origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

マドレーヌ・ラザール『ラブレーとルネサンス』(文庫クセジュ)

2008-06-09 19:40:17 | Weblog
ルネサンスという言葉はヴァザーリが使い始め、19世紀のブルクハルトやミシュレが広めていった言葉である。これはフランスのルネサンス研究者による著作。ブルクハルトのようなイタリア中心のルネサンス観ではなく、フランス・ユマニストのルネサンスを重んじている学者である。
これまでのラブレー像を覆す奇説などはあまり盛り込まれておらず、「中世神学の呪縛を打ち破り人間の復権を説いたユマニストとしてのラブレー」と「カーニバル文学の創造者ラブレー」が描かれている。
フランソワ1世とその姉マルグリット・ド・ナヴァールに庇護されたルネッサンスの芸術家たち。ラブレーは福音主義者であるナヴァールから如実に影響を受けており、ラブレーの福音主義的な要素は、歴史家リュシアン・フェーブル以降、重要視されているようだ。
初めは医者として名声を高めたラブレーはルネサンス的な文学者であったが、同時に中世の民話的な想像力の継承者でもあった。カトリック・プロテスタント(改革派・福音主義)の双方から影響を受けたラブレーの物語は無神論的なところもあり、反スコラ哲学的なところもある。しかしラブレーを単なる中世への反逆者として矮小化してしまってはならない。彼は「神学の中世」には反したかもしれないが、「民衆の中世」には反さなかった。神学者ラブレーは中世の民衆が有していた猥雑さ・雑多さを継承した人物でもあったのである。
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「世界史の枠で考えれば、この言葉は、ヨーロッパ文明が同時代の諸文明を決定的に引き離した時期の西欧の前進を意味するのであっれ、それ以外の何物をも意味しない」という歴史家ジャン・ドリュモーの見解に同意して、ルネサンスという言葉の使用を諦めないつもりである。
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良識と民衆的陽気さを文学的教養とどうかさせて、それに芸術的な形式を与えたことは、疑いなくラブレーの作品の最も注目に値する功績の一つに数えることができる。ふんだんに盛り込まれた博識や、古代作家・聖書からの頻繁な引用と参照、当時の社会への批判、福音主義的かつユマニスト的な見解の表明、さらに遊戯・仮面・象徴の愛好これらがそのことを十分に証していると言えよう。
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警句家ルキアノスがラブレーに与えた影響も気になった。

金谷武洋『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』(講談社選書メチエ)

2008-06-09 18:37:34 | Weblog
日本語には主語は不要であると主張する著者が日本語と英語を比較言語的に考察したもの。
著者によると日本語は虫の視点による言語であり、英語は神の視点による言語である。「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった」というのは英語に訳すと、「列車は長いトンネルから雪国へと来た」という。日本語では時間は文章に沿って進んでいくが、英語は基本的に一文で一点の時間を表現することが多い。これは英語は神の視点から、主語となるもの(この場合は電車)を見下ろしているからだという。著者はこの考えを比較文化論へと繋げていき、昨今のブッシュ政権の横暴さもこの英語的な論理によるものではないかと論じている。
本書の主要な部分が、英語史について論じた章である。日本語に比べて、英語は主語が重要な役割を果たしている言語だと私たちは習う。確かに英語の場合、主語が省略された文章は少ない。しかし、著者が指摘するところによると、英語もノルマン・コンクエスト以前の古英語(ベオウルフ、アルフレッド大王)の時代においては主語が重要視されていなかったというのだ。ノルマン・コンクエスト以降、ブリテン島がラテン語とフランス語に支配され、言語のクレオール化が起きたことによって英語が主語を重んじる言語となっていったという。
さらに著者はダミー主語(仮主語)やギリシア語の「中動相」(能動態でも受動態でもないヴォイス)に注目し、ギリシア語、ひいてはインド・ヨーロッパの古語も実は主語を重視していなかった言語なのではないかと推測する。この「中動相と主語」に関する論は多少強引な感じもしたが、しかし問題提起としては興味深いものだと言える。