origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』『最後の聖戦』

2008-06-15 22:58:05 | Weblog
『魔宮の伝説』はシリーズ第2作。インドのカルト宗教組織と戦う話。全体的に低俗なつくりで、エンターテイメントに徹している作品ではある。個人的にはこれはダメだった。このシリーズは歴史的な薀蓄が少しはないと。
『最後の聖戦』は第3作。父親役をショーン・コネリーが演じている。イエス・キリストの聖杯を巡ってインディアナ・ジョーンズがナチスと戦う。聖アンセルムスの年代記が言及されていたのが印象的。
ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』でも確かこの映画について触れられている。

古英語と中英語

2008-06-10 21:16:42 | Weblog
あるラテン語学者が、ラテン語は規律のしっかりした言語だと書いていた。これに比べれば語尾変化に富んだフランス語も完璧ではないとのことらしい。
古英語と中英語には大きな差がある。チョーサーの中英語は単語さえ学べば、大まかな意味合いを掴むことはできる。中英語と新英語の間に起こった最大の出来事は母音大変化であり、発音上の変化であった。それなので書き言葉としては、中英語のチョーサーと新英語のスペンサーは意外と近いところがある。
それに対して、ベオウルフやアルフレッド大王の古英語は単語を知ったところで理解できない。そもそも英語という言語とは全く別の種類の言葉なのではないかと思ってしまう。あくまでも書き言葉としての英語に注目するならば、古英語と中英語の間に起こったノルマン・コンクエスト及びラテン語・フランス語のイギリス支配こそが、英語史上最大のイベントだったのではないか、と思えてくる。
英語は、SVOを中心とした行為者と行為を重んじる言語である。ほとんどの文章で主語と動詞が必要とされる。しかし、そのSVOを中心とした英語とは、あくまでも中英語以降の英語に過ぎない。中英語以降の英語とは、古英語がラテン語・フランス語との化学反応を起して新たに生まれた英語である。それは私たちの知っている英語には近いが、アングロ・サクソン人のオリジナルな言語とはだいぶ遠い。中英語とはロマンス語化された古英語なのである。

マルセル・パコ『キリスト教図像学』(文庫クセジュ)

2008-06-10 19:08:58 | Weblog
20世紀の学者エミール・マール以降、美術史の一ジャンルとして重要視されてきた図像学。中世やルネサンスの美術作品を理解するためには、そのキリスト教的意味を解き明かす必要がある。著者はマリア、洗礼、最後の晩餐、十字架、聖人といったキリスト教的表象を絵画の中から読み解いていく。
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トリエント公会議まで、カトリック教会は、旧・新約の一致を唱えていた。すなわち、パウロ、アレクサンドルのファロン、オリゲネス、ヒラリウス、アンブロシウスたちは、彼らの著作の中でその理論を展開させた。アウグスチヌスは、それについて、次のような原理を確立した。彼が『神の国』で次のように記している、《旧約聖書は、新約聖書がヴェールに覆われていること以外の何ものでもないし、新約聖書は旧約聖書がヴェールを取りのぞいたこと以外の何ものでもない》。
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中世においては聖書は歴史的意味、寓意的意味、比喩的意味、神秘的意味の四重に理解されるべきものだった。

マドレーヌ・ラザール『ラブレーとルネサンス』(文庫クセジュ)

2008-06-09 19:40:17 | Weblog
ルネサンスという言葉はヴァザーリが使い始め、19世紀のブルクハルトやミシュレが広めていった言葉である。これはフランスのルネサンス研究者による著作。ブルクハルトのようなイタリア中心のルネサンス観ではなく、フランス・ユマニストのルネサンスを重んじている学者である。
これまでのラブレー像を覆す奇説などはあまり盛り込まれておらず、「中世神学の呪縛を打ち破り人間の復権を説いたユマニストとしてのラブレー」と「カーニバル文学の創造者ラブレー」が描かれている。
フランソワ1世とその姉マルグリット・ド・ナヴァールに庇護されたルネッサンスの芸術家たち。ラブレーは福音主義者であるナヴァールから如実に影響を受けており、ラブレーの福音主義的な要素は、歴史家リュシアン・フェーブル以降、重要視されているようだ。
初めは医者として名声を高めたラブレーはルネサンス的な文学者であったが、同時に中世の民話的な想像力の継承者でもあった。カトリック・プロテスタント(改革派・福音主義)の双方から影響を受けたラブレーの物語は無神論的なところもあり、反スコラ哲学的なところもある。しかしラブレーを単なる中世への反逆者として矮小化してしまってはならない。彼は「神学の中世」には反したかもしれないが、「民衆の中世」には反さなかった。神学者ラブレーは中世の民衆が有していた猥雑さ・雑多さを継承した人物でもあったのである。
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「世界史の枠で考えれば、この言葉は、ヨーロッパ文明が同時代の諸文明を決定的に引き離した時期の西欧の前進を意味するのであっれ、それ以外の何物をも意味しない」という歴史家ジャン・ドリュモーの見解に同意して、ルネサンスという言葉の使用を諦めないつもりである。
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良識と民衆的陽気さを文学的教養とどうかさせて、それに芸術的な形式を与えたことは、疑いなくラブレーの作品の最も注目に値する功績の一つに数えることができる。ふんだんに盛り込まれた博識や、古代作家・聖書からの頻繁な引用と参照、当時の社会への批判、福音主義的かつユマニスト的な見解の表明、さらに遊戯・仮面・象徴の愛好これらがそのことを十分に証していると言えよう。
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警句家ルキアノスがラブレーに与えた影響も気になった。

金谷武洋『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』(講談社選書メチエ)

2008-06-09 18:37:34 | Weblog
日本語には主語は不要であると主張する著者が日本語と英語を比較言語的に考察したもの。
著者によると日本語は虫の視点による言語であり、英語は神の視点による言語である。「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった」というのは英語に訳すと、「列車は長いトンネルから雪国へと来た」という。日本語では時間は文章に沿って進んでいくが、英語は基本的に一文で一点の時間を表現することが多い。これは英語は神の視点から、主語となるもの(この場合は電車)を見下ろしているからだという。著者はこの考えを比較文化論へと繋げていき、昨今のブッシュ政権の横暴さもこの英語的な論理によるものではないかと論じている。
本書の主要な部分が、英語史について論じた章である。日本語に比べて、英語は主語が重要な役割を果たしている言語だと私たちは習う。確かに英語の場合、主語が省略された文章は少ない。しかし、著者が指摘するところによると、英語もノルマン・コンクエスト以前の古英語(ベオウルフ、アルフレッド大王)の時代においては主語が重要視されていなかったというのだ。ノルマン・コンクエスト以降、ブリテン島がラテン語とフランス語に支配され、言語のクレオール化が起きたことによって英語が主語を重んじる言語となっていったという。
さらに著者はダミー主語(仮主語)やギリシア語の「中動相」(能動態でも受動態でもないヴォイス)に注目し、ギリシア語、ひいてはインド・ヨーロッパの古語も実は主語を重視していなかった言語なのではないかと推測する。この「中動相と主語」に関する論は多少強引な感じもしたが、しかし問題提起としては興味深いものだと言える。

『ヤング・シャーロック ピラミッドの謎』

2008-06-08 23:51:10 | Weblog
実はホームズとワトソンは学生時代からの知り合いだった。そして、彼らは学生時代にとある連続殺人事件を解決したことがあった…。
スピルバーグが製作を担当した娯楽映画で、熱心なホームズファンからは怒られそうな設定が盛り込まれているが(女嫌いのホームズに恋人がいるし)、エンターテイメントとしての完成度は高い。ホームズがオリエンタルな宗教集団と戦うシーンはまるでインディ・ジョーンズのよう。ワトソンが間抜けでありながらもホームズをしっかりとサポートする少年として描かれているところが良かった。
真犯人が実は……だったというオチもなかなか良い。

J・ボーキングホーン『科学と宗教―一つの世界』(玉川大学出版部)

2008-06-06 23:09:58 | Weblog
イギリス国教会の聖職者であり科学者でもある著者が、科学と宗教について論じたもの。著者によると、科学も宗教もともに真理を明らかにすることを目的としており、また両者は別種の真理を明らかにするものでもあるという。
著者はカントのような観念論を否定し、実在論を肯定する。科学は様々な真実を明らかにしていく。しかし科学がどのような真実を明らかにしても、何らかの謎は残存する。そこには宗教が明らかにすべき真実が潜んであり、それゆえに宗教と科学は共存しえるものだという。
あるものを信じるべき理由と信じるべきでない理由は常に存在する。そのどちらかが100%になることはない。科学は宗教を信じるべき理由と信じるべきでない理由(創造論など)を双方とも提供するが、その中で宗教的な信仰は信じるべきでない理由を越え必ず生き残っていくという著者の信仰が表明されている。

吉村正和『フリーメイソン 西欧神秘主義の変容』(講談社現代新書)

2008-06-06 23:07:25 | Weblog
フリーメイソンとはどこから来たのか。その起源は謎に包まれている。中世イギリスの職人ギルドのロッジが元になっているという説もあるし、ルネサンス期のテンプル騎士団や薔薇十字団が直接の起源となっているという説もある。あるいはとしてはユダヤ教エッセネ派が、遠い起源となっているという説もある。エッセネ派は紀元前1世紀頃、サドカイ派・ファリサイ派と並ぶユダヤ教の三大宗派であり、キリスト教のイエスは実はエッセネ派に属していたという説がある。ユダヤ・エッセネ派の思想がイエスを経て、やがてフリーメイソンへと繋がっていったというのだ。どれも魅力的な説ではある。
1624年チャーベリーのハーバート卿は『真理について』1695年ロックの『キリスト教の合理性』1696年ジョン・トーランドの『キリスト教は秘蹟的ならず』イギリスの理神論を考える上で外せない三つの著作である。キリスト教の本質を神秘や秘蹟ではなく道徳だとしたトーランドの思想は、近代ヨーロッパにおいてフリーメイソンと共鳴することとなった。フリーメイソンは「ヨハネの福音書」を重んじており、その支持者は「はじめにロゴスありき」な理神論的な世界観を持っていたという。理神論とフリーメイソン。これもヨーロッパ近代の一断面だろうか。
フリーメイソンというと怪しげなイメージがあるが、近代においては社交クラブのような側面を持っていた。紳士がフリーメイソンの社交場で酒を酌み交わし、話を弾ませる。単なる神秘主義一辺倒の密教的な集団ではなかったのだ。だからこそ、アメリカ合衆国においてもフリーメイソンは大きな影響力を持つようになる。マーク・トウェインも、バスケット・ボールの発案者も、モルモン教やクリスチャン・サイエンスの創始者も、フリーメイソンだった。
文学作品ではゲーテ『ウィルヘルム・マイスターの修行時代』、トルストイ『戦争と平和』、モーツァルト『魔笛』などでフリーメイソンが登場する。フリーメイソンと聞いてモーツァルトの『魔笛』を思い出す人も少なくないだろう。著者は『魔笛』をフリーメイソン的世界観を表現したものとして高く評価しているようだ。

高橋正男『死海文書 蘇る古代ユダヤ教』(講談社選書メチエ)

2008-06-06 22:57:59 | Weblog
死海文書はアラブ系のベドウィンが発見したものであり、イエスが生まれる前の古代ユダヤ教のエッセネ派の文書だと言われている。元々、自由意志を否定するサドカイ派、中道のパリサイ派に批判を加えたイエスは、実は自由意志を重んじたユダヤ教エッセネ派の信者だったという説があったようで、死海文書は当時のイエスを生きた姿を暗示したものとして一つのブームを巻き起こした。著者はそれらを歴史学的に根拠のないことだと批判し、死海文書をキリスト教と切り離す。死海文書はあくまでもユダヤ教を研究するための資料であり、ここには当時のクムラン宗団の生活が描かれているという。