唯のブログ。

病気の体験、療養生活や日々思いついた事などを書き留めているブログ。時々毒吐き。楽しめれば最高、無理なら受け流す。

ドクターヘリ。

2013-08-21 13:42:36 | インポート
劇症心筋炎(好酸球性)

ドクターヘリで運ばれて。
湯沢の保険センターでの受診の結果は心電図の異常波形。医師がすぐにドクターヘリを読んでNTS病院へ運ばれることなった。
 新潟にドクターヘリが導入されたのはつい1ヶ月前の事、 そして、たまたま診ていただいた医師が心臓に詳しく自分の状態を的確に判断してくれた事。 本当に運が良かったと思う。

 待合室で結果を待っていると
先生がいきなり、「これからヘリコプターで長岡の病院まで緊急搬送します。」 びっくりするやら、
訳も分からず、車はどうするのか、入院するのですか?準備しないと何もありません。
などと言っていたが有無を言わさずに救急車に乗せられて近くのヘリポート
へ運ばれた。 ヘリの中では意識があって大丈夫なのだが、付き添いの医師が盛んに心電図や血圧を気にしていた。

運ばれたNTS病院では、医師、看護師、技師など総勢10名位の方が体制を整えて待っていてくれた。 後で知ったが自分が当病院でのドクターヘリ搬送1号だった。 そしてその中には、循環器内科の医師3名全員が揃っていた。

この時も意識があり、あまりの物々しさに冗談でも言いたいような感じだった。 なんで俺にこんなに人が付くの。  まして、ヘリコプターで運んで、税金の無駄使いではないですか?? 

 寝かされたまま、検査着に着替えてくれ、血圧、心電図などをとったあと、すぐにカテーテル検査をすることになった。 途中までは意識があったが、すぐに寝たらしいい。

その後、意識が戻り医師の説明を受ける。夜になって、家族(兄、妹、母)が来ていた。
劇症心筋炎の疑いが濃く、このままだと時期に心停止するため、人口心肺をつけて、いつ起きられるかわからないけど麻酔で寝てもらいますと言われた。 しかし自分は意識がない時に治療方針について判断できないじゃないですかと言って拒否していた。 
 医師は、家族が適正に判断してくれるからと言っていたが、家族に判断などできないよと、押し問答が続く。 心電図などから意識があるのが信じられないような状況なんですよ、一刻を争うんですよ、と説得されていた。

 もう起きることはなく、このまま死ぬのか?
 どうも最近 色々な人と会う機会が多かったし、なんとなくそういう運び方をしていた。一年前位から母方の実家で過ごす時間が増えて親交が深まっていた。
震災、竜巻などがあり実家に帰る事が多くなり絶縁状態だった親との関係も少し良くなった。  
そのままあちらの世界に行くような気がして麻酔で寝るのが嫌だった。 

敦子、智哉ともう会えないのか。 もっと色々としてあげられる事があったのになんで何もしてあげられないまま死ぬのか? お礼を言いたい人がたくさんいる。
妹を呼んで、何か重大な判断を迫られた時は神保さんに聞いてくれ。 と頼んだ。
 結果がどうなっても自分としては納得できるから、それが一番だった。

親の判断に任せるのだけはどうしても許せなかった。 
ほとんど半べそ状態で、一人にしてくれと言って、自分で心の整理をした。

最初は意識もあり拒否していたが次第に気分が悪くなり説得に応じた。

その後は、集中治療室で寝ていた。 心臓の炎症を抑える為の大量のステロイド、その他心臓の機能を上げる薬や 免疫力が下がった体を守るための抗生剤、栄養剤など点滴の管は数十本もあったらしい。 その他に、大動脈から人口心肺(PCPS、大動脈バルーンパンピング)を繋ぎ左右の太ももに固定されていた。 言葉を発せられないように金属が鼻から入っていて出来るだけ動けないようにベットに固定されていた。

人口心肺PCPSは 途中凝固した血液がつまり一度交換したらしい。 免疫力が下がった中での動脈からの装置の交換はリスクがあって危ないそうだがうまくいった。 人口心肺を付けてなんとか保っているが、
その後、予想取り心臓の機能低下、一時はほとんど停止状態(通常状態の5%)になり、除細動の電気ショックや心臓マッサージが施された。 ギリギリでなんとか動き続け大量の投薬もあり心臓が少しずつ動き出してきた。  ただ、 PCPS の寿命は2週間。 今度は心臓の回復まで装置が持つかが問題になるが、心臓が動き出してからPCPSの寿命ギリギリでなんとか離脱自力回復し外すことができた。

その間、医師の先生は薬の微調整しながら状態を回復させ、技師は様々な機器と自分の体の位置関係に気をつけながら状態を見守ってくれた。 看護師の皆さんは自分の健康状態を保つため24時間体制で看護してくれていた。 病院に前例がないので先生はあらゆる方法で可能性を探り対処してくれたようだった。 不眠不休に近かったようで、その様子を知っている親族は先生のおかげで助かったんだよ、誠実な真面目な先生に当たってよかったね。と言っていた。 そして、 18日間寝ていて床ずれが全くなかった。
右膝にパイプの跡が2本あるがこれは床ずれには入らないだろう。 私の大きな体を4.5人で寝返りを打たせてくれていた。 しかも、装置がついているため自由には動かせない。 技師の許可の範囲内で少しずつ少しづつ何度も姿勢をかえて床ずれから守ってくれた。 後で知って、ありがたくて感謝の気持ちで一杯だった。 看護師はすごいと、つくづく感じた。
普段接している看護婦は、タダの軽傷患者モード。 重症患者モードですごいことをしていたとは、知る由もなかった。 恐れ入った。 


自力で心臓が動き出し、人口心肺を外す手術に向かう時、ベットと装置を10人ほどの医師、スタッフで移動していただいたようだが、エレベータに入り切らずに苦労したと言っていた。 大動脈を縫う為に、血管外科という血管専門医がきてくれた。

なんとなく目が覚めて、集中治療室で肺から血を抜いてもらうのが辛かったのを覚えている。 炎症を抑えるためステロイドで好酸球を一時的にほとんど0にした。当然免疫力は下がり感染しやすくなっている。 途中肺炎になり肺に血が溜まっていた。 その後は少し残った血がかたまり、3ヶ月後まで少しづつ血痰として出てきた。 よくあるのが薬の治療で病気は治るが免疫力が落ちて逆に感染症で死ぬということ。 そんなことも避けられて良かった。
 

集中治療室から個室へ移動。 夢の中では退院だった。 動けるはずもないのに。
起きた時はほとんど自分がわからないような状態だった。多分モルヒネが効いていたのだと思うが3日目くらいまでほとんど眠れなかった。 現実と妄想とを繰り返して訳のわからない事を言っていて看病している妹や叔母に呆れられたり、たしなめられたりしていた。
それが、馬鹿にされているようで少し嫌でもあった、

初めての食事はムース食だったが、全部の品 ひと口も食べれば十分だった。 食べない方が体にもいいと思っていたので気にしてなかったが、先生が、食べないと体力がつかないから食べたほうがいいと言う。
 2日目の昼から全て完食。 きつくても関係ない。 食べればいいんでしょう。なら食べます。 俺が戻ってきたような感じ。 口も動かない。 もちろん箸など持てない、スプーンも持てない。 歯磨きも全部やってもらう。 動けない。

初めてお見舞いに来てくれたのは富田さん、庄ちゃんの顔を見たとたん涙が込み上げてきた。「いやいや、居ても立ってもいられなくて来ちゃったよ。」いつもの調子で言われて。 きんちゃんは腰が曲がって歩くのもきつそうなのに、 一美さん、奥さん遠いところ本当にありがとうございました。 頂いたのは大きないちご。 一粒、で十分な存在感を出してくれました。

その後、お見舞いに来てくれる方々の様子から自分がどんな状態だったのかを十分に認識することができました。
 順行叔父さん、恵美子叔母さん。病室をのぞき込んで信じられないような顔で入って来てくれました。
 操叔父さん、ヨシヱ叔母さん。元気になってからも、忙しいのに治療のことで何度も相談に乗って頂きました。
 山M叔父さん、俊子おばさん。本当に心配そうな顔を忘れられません。

 J保さん、英子叔母さん、宗博さん、由美子さん、宗太くん。 英子叔母さんと明子さんは意識がない時にお見舞いに来てくれたのを覚えている。 別な形だったが、確実に覚えていた。 お二人も目でわかったと言っていたそうだ。 英子叔母さんとははっきり目があった。吹き抜けの2階から見ていて、入口から入ってくる時確実に。 明子さんは、個室へ移るとき微笑んでいた。 自分は立っていた。立ち話をしようとしたが、いつになく何も喋らなくて変だと思っていた。
明子さんは寝ている時に何度も来てくれた。なんとなく覚えている。

 一美さんが最初に見舞ってくれた時、俺が微笑んだと言う。 純子が初めて微笑んだとびっくりしていたそうだ。これもなんとなく覚えている。

意識がないとき、たくさんの親族が俺を見ていてくれた。 今までほとんど疎遠だった人でも来てくれた。 

 その後も、古俣先輩、 柳せ様、 赤座様 青木夫妻。 
柳瀬さんは何度もいらしてくれて、陣中見舞いは元気を頂きた。
赤座さんは退院後も気を使ってくれて、寿司の差し入れなどを頂いた。  善行叔父さん。

充子叔母さん、恭子叔母さん、純子 の3人が 交代で看病してくれた。 わざわざ東京と宇都宮から 長岡まで来てくれて。 簡易ベットで病室に寝て、大変だったと思う。
 一生感謝を忘れたらいけない。

兄貴も何度も何度も来てくれた。 意識がない時も何度も来てくれた。 退院前も、治療の説明を聞きにわざわざ何度も来てくれた。
幸子さんにもお世話になった。惣菜を持って湯沢に来てくれ、食事を作るのが辛かったから助かった。兄貴が家を空けることも多かったと思うから迷惑がかかった。
 家の方も親父のことで大変だったから、本当に迷惑をかけた。

敦子と智哉にも心配をかけた。 そして、生きる力になった。 

 たくさんのお見舞いを頂き、心配を頂いた。 自分が生きているのはみなさんのこころの力のお陰だと思う。 多くの思いが見えない力となって俺を救ってくれた。

栃木の伏ギ様。斎藤様、コト叔母さん、悦郎さん。 佳雄叔父さん、靖君、達夫君。 冨山様 MOさん。  剛規君。 悦子叔母さん、功君。 蜂須賀様。 松井さん。 
 松順さん。 ヒルズの森島さん。 
小堀さん、三村さん。  BILL公。
 頂いたお見舞いをまとめると49万円、偶然だろう、しかし数字に鳥肌が立った。助けて頂いたのだ。 死はそちらに行ってくれた。

  その他にも純子の知り合いの方からもお気使いをもらいました。
熊野牛王御神符。

純子は伊勢神宮へ、 高野山へ。 富田さんは茨城出雲大社。

多くの方方に感謝。  お陰様で生きていられます。



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