・・・相変わらず、暇があると日本古代史の本を読んでいる。
弥生時代から、古墳時代にかけて、古代日本人は銅鏡が好きだったらしい。
有名な「魏志倭人伝」に、そんな古代日本人の好みが書かれている。
従って、古い銅鏡の研究が日本の考古学において重要なアイテムになっている。
学者の岡村秀典氏は前・後漢400年間の銅鏡を50年単位で8期に、体系的な編年組み立てをした事で有名である。
その分類で見てみると、北九州の奴国の王、難升米が後漢に朝貢したと記録のある二世紀前半の漢の時代の銅鏡出土分布は圧倒的に北九州が多い。
北九州が大陸に対して、日本の窓口であったことが分かる。
その後、魏志倭人伝によれば、倭国内で乱があって、卑弥呼が倭国王になった約100年後の時代の漢の銅鏡の出土分布をみると、下図のようになる。
北九州はほとんどなく、畿内に分布が固まっていることがわかる。
明らかに、銅鏡が列島に入ってくる場所が変わったことが明確になる。
この岡村氏の銅鏡の編年研究だけで、二世紀の終わりから三世紀の最初に、古代の日本で、権力の場所が北九州から、畿内に移動したことが推定できる。