンスを取り入れてみよう。

自宅で座禅に取り組む場合は、多少の環境整備が必要となってくる。まず、一番静かで心が落ち着くスペースを探そう。部屋の明るさは、明るすぎるよりやや暗めな方が落ち着く。ほんのりとした明るさを確保するためにアロマキャンドルを使うのもいい。お香をたけば、座禅時間を知る時計がわりにもなる。

そして、できるだけ静かな環境をつくる。テレビやBGMはもちろんオフ。携帯電話の電源も、自分と向き合う間ぐらいは切っておきたい。気が散りそうなものは、視野に入らないように片づける。腕時計や眼鏡、指輪などのアクセサリーははずし、服装もゆったりとした着心地のいいものを。冬の寒いときでも、ストッキングや靴下を脱げばスッキリした気持ちになれる。

座禅の前の食べ過ぎはよくない。睡魔を呼び込んでしまうからだ。逆に「おなかがすいた」と雑念がわくのも困りものなので、腹具合はほどほどに。寝不足も要注意だ。

一通り用意が整ったら、座る前に合掌一礼。顔の前で合掌し、へそから腰を折るような形でお辞儀をしよう。「いよいよ本番」と、気持ちが引き締まる。

座る際にはまず、お尻の位置を高くすることがポイント。その方が背筋をまっすぐ伸ばせるからだ。座布団が2枚あれば、1枚は折り曲げたりして尻の下に敷くといい。

足の組み方は2通り。理想的な「結跏趺坐(けっかぶざ)」と呼ばれる座り方は、左右それぞれの足の甲を反対側の足の太ももの上に乗せる座り方。どちらの足が上でも構わない。足を組んだら、背筋を伸ばし、腹を前に突き出すようにして姿勢を整える。

「体が固くて結跏趺坐は難しい」という人なら、片方の足だけを組む「半跏(はんか)趺坐」でもいい。要は安定した座り方ができればいいのであり、足を組めなければ正座でも構わないし、イスに姿勢を正して腰掛ける「イス座禅」もある。

手は組んだ足の上で、両方の手のひらを上に向けて、左手と右手を上に重ねる。親指と親指を軽くくっつけ、ヒジは体から離す。あまり姿勢のことを意識するとかたくなるので、肩の力を抜いてリラックスしよう。

目線は半眼だが、無理に半分閉じる必要もない。1メートルほど先に視線を落とす。凝視せずぼんやりと眺めるようにすれば、おのずと半分閉じた状態になる。目を完全に閉じた方が集中できるよに思えるが、実は逆。かえって様々な考えが浮かんでしまうので、己と向き合うという座禅本来の目的にはそぐわない。

口は意識して閉じ、座禅中の呼吸はすべて鼻でする。呼吸法は複式呼吸だ。下腹部に力を込める丹田呼吸ともよぶもので、ヘソ下の丹田を中心に意識する。体中の空気を全部出すつもりでゆっくり息を吐いた後、さっと静かに息を吸う。このときに肩を上下させないように意識するのがコツだ。普段の呼吸回数は1分で17、8回だが、上達すると5、6回になるという。

「ふーっ」と長い息や深呼吸をすると不思議と心が落ち着くのは、普段でもよくあること。大量の空気を送り込むため、基礎代謝が高まって血の巡りもよくなる。冬場の道場での座禅でも「不思議と寒さを感じない」というのは、実は丹田呼吸のたまもの。ストレスが原因で肌が荒れたり便通が滞ったりする人は少なくないが、ちょっとした時間を見つけて丹田呼吸に取り組むだけでも、効果を期待できるときがあるので試したい。

座禅の時間は初心者なら10分、上級者なら30分ほど。といってもこれはあくまで目安。頑張りすぎはよくない。「座禅はガマン大会ではありませんから」と臨済宗龍源寺(東京・港)の松原哲明住職も言う。

体を整えて息を整えたら、心を整える――。これが座禅の手順だ。雑念を払い無心の状態に心を持っていくことは決して簡単ではないが、「あせらず続けてほしい」と松原さん。コツをつかむためにも、寺院の座禅をたずねてみるのもいいだろう。


 

風之荘「円相」14萬壽寺行の1日

2018-02-02 15:16:16 | 私の在家修行

風之荘「円相」14萬壽寺行の1日

https://www.youtube.com/watch?v=FJNcaDfGc3I

まず自分の周り、親、兄弟、親族、近所の人を大事にしましょう。それが今、決定的に失われていることです。それが、老夫婦、老人の一人暮らしが大半になったことに現われている。若者に「なぜ親を大事にしないのか」と叱責したい!


今後は、在宅で仏教の修行を行います。

2018-02-02 11:16:22 | 私の在家修行

私は今後、一切の欲望をなくして仏教の修行に専念します。毎日座禅、お経、写経、仏教の勉強、歩き、掃除などを行います。禅宗の修行僧と同じ様な暮らしです。1年間かけて徐々に本格化したい。

朝の起床時間、食事なども習いたい。又、テレビ、パソコンなど余った時間の暮らし方、服装、布団、冷暖房等も徐々に見習いたい。焦らず、地道に毎日続ける事が大事だと思います。そうすれば、神経症、体調不良なども治るかもしれません。そして夫婦の暮らし、子供達との関係なども徐々に改善します。


小池龍之介『考えない練習』書籍紹介。座禅瞑想のすすめ

2018-02-01 20:24:57 | 私の在家修行

小池龍之介『考えない練習』書籍紹介。座禅瞑想のすすめ

https://www.youtube.com/watch?v=sVv2fpaI9Rs


自宅で座る

2018-01-31 19:58:23 | 私の在家修行

自宅で座る

https://www.youtube.com/watch?v=YPPckQQGrEE


座禅とは

2018-01-31 19:02:14 | 私の在家修行

座禅とは   https://www.youtube.com/watch?v=bnXJg5Oj7sM


お酒を止める(○○を止める)

2018-01-30 12:05:12 | 私の在家修行

お酒を止める(○○を止める)       http://mucunren.hatenablog.com/entry/2015/03/19/193507

 喜びの満足の威力から生じる欲望が苦の原因だと言うのがブッダの教えですが、それを聞いただけで誰もが「はい、わかりました」と言って大好きなお酒、食べ物、テレビ、音楽、性的な行為云々の喜びの対象を止められるならそれこそ「苦」労はありません。

 「言うは易し、行うは難し」と言われる様に、何でも言葉にして簡単に実行出来るなら苦労はありません。誰でもそうそう自分の気に入っているもの、のめり込んでいるものから離れることは出来ないのです。それどころか、のめり込んでいればいるほど離れることはとても難しいでしょう。

 ブッダはテレビや音楽、美食などと言った喜びの受全てについて次の様に言っています(当たり前ですが当時テレビはありません)。

 六処入(六根)が(無常なので)維持できないことを知り、満足の威力から生じる旨味を知り、凶悪な害を知り、そして離れる方法を真実のままに知れば、その聖なる人は預流者であり、落ちて普通になることはなく、涅槃が確実で将来必ずダンマを全て悟ると私は言います。 相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻271頁92項

 つまり、六処入であるところの目でも、耳でも、鼻でも、舌でも、体でも、心でも、普通の人は喜ばしい受(感覚)をしょっちゅう求めているのでいつも落ち着きがありません。どこも痛いところや苦しいところがなくても、この様な心の状態が既に苦なのです。

 では実際にのめり込んでいる享楽、楽しみからどう抜け出したら良いのでしょうか。一番手っ取り早くて簡単なのは、出家してブッダについて行く事です。出家した時点で物理的に所有できるものはほとんどありませんし、戒律を守れば六処入の楽しみからも離れなければなりません。もう六処入を楽しむ事が環境的に不可能になります。出家の生活に慣れればその時点で享楽からは離れていて、身勝手さが減るとその生活が非常に清潔で、穏やかな最上級の幸福、つまり世俗を超えたローグッタラの境地である事を知ります。

 もちろん、通常の人の考えではブッダはもう亡くなっているし、出家なんて出来ないと思うでしょう。しかし可能です。今の日本で(日本でなくてもどこでも良いです)働きながら、学校に通いながら、家に住みながら出家してブッダについて行くことは可能なのです。

 この話は長くなるのでまた後で述べたいと思いますが、今回は全ての趣味、享楽を止める方法を説明します。

 私は以前毎日お酒を飲んでいたのでお酒で例えます(今は害が見えて完全に止めました)。お酒の代わりに音楽など他の趣味でも構いません。

 大体のめり込んでいるものは毎日やります。音楽などは酷い人だと24時間ヘッドフォンを耳から外さないとか、頭の中でずっと音楽が鳴っている人もいるでしょう。不愉快に思われるかもしれませんが、こう言う状態は心が一瞬も落ち着く事が出来ないのでターン・プッタタートが仰る所の「目一杯苦」になっています。

 実は趣味や楽しみと言うのは苦だと(せめて知識としてだけでも)知ることは、そこから離れるための絶対必要条件です。

 ただいきなりは離れられないので、毎日やっているなら月に一日は休みます。一日丸々休めないなら、月に一度一時間止めるとかでも構いません。とにかく可能な範囲で離れている時間を増やすのがポイントです。

 ずっと家にいる人で一日中テレビをつけているなら、一日一時間この時間帯だけは絶対にスイッチを切るとか、三ヶ月に一度とかでも見る番組を減らすなどの試みでも大変有効です。

 これは続ける事が大切なので、三日坊主にならないように例えば三ヶ月単位とか、一週間続けてできる方法を各自で決めれば良いと思います。

 お酒なら月に一日休む、それが出来る様になったら二週に一日休む、週に一日休む、、、一日おきにする、週に一日にする、、、とやっていればいずれは止められる理屈です。

 趣味を止められた状態になると、その時に客観が生じます。「自分は何であんなに夢中になっていたんだろう?」と。膨大なお金と時間をつぎ込んで来たものが、実は空っぽのもので、自分の苦を減らすことに何の役にも立たなかったどころか、むしろ色々な苦をもたらしていた事に気付きます。これが「害が見える」と言うことです。旨味と害の全てが見えれば、毒をわざわざ飲む人がいないのと同じで離れる事が出来ます。これをブッダは「知り尽くす」と言っています。

 害より旨味の方に目がくらんでいるうちは、絶対に離れられないので必ず旨味を貪ります。しかし、害が見えれば離れられます。離れられれば旨味と害両方を知ったので「知り尽くした」と言えるのです。

 仏教徒を名乗っている人でも、お金や異性、承認欲求、色んな趣味に目がくらんでいる人は沢山います。不思議に思うかも知れませんが、これは中々自分では気付けない事なのです。だから気付かずに、自分からお金や異性などの目がくらんでいる話をします。

 話を戻しますと、離れる(知り尽くす)コツはとにかく無理の無い範囲でやって、「長く続ける」事です。これが出来れば一度も病院に行かずに、一円もかからず全ての享楽から抜け出す事が出来ます。ブッダの教えは絵空事ではなく、実現可能な事しかありません。


在家で出家する

2018-01-29 20:24:51 | 私の在家修行

在家で出家する    

  http://mucunren.hatenablog.com/entry/2015/03/19/193507

 こちらのターン・プッタタートの短文にもあるように、在家、つまり普通に家に住んで仕事の収入で生活する人でも出家に近い修行をすることは可能です。

 そもそも悟るためには何をしなければならないのでしょうか。それは家から外に出る事ではない事は明らかです。何故なら家の外に住んでいて、仕事をしない人が悟れるのなら、この世に悟れる人は大勢いることになります。しかし、事実は明らかにそうではありません。

 悟るためには執着を捨てることこそが必要なのです。このためには心を正しい状態に保ち、行いも正しくして避けるべきものを避けます。悟るにはこれらの努力をして「自分と呼ぶような実体はない、なりたい、欲しいと思うものは何もない」と心の底から納得することが必要です。

 つまり、仮に家に住んでいても、その家、場所に執着しなければ外でもお寺でも家でも場所は関係なく悟れると言う事です。ブッダが出家を勧めたのは、家に居れば嫌でも色々な享楽や所有物に関わる機会が増えるので、悟るために大変効率が悪いからです*1。しかし家に居たとしても家も含めて全ての物事を「自分のもの」とか「自分の所有している機会」などのように間違って見ず、あらゆる享楽から離れていれば、これは「梵行(ぼんぎょう)」となりますので出家とほぼ同じ生活になります。

 本当に単純に、寝る場所が外であるか、壁の中であるかの違いだけです。むしろお年寄りや体力のない人などは、無理に出家して外で生活していたら、悟る前に身体を壊して死んでしまうかもしれません。そうなっては元も子もないので、在家で出家するつもりで生きることは、現代の人にとって非常に現実的な方法と言えます。かく言う筆者もそのように生活しています。

 ブッダは、ブッダの教えを正しく理解して梵行をしている人は身体が遠く離れている場所にいても如来ブッダの一人称)の近くに居るが、心を正しく修めていない人は身体が近くに居ても如来からは遠くに居ると言っています。

 もちろん在家の人は世俗と関わらなくてはいけないので、仕事や生活に使う物や身分などの何かしらを所有しなければなりません。ですからこれらの所有を心の底から「自分のもの」と掌握すれば執着ですので悟りからは遠ざかります。また、既婚者だと性交から完全に離れる事は難しいでしょう。しかしこれら全ての所有は「一時的な預かりもの」「レンタル品」と正しくみなせば、何かを「自分のもの」とか「自分自身」とみなす見解(有身見:うしんけん)から離れるのと同じように過度な執着はしなくて済みます。性交についても夫婦が互いにそれが苦だと明らかに見えれば、離れる事は不可能ではありません。いきなりは無理でも、少しずつ心がければいずれ可能になります。

 このように生きると、命を繋ぐための最低限の事以外に使うお金は無いので、心はダンマで仕事をします。このように仕事をすると義務を果たした(仕事を布施とした)満足感がある上に、お金も増える一方です。欲が無いので余計な事にお金を使わないからです。

 ブッダは在家の人間は収入の1/4を生活に、1/4を仕事に、1/4を困っている人を助けるために、そして残りの1/4を将来の不測の事態に備えるために蓄えよと言っています。人にもよると思いますが、今の時勢では収入の半分を自由に使える人は中々いないかもしれません。しかし、生活を非常に質素にしてあらゆる享楽(酒、たばこ、あらゆる趣味嗜好)を止めれば生活と仕事に使うお金は2/3位で済むかもしれません。そうして残りの1/6を困った人を助けるために使い、1/6を将来のために蓄えることは出来ます。この割合は各自の事情に応じて、人それぞれで構わないでしょう。

 心がブッダに近づけば、その人はブッダの近くに居ます。一千一万のお経を暗記しても、感情に心が支配される人はブッダから遠い所に居ます。 極端な話教えを全く知らなくても怒らない人、感情の支配下にない人はブッダのすぐ近くに居ます。

 ですから在家の生活をしていても、心をブッダの近くに持っていくための、在家出家は可能です。もちろんお金や取引に関わりを一切持たず、食と生活必需品だけ托鉢する本当の出家の方が梵行としては優れていると言えますが、残念ながらこの様な本当の行を薦める寺院は今は本当に少ないです。

 それに皆さんがすぐ行える上記のような在家出家は現実的かつ非常に効果的な実践であり、一部のお金儲けが目的のお寺や戒禁取だらけのお寺で出家するよりはるかに良く、お勧め出来ます。

*1:厳密にはそれだけとは言えませんが、こう言ってもそう大きな間違いではありません


サマタ瞑想

2018-01-29 10:19:30 | 私の在家修行

私の仏教、瞑想修行より  http://hachisu-net.com/issei/kouen2.html

布施、戒律、ときて最期はいよいよ修行になります。

先ほど修行についてはサマタ瞑想とヴィパサナー瞑想だと簡単に説明致しました。そこで最後にサマタ瞑想の一つになりますが、お約束の慈悲の瞑想の説明をいたします。人間として生きる大事な目的の一つに心を綺麗にすることと説明しました。この瞑想は心をきれいにする特効薬です。

知恵の瞑想であるヴィパサナー瞑想は、これは言うなれば強力な爆弾みたいなものです。実践によって欲や怒りや苦しみなどを消滅してしまう方法ですから、これは時間をかけて行わないといけませんので、今日はちょっと無理だと思います。ですからもう少し易しい、誰でも出来る瞑想法をお教えいたしますので、ぜひやってみてください。

皆さんにお渡ししましたプリント、これに慈悲の瞑想というふうに書いてあります。私が幸せでありますように、と書いてあります。言葉を使って、自分の心を直す為の瞑想法です。要するに阿弥陀念仏やそういうものと同じようなものなのです。ただし自分の心を慈しみの心に変えるという目的があります。

心というのは不思議なもので、同じ心で長い間いますと、そのような心になってしまいます。ですから、いつも怒っている人は、何かあるとすぐに怒ってしまう癖がある心になってしまうのです。怖いんですよ、だから。注意しませんと、しょっちゅう怒っている人はすぐ怒るような心を持ってしまいます。

ですから、逆にいつでも慈しみの心を持っていますと、慈しみの心が育ってくると言うわけです。人に対する優しい心、慈しみの心、その心を育てなくけりゃいけないんです。実際には人間にはそういう心があまりありません。残念ながらほっとおけば本心は悪い事しかしたがりません。だからこそ、無理やりにもこのような慈しみの心を育てなくちゃいけないのです。

心を育てる方法はボランテイァを行ったり、人の為に尽くしたりする実践の方法がありますが、これは喜んで行わなければ善い心が成長しません。ですから、難しいのですが、一番早い方法は、心は同じ心を繰り返す事によって、その心になっていくという法則ですから、心の中で他の人の幸せをただ祈り続けるのです。祈るだけですから誰でも出来ます。一番いいのは毎日夜寝る前にこの瞑想を30分やることです。そうすれば必ずそのような心に近づいてきます。

幸せというものは、人間関係が主ですから、人間関係が楽になれば必ず幸せに近づきます。人から求められる、人から頼りにされる、という人は非常に幸せな人生を送れるものですから、ぜひこの心を作って頂きたいと思います。

仏教は実践あるのみです。百万べんお経をよんでも一回の実践にはかないません。瞑想実践しない限り仏教を理解したとは言えないのです。仏教は瞑想というものが実際にあって、進んでいくもんなんです。仏教には沢山の法話がありますけど、千回法話を聞いても実践しなければ聞かないのと同じです。実践しなければ心は出来ないのです。

だから一番簡単な実践方法である瞑想をやりましょう。夜寝る前で結構ですから、みなさん「なむあみだぶ」と拝みましたら、その後に慈悲の瞑想をやってみて下さい。

ではどういうものかというものを覚えてください。代表的な四つの心「慈」と「悲」と「喜」と「捨」と四つあるんですけど、日本語で読むと慈悲・喜捨なんですよね。最初慈悲と喜捨と私も読んでいたのですが、間違いです。慈と悲と喜と捨との四つです。

パーリ語でいいますと、「慈」メッタと「悲」カルナと「喜」ムディターと「捨」ウペッカと言います。人間が作らなければいけない四つの心なんです。人間が育てなくてはならない四つの心、これが善い心の基本なんです。この四つの心を育てましょうという事なんです。

最初が慈しみの心ですね。この心はすべての人に対して、自分の親友のごとく友情の心を造りましょうということです。親が子供に持つようなそんな慈しみの心をすべての生命に対して持ちましょうということです。「幸せでありますように」といつでも祈る心があればどんんどんできてきます。

それから二番目の「悲」の心は苦しんでいる人を助けたいと思う心です。悩んだり、苦しんだりしている人を見たら助けたい。そういう人に対して何とか救ってあげたい、と積極的な行動に出る心です。足が悪ければ手を引いてあげましょうとか、おぶってあげましょうとか、そういう風に積極的に苦しみに対して何かしたい、食べるものがなければあげるとか、苦しんでいる人間に対して何とかしたいと思う心です。

オリンピックで日本の選手が金メダル取った時など、ああ良かったと、共に喜びますけど、どんな人に対しても共に喜べればこの心は完成します。

最後は「捨」の心。この心は修行者の心です。何に対しても平等な心、平穏な心というものなんです。これは修行しなければ出来ない心です。ほとんど解脱に近い心だと言われております。

慈・悲・喜の三つの心は順番に育てていく事も出来ますし、得意なものから育てていく事も出来ます。慈しみの心が強い人は慈しみのこころから。人の苦しみを見ていられなければ苦の心からつくりましょう。

それでは、瞑想の言葉を唱えてみます。同じ言葉を心に染み入るように唱えて、その心を造るという方法ですから、皆さんもご一緒に心の中で唱えてください。

ですからまず自分の幸せを祈りましょう。自分が幸せになりますように、自分が幸せでありますように、というように祈りましょう。

なぜ自分の幸せを先に祈るのかと言えば、人間は自分優先に考えていますので、まず自分の幸せがあって人の幸せがあるというのが普通なんです。ですから、自分の幸せをまず願い、その幸せのこころで人の幸せを祈るのです。

それでは、自分の幸せを心から祈ってみて下さい。明るくなります。気持ち良くなります。それを体験して人の幸せを祈るというとこへいきます。私が幸せでありますようにと、一緒に唱えて下さい。

『慈悲の瞑想の実践の言葉』
  • 私が幸せでありますように。      「慈しみの瞑想」
  • 私の悩み苦しみが無くなりますように。 「悲の瞑想」
  • 私の願い事が叶えられますように。   「喜の瞑想」
  • 私に悟りの光が現れますように。    「捨の瞑想」

基本の瞑想の方法としては、「私が幸せでありますように」「私の悩み苦しみがなくなりますように」「私の願い事が叶えられますように」「私に悟りの光が現れますように」と3回繰り返して祈ります。そして、最後に再び「私が幸せでありますように」と数回強く心に念じます。明るい心が出来てきたら、次に進みます。

    • 私の親しい人々が幸せでありますように。
    • 私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように。
    • 私の親しい人々の願い事が叶えられますように。
    • 私の親しい人々にも悟りの光が現れますように。

 

  • 私の親しい人々が幸せでありますように。

同じように親しい人々の幸せを祈ります。親しい人々の顔を思い出しながら祈ってください。祈れば、あらゆる事がきっとうまくいくと思います。親しい人々が幸せでなければ、自分の幸せもありませんから。

最後にすべての生命にたいしての幸せを祈ります。これは、人間だけでなくあらゆる生きるものすべてに対して幸せを祈る言葉です。世界中がこのような心で祈れれば、きっと戦争もなくなるのでしょうが。

    • 生きとし生きるものが幸せでありますように。
    • 生きとし生きるものの悩み苦しみがなくなりますように。
    • 生きとし生きるものの願い事が叶えられますように。
    • 生きとし生きるものにも悟りの光が現れますように。

 

  • 生きとし生きるものが幸せでありますように。

言葉を唱えて、ただ祈るだけです。誰でもできます。この瞑想は幸せを約束してくれる呪文です。どうかわすれないでいつも唱えてください。


一日一生

2018-01-28 17:11:33 | 私の在家修行

http://hachisu-net.com/salon/miyazaki-1.html

一日一生

釋 和顔

今夜は故人のためにお参りいただきましてまことにありがとうございます。折角の機会ですので少しばかりお話させていただきます。皆さんは大島みち子さんという名前を憶えておられますか。顔の軟骨が次第に腐っていくという難病に侵され二十二歳という若さでこの世を去った女性です。彼女が主人公となった「愛と死をみつめて」という本・映画が一世を風靡しました。

その彼女がこんなことを言っています。

病院の外に健康な日を三日下さい。

 一日目、私は故郷に飛んで帰りましょう。そして、おじいちゃんの肩を叩いて、それから母と台所に立ちましょう。おいしいサラダを作ってアツカンを一本つけて、妹たちと楽しい食卓を囲みましょう。

 二日目、私は貴方の所へ飛んで行きたい。貴方と遊びたいなんて言いません。お部屋を掃除してあげて、ワイシャツにアイロンをかけてあげて、おいしい料理を作ってあげたいの。そのかわり、お別れの時やさしくキスしてね。

 三日目、私は一人ぼっちで思い出と遊びます。そして静かに一日が過ぎたら、三日間の健康ありがとう、と笑って永遠の眠りにつくでしょう。

 もしあなたが彼女の立場だったらどうでしょう。考えてみて下さい。

 昨日生きていたから今日も大丈夫。今日生きているから明日もきっと・・。

そうですか、みなさん。人間の死亡率は百%。誰も明日、いや一寸先の命も保証されていないのです。

 「一日一生」という言葉があります。朝に生まれて、夜寝る時に死ぬ。朝起きた時「今日も新しいお命をいただいてありがとうございます!」。夜寝る時に「今日も無事に生かしていただきました。ありがとうございます」。感謝に始まり感謝に終わる一日。そういう充実した人生を送るために、私たちは仏様からお命を賜っているのではないでしょうか。

 本日は亡き故人様のお姿に接して、日頃顧みることの余りない「生とは?」「死とは?」という人生の一大テーマを改めて考えてみるチャンスにしていただけますれば、故人もさぞ満足されるのではないでしょうか。

 ご静聴ありがとうございました。(了)