origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

J・ボーキングホーン『科学と宗教―一つの世界』(玉川大学出版部)

2008-06-06 23:09:58 | Weblog
イギリス国教会の聖職者であり科学者でもある著者が、科学と宗教について論じたもの。著者によると、科学も宗教もともに真理を明らかにすることを目的としており、また両者は別種の真理を明らかにするものでもあるという。
著者はカントのような観念論を否定し、実在論を肯定する。科学は様々な真実を明らかにしていく。しかし科学がどのような真実を明らかにしても、何らかの謎は残存する。そこには宗教が明らかにすべき真実が潜んであり、それゆえに宗教と科学は共存しえるものだという。
あるものを信じるべき理由と信じるべきでない理由は常に存在する。そのどちらかが100%になることはない。科学は宗教を信じるべき理由と信じるべきでない理由(創造論など)を双方とも提供するが、その中で宗教的な信仰は信じるべきでない理由を越え必ず生き残っていくという著者の信仰が表明されている。

吉村正和『フリーメイソン 西欧神秘主義の変容』(講談社現代新書)

2008-06-06 23:07:25 | Weblog
フリーメイソンとはどこから来たのか。その起源は謎に包まれている。中世イギリスの職人ギルドのロッジが元になっているという説もあるし、ルネサンス期のテンプル騎士団や薔薇十字団が直接の起源となっているという説もある。あるいはとしてはユダヤ教エッセネ派が、遠い起源となっているという説もある。エッセネ派は紀元前1世紀頃、サドカイ派・ファリサイ派と並ぶユダヤ教の三大宗派であり、キリスト教のイエスは実はエッセネ派に属していたという説がある。ユダヤ・エッセネ派の思想がイエスを経て、やがてフリーメイソンへと繋がっていったというのだ。どれも魅力的な説ではある。
1624年チャーベリーのハーバート卿は『真理について』1695年ロックの『キリスト教の合理性』1696年ジョン・トーランドの『キリスト教は秘蹟的ならず』イギリスの理神論を考える上で外せない三つの著作である。キリスト教の本質を神秘や秘蹟ではなく道徳だとしたトーランドの思想は、近代ヨーロッパにおいてフリーメイソンと共鳴することとなった。フリーメイソンは「ヨハネの福音書」を重んじており、その支持者は「はじめにロゴスありき」な理神論的な世界観を持っていたという。理神論とフリーメイソン。これもヨーロッパ近代の一断面だろうか。
フリーメイソンというと怪しげなイメージがあるが、近代においては社交クラブのような側面を持っていた。紳士がフリーメイソンの社交場で酒を酌み交わし、話を弾ませる。単なる神秘主義一辺倒の密教的な集団ではなかったのだ。だからこそ、アメリカ合衆国においてもフリーメイソンは大きな影響力を持つようになる。マーク・トウェインも、バスケット・ボールの発案者も、モルモン教やクリスチャン・サイエンスの創始者も、フリーメイソンだった。
文学作品ではゲーテ『ウィルヘルム・マイスターの修行時代』、トルストイ『戦争と平和』、モーツァルト『魔笛』などでフリーメイソンが登場する。フリーメイソンと聞いてモーツァルトの『魔笛』を思い出す人も少なくないだろう。著者は『魔笛』をフリーメイソン的世界観を表現したものとして高く評価しているようだ。

高橋正男『死海文書 蘇る古代ユダヤ教』(講談社選書メチエ)

2008-06-06 22:57:59 | Weblog
死海文書はアラブ系のベドウィンが発見したものであり、イエスが生まれる前の古代ユダヤ教のエッセネ派の文書だと言われている。元々、自由意志を否定するサドカイ派、中道のパリサイ派に批判を加えたイエスは、実は自由意志を重んじたユダヤ教エッセネ派の信者だったという説があったようで、死海文書は当時のイエスを生きた姿を暗示したものとして一つのブームを巻き起こした。著者はそれらを歴史学的に根拠のないことだと批判し、死海文書をキリスト教と切り離す。死海文書はあくまでもユダヤ教を研究するための資料であり、ここには当時のクムラン宗団の生活が描かれているという。

『麦の穂をゆらす風』

2008-06-06 22:53:36 | Weblog
傑作だと思う。20年代にアイルランド独立運動に身を投じる兄弟。しかしアイルランド自由国成立後、兄弟は分かれる。兄はイギリスに屈し、弟はあくまでもアイルランド独立を成し遂げようとする。この映画においては、デ・ヴァレラとマイケル・コリンズに起きたような分裂が、名も無き個人のレベルで起きているのである。
デ・ヴァレラやコリンズの歴史ではなく、名もなき一個人たちに焦点が当てられた歴史。救いのない映画だが、ケン・ローチ監督の才能を十分に味わえる作品だ。