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誕生日です

2014-09-08 14:40:07 | 魂と心の成長

今日は誕生日で、朝からFBで友人たちからメッセージをもらいました☆

大変ありがたいことです。ありがとうございます。

この歳になりますと、単純に喜ばしいわけではないよ、という穿った見方をしてしまいがちな誕生日ですが、そういうひねくれ心は、この際、胸にしまっておきましょう。

モノゴトには多面的な見方があるということを知っているのは、知能(IQ)がなせる業ですが、今は感情、エモーショナルEQを高めるべきときです(笑)

贈り物は送り手の真意を正しく受け取るのが大事です。みなさんのご厚意、深謝しております。

■ 飽き

私は老顔で、12歳で、すでにはたちと間違われている大人子供でした。

大人としての責任を取り始めた年齢も、一般的な年齢と比べ、若かったので、大人として生きた年数を数えると、すでに30年くらい続いているような気分です。

つまり、自分が一体何歳になったのか、よくよく数えないと、よく分からないような感覚を持っています(笑)。

つまり、少々飽きている。その”飽き”が、私のテーマです。

■何歳になっても中身は ”わたし”

高校生の頃、30歳はおばさん、だと思っていませんでしたか?

しかし、30歳になったとき、その中身は、まだ17歳の私と同じでした。みなさんもそうではありませんでしたか?

そこから想像すると、50歳、60歳、いや70歳や80歳になっても、中身の自分は、あの17歳の自分のままだと気がつきませんか?

そう気が付くと、やおら、空恐ろしい気もしてきます…。まさか、この”自分”と、あと、ん十年付き合っていかなくてはならないのですよ・・・(汗)

話を戻しますと、ヨガが輪廻転生を教えるとき、この、何歳になっても中身の自分は変わっていないこと、が根拠です。

つまり、肉体の経年、つまり年齢を重ねることはあっても、中身が変わっていないのですから、いつかは、この肉体が経年劣化しすぎたときは、肉体を脱ぎ捨てるはずだ、というのです。

どうです?肌感覚として納得しませんか?

■ 自分を脱ぎかえる

いや17歳どころか、3歳の自分と同じですよね。

でも17歳としたのは、幼児は自分で”ジブン”が、難しく言えば、自我が、分かっていないからです。

人はどうやって自分らしさを作っていくのでしょうか? お母さんから、良い子にしなさいと言われたら、良い子になるのでしょうか?

芸術家などの分野では、先天的な才能の有無と後天的な努力のコンビネーションが決定的ですが、芸術家でなくても、それぞれの”ジブン”は、素養があった上に、後天的に花開いたもの、とするのが一般的かもしれません。

タネがあるところに水を撒かなくてはならない、ということですね。

タネがそもそもなければ、水を撒いても花は開きません。

種を持っているか、いないかは、どうしたらわかるでしょう?

それは、難しく考えなくてもいいのです。何をしていて、楽しいか?と考えると、それがタネ、自分、自分らしさ、です。

楽しいこと、が、自分の タネ です。言い換えれば、自分らしさ、です。 

ヨガが心を羅針盤にしろ、というのはこのためです。 

(ちなみに ヨガでなくても、たいていの自己啓発本には、そう書いてあります。)

そして、水を撒くことが、自分がこの人生でやるべきことです。

■耽溺しない

凡人、小人の持つ、ギャンブルをしていても楽しい、キャバクラで女性にモテていたら楽しい、お酒を飲んでいたら楽しい、宴会していたら楽しい、ショッピングしていたら楽しい、などなど…から、過去の時代の暴君のような、放蕩していたら楽しい、大量殺戮していたら楽しい、など、”楽しさ”にも、色々ありますが…

ちなみに、身を滅ぼす楽しさは、後で虚無感になって襲ってくるものです。

そういう楽しさは、最初が一番楽しく、後になるほど、むなしくなり、もっと強い刺激を欲しがるようになります。

これはアーサナ(ヨガ)でも、山でも同じです。より難しいアーサナへ、より難しい山へ、と駆り立てられ、そのキリがないのは、ギャンブルや飲酒と同じく、耽溺です。

仕事もいうなれば同じです。クライミングでも同じです。スポーツは向上心という免罪符を持って、耽溺を許容しているので、要注意です。

病気や怪我や事故がその予兆を知らせてくれます。ので、怪我をしたら、耽溺を疑いましょう。

心に充足感をもたらすものは、次から次へ…とならないものなのです。

なぜなら、満たされるからです。

それが、第二の見分け方です。

■満たされた人々は成功を求めない

世の中の満たされた人々は、すでに満たされているので、人に与えることを考えるようになります。

どの時点で満たされたと考えるか?は、人それぞれです。100円持っていても満たされる人もいるし、100億円あっても満たされない人もいます。

億万長者など大抵の目立つ”成功者”は、ハングリー精神が旺盛です。現状の社会システムでは、そうでないと、企業経営などできないからです。

巨万の富を築いた後、慈善事業の基金などを設立して、新たな”与える””分かち合う”というミッションを見出します。最近の有名な人では、ビルゲイツ財団とかですね。

そういう意味では、大きな成功(知名度や富)を収めないと満たされたと感じられない人々は、より少ない物質で満たされたと感じられる人より、精神的成熟度が低いと言えますよね。

平たく言えば、ある人は100万円与えられただけで分かち合おうとし、ある人は100億円与えられないと分かち合おうと発想できない、そういうことになります。

どちらがより成熟しているでしょうか?

無名の人々、巨万の富を持たなくとも、分かち合おうとする人々こそが、真の賢者であると言えます。

ジーザス・クライストは、奇跡により、聖なるパンとワインを作り出し、人々を満たした、とされていますが、史実的真実は、少ないパンを大勢で分け合ったため、皆の心が満たされた、というものです。

■ 人間の器

お皿は子供に割られても、笑って済ませられるだけのものを使いなさい…それがあなたの器です…と言われますが、同じことが ”分かち合い”にも適用できます。

お金を貸してほしいと言われたら、貸さずに、差し上げても苦にならない金額を差し上げる。

どれだけ分かち合えるか?は、分かりやすく言えば、その人の人間の器次第です。

差し上げたあと、あるいは分かち合ったあと、嫌な気持ちになったならば、それはそうするべきでなく、自分で自分の幸福のバケツを満たしているべきだと言う意味です。

まずは自分で自分の幸福のバケツを満たし、あふれ出た分を分かち合いましょう。

多くの人は、人に自分の幸福のバケツを満たしてもらうのではなく、自分で満たすことをまず覚える必要があります。

■親切のし過ぎに注意

分かち合いをしていると、こんな人に対して分かち合って損した、という気分にさせられることが良くあります。

世の中には、もらっても、もらっても、もらい足りない人もいます。そういう人につかまってはいけません。なぜなら、他の人に与えることができなくなるからです。

ただ幸福はゼロサムゲームではありません。戦後50年の競争社会は、幸福がゼロサムゲームだという幻想を生み出したので、間違って理解している人も多いです。誰かの不幸がなければ、自分の幸福がないというわけではありません。

たとえば、先進国の豊かさは、第三世界の貧しさに立脚しているとみなすこともできますが、第三世界の産業が栄え、各国が豊かになることが、先進国のさらなる豊かさをもたらす、と考えることもできます。

■ ねぎらいを求める

誰だってありがとうのねぎらいの無い親切には疲れ切ってしまうものです…それはローマ教皇や、ダライラマだってそうでしょう。ただ彼らは、そのような羽目には、なかなか遭遇しないモノと思われます。

市井の人々は、ダライラマのように無条件の尊敬を得れるわけではありませんから、これも市井の賢者たちのほうが、権威の衣をまとった賢人たちより、より困難な状況での試練を受けていると言えます。

市井の賢者の皆さん、自信を持ってください。

というわけで、今日は、名もなき天使たちへの応援でした☆

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