ちょこっと一息
~ 『恩愛の刃』 ~
“安永風土記”にうとう屋敷が一軒あったと記されています
。
万吉の家であったろうか
。
その後、
うとう屋敷は二、三軒に増えたりしましたが、
現在は善知鳥(うとう)には昔の家がありませんが、
屋敷跡とみられる所があります
。
この善知鳥浜を舞台に書かれたのが
、
明治の国文学者落合直文(松岩出身)の
“恩愛の刃”
です。
直文は善知鳥浜に来て遺跡や風景を観察したものか
、
美しい情景を織り込んで、
父の仇をうつ孝女の姿を生き生きと描き出しています
。
直文はこの小説の前文に、
「この恩愛の刃は古老の物語をそのまま書きしものなり
。
(中略)一少女なれども、
父のために身を捨てて讐を復せしなど
、
まことに感ずるに堪えたり」
と、書いています
。
これを見ても全く創作とも思われませんが、
今では“秋山義方”の遺跡は尋ねようもありません
。
恩愛の刃の筋は次の様なものです
。
【 善知鳥浜に多くの家臣を抱えた広大な館があった
。
主は秋山義方といい、
家には先祖伝来の名刀が伝わっていた
。
腹黒い叔父の後添えは、
下方の名刀をはじめ、
財産を乗取ろうとして、
盲目の家長を殺してしまう
。
父が息を引き取る時、
娘に譲ったのが“恩愛の刃”であった
。
娘はその刀で父の仇を討つ
~】
というもの。
秋山の墓は
、
西光寺境内にあるとされていますが、
果たしてこの物語に関係があるかどうか不明です
。
ちょこっと一息
パート⑧から
大島にはなんと
お寺が③ヶ所もあるんですよ
宗の数だけお寺があるのは当たり前かもしれませんが、
こんな小さな大島に、お寺が③ヶ所もあるなんて…
よ~く考えたらなんだか私はとても不思議でした
まず、亀山のふもとにある
真言宗智山派
『誓亀山(ぜいきさん)光明寺』
同級生のお家なので小さい頃はよく泊まりに行ってましたね
左側から… 【延命地蔵尊】 【水子地蔵尊】 【聖観世音菩薩】
三陸三十三観音霊場の“十七番札所”
北国八十八ヶ所霊場の“十六番札所”が
『光明寺』
そして、要害地区にある
曹洞宗東月山
『西光寺』
郷土を代表する文化人
明治の“国文学者落合直文作”
「恩愛の刃」の中に登場する秋山氏の墓と伝えられている墓石が、
この西光寺境内にあるそうですよ
そして、駒形(崎浜)地区にある
真言宗智山派
『醫王山(いおうざん)長命寺』
【興教大師 第一番 御詠歌】
三陸三十三観音霊場 “第十八番”が
『長命寺』
長命寺の帰り道…
“カキ殻の土”の中に力強くコスモスが咲いていました
大島の伝説と照らし合わせながら
お寺の歴史を知ってなんだか勉強になりました
お寺は身が引き締まりますね
“Sand Glass”の向かって左側には
、
“休暇村本館”へ続く&“十八鳴浜”への近道ともなる山道がありますよ
結構急な坂道ですが…
階段になっているので、
あまりサイクリングの方にはおススメ致しませんが…
&山道に
“アケビ”の木が沢山あった
私の中では流れてます
(笑)
トトロの種が大きくなる時の曲~
”
カメラを手にした瞬間から蚊の大群?が押し寄せてきた~
(夏は虫よけスプレーのご用意をっ
)
この次は
ここから気仙沼市指定の天然記念物
鳴き砂の“十八鳴浜”まで行ってみますよ~

幼少の頃はよく、船でウミネコに“かっぱ海老せん”あげたりしました
今日は旅客船の中の様子を、お届けしたいと思います

大島から
【一般】 大人→¥400 、子供(小学生)→¥200
【団体割引(⑮名様以上)】 大人→①割引 、学生→③割引 、子供→①割引
※ 団体のお客様はご予約下さい。
以前、「茶色いのはカモメの赤ちゃんですよ~」なんて軽く言ってしまいましたが…
幼鳥より極端ではありませんが、
成鳥でも冬になると少しだけ茶色く変化したりもするそうですね
すごい… 近い… デカい… こんな近かったっけ… ワタシ鳥苦手よ~…
近っっっ
これは“ウミネコ”ですね
①『餌しゃやるぞぉ
』
②『海老しぇんいくよぉ
』
③『そぉれ~
』
先端
そんなこんなしてるうちに
②⑤分で旅客船はエースポートに到着
休んで間もなく大島行きの船を追いかけて…
ウミネコさん達は一日何往復しているのでしょうかね

皆様が快適で癒しの海の旅になりますよう
、
心よりお祈り申し上げます

ちょこっと一息
~ 『猿 聟』 ~
【 光明寺の山門下に
、
亀山から流れてくる小川があったそうな
。
この流れに沿って広がる沢を“浦の沢”といい、
沢の平坦地に“浦の沢堤”がある。
この浦の沢の奥に昔
、
佐平屋敷があった
。
人のいい佐平は
、
「佐平さん、下がれや~い
」という声に騙されて
、
魚のいない堤に日がな一日釣り糸を垂れているのであった
…。
ある年の春
、
日照り続きで人々は田植えが出来なくて困っていた
。
佐平も夜も寝ないで一晩中田の水引をしていた
。
ある晩
、
水引をしている佐平の前に猿が来て
、
「私に娘をくれたら
、田んぼ一杯なみなみと水を引いてやる
」
と言った。
佐平は猿の申し入れに一瞬考えたが…
、
この春
田んぼを作らねば一家が飢える事を思い承知してしまった
。
翌朝田んぼに行ってみると
、
佐平の田んぼだけに水が満々と引かれていた
。
家に帰った佐平は、
この事を娘に言い出せず寝込んでしまった
。
そこへ長女が枕元に来て
、
「どこかかげん(具合)でも悪いのですか
?お粥でも炊きましょうか
?」
と言った。
佐平は、
「病気でも何でもない…
あじこと(心配事)で起きられない
」と言う。
「どんなあじことだか語ってみらい
」
と言うので、
猿の約束の事を話し
、
娘に猿の所へ嫁に行かないかと聞いた
。
長女は
、
「だあれ
、猿の所に嫁に行くものか
」
と、怒って断ってしまった
。
二番目の娘にも頼んだが
②、
やはり断られてしまった
。
そこへ末の娘がやって来て
③、
「とうさん
、とうさん
、心配しゃんすな
、起きてご飯食べらいん
」
と言うと、
佐平は喜んで起き上がり食事をした
。
こうして猿の所に嫁に行った娘は
③、
ご祝言(婚礼)の翌日里見に実家に帰る事になった
。
嫁は猿の聟に、
「里見には聟殿は臼と杵を背負って行くものだから
」
と言って、
猿に臼と杵を背負わせて山道を降りて来た
。
浦の沢の堤まで来ると藤の花が綺麗に咲いていた
。
娘は
③、
「あの藤の花の一枝をお父さんに持って行きたい
」
と言うと猿は
、
「なあに簡単な事で
、すぐ取って来るから
」
と言って臼を下ろそうとすると娘は
③、
「里見の臼は下ろすものでないから
」
と言った。
猿は臼を背負ったまま藤の木に登って行った
。
猿 「どの辺の花がいいかね
?この辺はどうだ
?」
娘 「もっと上のを
③
」
猿 「これか
?おかだや(女房)
」
娘 「まあだ
③
、てっちょ(上の方)
」
猿 「これか~
?おかだや
」
娘 「まあだてっちょ
③
」
と、どんどん木の枝の細い所に登らせていった
。
その時である
。
猿のすがっていた細い枝がポキンと折れ
、
猿は臼を背負ったまま浦の沢の堤の中に沈んで行った

。
娘は家に帰り次のような歌を詠んだと言う…
③
。
“猿さがし 猿の命は惜しくない
親のなげきはおいとしや…” 】
なんだか…
大島の伝説って、悲しいのが多いですね

~
下山編
~
来た道を戻りました


拡大
畳の様に敷き詰められた“イカダ”が見えましたよ
このイカダは、
去年②月②⑧日襲来の“チリ地震津波”の被害を受け、
復元した“かきイカダ”です。
ここまで復元した苦労は、本当に大変なものだったと思います。
更なる発展を心よりお祈り致します
<m(__)m>
建物があんなに小さく見える…
こんな雄大な景色の中にいると
あ~んな悩みも
こ~んな
悩みも…
みんなちっぽけに感じますね

また違った下りの景色を眺めながら…
帰り道は“ホヤ坊や”先輩の後ろの席でしたよ
浦の浜港が近くなった
間もなく終点で~す
⑳年振り位で乗ったであろう
亀山リフトでしたが
新鮮で気分爽快でした
今年は猛暑のせいか“
松っ茸様
”が豊作で、
80本も採った人もいたそうですよ
秘かに松の木の根元をチラ見しながら歩きましたが…
やはり見つけられませんでした~
(笑)
皆様にお伝えしながら、
毎回『大島』の良さを再確認しています
雄大な自然に触れると元気がでます

パワースポットならぬ
パワーアイランド
ですね
ちょこっと一息
~ 『首なし田』 ~
“一杯森”の隣の浜は“長浜”と言います
。
昔むかし、
ここに田畑を沢山持っていた長者がありました
。
ある年の田植えの時
、
自分の家の田植えをどこよりも早く終わらせようと思い
、
長浜にある二反歩もある田の田植えに
、
村一番に田植えの上手な人を頼みました
。
この人は広い田んぼを一人でせっせと植えていましたが
、
まだ植え終わらない田のくろ(畔)に寝せていた赤ん坊が
、
目を覚まして泣き出しました
。
なかなか泣き止まないので
、
赤ん坊を背中に背負って田植えを続けていました
。
いつの間にか背中の子供は泣き止み眠ったらしい…
。
母親は赤ん坊をおんぶしている事も忘れて
、
夢中で植えていました
。
そして夕日が陸(くが)の山に沈む頃やっと植え終わる事ができました
。
その時背中の赤ん坊を思い出し
、
お乳を飲ませようと背中からおろすと…
赤ん坊の首がなかったのです…。
母親はびっくりして田んぼらく中探しましたが
、
とうとう首は発見できなかったそうです
。
あまりに夢中になって首を下にして田植えをしたので
、
とうとう子供の首がもげてしまったのです…。
それ以来この田んぼにいくら田植えをしても稲は実らず
、
次第に耕す事もしなくなり荒れ田になってしまいました
。
“一杯森”は、
この赤ん坊に供えた“一杯飯”が大きくなったものと言われています
。
この首落ち田を昭和十九年、
大島国民学校で食糧増産のため借り受けて開墾して田を作りました
。
耕作に入る前に神官を頼んでお祓いをしてもらった事があったそうです
。




























、
。
、唐桑との中間に
、
。
。
。
。






















、
。










』






































