おしょうしな満腹日記~伊豆のお家ひまわり~

米沢スキー場ペンションおしょうしな跡地です。
2019年より大室高原オーシャンビューの一軒家ひまわりを営業中

米沢の歴史ご案内~5キリシタン公卿殉教者、山浦玄蕃

2020年07月10日 | 米沢の歴史案内
江戸時代、キリスト教徒への迫害から逃れるために京都から米沢に移り住み、最期は米沢で殉教した公家の子、山浦玄蕃が制作した欄間が発見されたという新聞記事を目にし、早速その作品が展示されている田沢コミュニティセンターに行ってきました。

山形新聞、2020年7月3日



山浦玄蕃とは
公家四辻大納言公遠の孫。
米沢藩初代藩主上杉景勝公の側室で、二代藩主定勝公の生母、桂岩院の甥にあたります。

寛永12年(1635年)、幕府によるキリシタン迫害が厳しさを増すなか、キリシタン政策が他藩よりゆるかった米沢藩に妻子と共に移住。
米沢藩は玄蕃を厚く遇し、ご一族中に加えます。
しかし玄蕃がキリシタンであると幕府に密告する者があり、米沢藩も次第に玄蕃を庇いきれなくなり、ついに承応二年(1653年)、城下の極楽寺にて処刑されました。


今回発見された欄間は、藩によってかくまわれていた米沢郊外で、その土地の豪農のために制作したものと思われます。


展示会場の田沢コミュニティーセンター

大工道具の左官ごてを用いる「こて絵」という手法で描かれた、玄蕃作の欄間が裏表合わせて4作展示されています。



受付でいただいた作品解説書。
田沢郷土史編集委員長、清野春樹氏による詳細な解説が載っています。
(シワシワにしてしまってスミマセン)
以下、個々の作品について、こちらの解説文から引用させていただきます。




【鐘離権、剣で波を渡る図】
鐘離権は燕台の人で、西晋の将軍だったという。ある戦いで敵味方とも壊滅し、単身で逃走中、ある老人に遭って昇仙の意を持ち、老人からその極意を授けられた。
中国で有名な8人の仙人のひとりに数えられる。
剣に乗って波を渡る姿で表現されるが、通常は笠を持つところが、この絵では布袋を背負っている点が、キリストの聖骸布を連想させる。



【雪中筍の図】
三国時代に呉の孟宗が母の願いにより雪中に筍をもとめ、奇跡が起こって筍を得る。
神の恩寵を物語る



【琴高仙人図】
周の時代の趙の人、琴の名手。琴高仙人は弟子を集めて今から河に入るが龍になって甦ると予告。やがて鯉に乗って現れた。鯉は黄河の竜門を過ぎると龍になるという。
復活と昇天を物語る



【松に雉図】
雉は日本の国鳥で、ケーンケーンと甲高く啼くことで知られる。そのため猟師に狙われることが多く、「雉も啼かずば撃たれまい」との諺にもなっている。
もう一歩踏み込むと、雉は妻を恋い、子を慕う鳥として万葉集で歌われる。
玄蕃の家族よ永遠なれという心が松に表れている。


この四作品は日本の花鳥風月や中国の物語を題材にしながらも、解説にあるようにその実は迫害にも揺るがない深い信仰心を暗示したものなのでしょうか。想像が膨らみます。


田沢コミュニティセンターを後にして市街地に戻り、次は玄蕃が処刑された東寺町の極楽寺を訪ねました。





極楽寺の敷地の一番奥まった場所。伯母で上杉家二代藩主定勝公の生母桂岩院の墓の隣に、山浦玄蕃の供養塔がありました。



なお玄蕃の二人の息女は米沢で結婚し、その家系は今も受け継がれています。


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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大室高原 オーシャンビューの一軒家 ひまわり

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米沢の歴史ご案内~4長命寺、謙信公の位牌

2020年05月12日 | 米沢の歴史案内
・謙信公の遺骸

江戸期、上杉謙信公の遺骸は米沢城本丸内の祠堂に安置されていましたが、明治期になると遺骸は歴代藩主が眠る御廟所に移されました。

現在の祠堂跡地は広場となり、僅かにかつてここに謙信公の亡骸があったことを示す記念の碑だけが残っています。




・長命寺
かつてこの地にあった祠堂の建物が、現在は市内中央の長命寺というお寺に移築され、本堂として使われていることを先輩ガイドから教えていただき、わたしも先日初めて長命寺を訪ねてみました。


かつて謙信公の遺骸がおさめられていた祠堂を移築だった長命寺本堂。

建物を見学していると、屋内から住職の奥様が出てきて中を案内すると申し出てくださいました。ありがたや~( ;∀;)

驚いたことに、かつてこの建物は祠堂として使われただけでなく、他のスペースは歴代藩主がプライベートに利用していたのだそうです。

二代藩主景勝公の茶室にも入らせていただきました。



そしてこのお寺のご本尊の隣に置かれていたのは、な、なんと本物の謙信公の位牌です。
予想だにしなかった貴重な品との出会いに、思わず息を呑みます。



謙信公の戒名
「不識院殿前関東管領権大僧都訪印心光謙信神儀」





位牌の上には上杉家の家紋「竹に雀」が彫られていますが、なぜか一般に知られている「竹に雀」の柄と角度が違います。


こちらが一般的な「竹に雀」紋

案内してくださった奥様にもこのデザイン違いの理由はわからないようです。
不思議ですね。

この奥様のように、米沢には地域の歴史を大切に守り継ぐ方がとても多いように思います✨

最後までお読みいただきありがとうございました(^^)



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米沢の歴史ご案内~3菱門橋

2020年04月20日 | 米沢の歴史案内
今回ご紹介するのは、米沢城跡(現在の上杉神社)を巡る堀の南方面にかかる橋、菱門橋(ひしもんばし)です。




菱門橋のたもとの案内版の説明文

『米沢城本丸跡の南側堀にかかる太鼓橋で、あざやかな朱塗りの橋は写真の好スポットとなっている。
橋名は、江戸時代は本丸内の城主が住んだ「御殿」からの南出入口にあたり、その交通は厳重に取り締まったことから、「秘し門」と称されたことにに由来する』


さらに、米沢の史跡めぐりに欠かせないテキスト、『直江兼続がつくったまち米沢を歩く』遠藤英著(平成21年)では、菱門橋についてこのような記述があります。

「本丸奥と塩硝蔵をつなぐこの秘し門橋は限られた者しか渡れなかった。」


塩硝蔵とは?
塩硝は火薬の原料の一つ。
『直江兼続がつくったまち米沢を歩く』によると、鉄砲を重視した直江兼続(2代藩主上杉景勝の重臣)が三の丸のなかにあって、さらに堀で周囲から隔絶され道も門で仕切られた一画に塩硝蔵を2つ置きました。
その後、戦の世が終わり平和な時代が来ると、塩硝蔵は廃止されてほかの用途に用いられました。
さらに後年になると、その場所には1783年には名君として名高い第9代藩主上杉鷹山公の隠居所「餐霞館(さんかかん)」が建てられました。

戦国の末期直江兼続の世には火薬庫。その後には鷹山公の隠居所。
菱門橋は時代ごとに藩にとって重きをなす場と本丸を結ぶ、重要な橋だったのですね。



そして案内板にも書かれているように、今鮮やかな朱塗りの太鼓橋は人気撮影スポットです。

特に堀端の桜が咲くこの時期、わたしなどは日ごとに変わる桜並木の風情を撮るために菱門橋に日参する勢いなのです ^^


艶やかな菱門橋と花筏(2018年撮影)


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米沢の歴史ご案内~2伊達政宗の城、館山城址

2020年04月17日 | 米沢の歴史案内
第二回目にご案内するのは、伊達政宗とゆかりの深い館山城址です。

伊達政宗=仙台の武将
というイメージをお持ちの方が多いと思いますが、実は政宗公が生まれた当時の伊達家は仙台ではなく米沢を本拠地としていました。
そして政宗公自身も、生誕から豊臣秀吉の命令で岩出山(宮城県)に移封される24歳まで、ここ米沢を拠点に各地で諸将と戦いを繰り広げていました。

長い間、伊達家の居城は後年上杉家が築いた米沢城(現在の上杉神社)と同じ場所とされてきましたが、平成13年の本格的発掘調査で中世の屋敷群や庭園の跡などが確認されたことにより、ここ館山城が伊達家の本拠地=伊達家の米沢城ではないかという説が注目されることになりました。

*自宅から館山城跡までは車で7分ほど。
今回は日課の散歩を兼ねて、伊豆から帰省中の夫と孫のまー君を連れて行きました。
感染症対策に充分気をつけて歩きましたが、結局城跡散策中に出会った人はゼロでした^^;


館山城跡は米沢市内の西端、大樽川と小樽川が合流する地点、小高い山とそのふもとの平坦地から構成されています。

城址の入り口には立派な資料館が。


建物のなかには伊達家及び館山城に関する資料がびっしりと展示されています。




伊達家の現在のご当主もこの地を訪問されているようです。



展示物を参考におおまかなに地形を頭に入れたら、いざ城跡へ✨




平らな空き地は駐車場。
案内看板の脇には『私有地に付、立ち入り大歓迎』の立て札が。
なんともなごみます♡


ここでまー君が大樽川の河原で水遊びを始めて動かなくなりました^^;




仕方なく夫と交代で山頂へ行くことに。






山頂の本丸へ続く道沿いには至る所に案内看板があり、登り口には立派な案内所まで建っています。

地元でこの館山城址の保存に尽力されている方々に敬服致します✨

登山道にはロープが張ってあるので迷う心配はありません。
10分ほどで本丸跡の山頂に着きました。

山頂からは米沢の街中が見渡せます。

何かの遺構?

大樽川を望む方向に残る祠跡


土塁(?)の跡にはショウジョウバカマやカタクリなど早春の野草が咲乱れていました。

国破れて山河あり
城春にして 草木深し

思わず遠い昔、国語で習った漢詩の一節が脳裏に浮かびます。



伊達政宗の野望に思いを馳せながら巡る、コンパクトにまとまった城跡です。

コロナ禍終息後には、ぜひ多くの皆さんに足を運んでいただきたいという思いを強くした館山城址歩きでした。

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よねざわの歴史ご案内1~毘龍旗

2020年04月10日 | 米沢の歴史案内
未だコロナ禍が収まる気配が見えないこの頃、いかがお過ごしでしょうか。

じつは私、この4月から米沢市の観光案内ボランティアガイドの一員として活動する予定だったのですが、このコロナ感染症の蔓延をうけて、ガイド活動は一切休止となってしまいました。

秋から冬にかけてガイドの勉強を続けてきたのに、その成果を活かす場所が未だありません。
必死で覚えた知識もどんどん忘れていくばかり、、、(汗)

考えた末、このブログを通じて米沢の歴史にゆかりある場所をシリーズでご紹介することを思い立ちました。

つたないご案内ですが、コロナ終息後米沢を街歩きする際のお役に立ちますように。

また詳しい知識をお持ちの方から訂正捕捉など頂戴できたら大変に幸いです。



第一回のご案内は、上杉神社(米沢城本丸跡)の入り口、舞鶴橋に翻る二本の旗、毘龍旗(びりゅうき)です。


よく見ると二つの旗の文字、書体が違うことにお気づきでしょうか?
(なおこの写真は過去の画像です。今の上杉神社周辺は観光客の姿もなく閑散としています。念のため)




「毘」は米沢藩の家祖上杉謙信公が篤く信仰した毘沙門天から。
謙信公はみずからが毘沙門天の化身であると称していました。



「龍」の文字は不動明王をさすと言われています。
流れるような草書は「掛り乱れ龍」と呼ばれ、常に馬前にあって総攻撃の際に用いられました。



梅の花のピンク

山茱萸(さんしゅゆ)の黄色

上杉神社も少しづつ花々で彩られる季節になってきました。




お堀端の桜のつぼみも綻びはじめています。
この写真を撮ったのは4月4日。今日(10日)あたりはこの桜もすっかり開花しているかもしれませんね🌸





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