日曜日の話

毎週日曜日のミサで読まれる聖書に基づいてなされた話で、自分の言葉で自分の信仰を語る試み。

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信者の遺伝子はいつもオン

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フィリ4:6-9
 6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。8終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。9わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
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 御利益信仰を侮ってはいけない。むしろ、信仰はあなたを健康にする!今日は、耳寄りな話しをお届けしたい。

 今日の本文を読んで思い起こしたことがある。遺伝子をオンにするという村上国雄という先生の本の一節。遺伝なんだと諦める必要はない。いいように働く遺伝子があるので、それを眠っている状態から目覚めた状態にしてあげればいいという意味のことが興味を引いた。どうしたら目覚めた状態に出来るかということでいくつかの提案がされていたが、なかでも、目を引いたのは、どんな逆境下にあっても、気持ちを切り替えて、それを機会に発憤するとか、たえず前向き思考をすればいいというもの。お祈りや感謝するということも有益だとの指摘もあって嬉しかった。

 気持ちの切り替えは性格によっても違うとは思うが、十字架と復活。この大逆転のドラマを熟知?している信者は何と有利な立場にあることか。死と復活のドラマが健康にも利するとあれば、性格などにこだわっている暇はない。人は一日23回の逆境に遭うという話しをしたことがあるが、そのタンビに、ニッコリ笑って「復活!」と口にするだけで、遺伝子がスイッチ・オンになって逆境に打ち勝つことができる。もしそうなら、つまり、逆境と感じるたびに、遺伝子のスイッチをオンに出来ると思えば、びくびくすることはなくなって、気持ちの切り替えの達人になれそうな感じがするから楽しい。

 ところで、今日の本文で気がつくことは、パウロの言葉がどれも前向きなことだ。キリスト教徒の迫害者パウロがどうしてこんなにも穏やかな言葉を語れるキリストの使徒に大変身できたのか。彼は、知ったのだった。神の憐れみを。どんな憐れみ?「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」(1テモテ1,13)
 
 キリスト信者の共通の?負い目は、「自分は罪深い人間」ということではないか。それは、健全でいい。しかし、「だから、神様にはふさわしくない」と諦めている。もっといえば、ミサに行く資格はない。落ちこぼれ信者。などと自分で自分を慰めるような、いたぶるような言い方を多く耳にする。それは、村上先生流に言えば、「よい働きをする遺伝子をオフ」にしていることになるので、健康にとってもマイナスということになる。

 要するに、自分がどんな状況にあろうと、名前ばかりの信者を自認しようと、一日も早く、気持ちを切り替える必要がある。どうしたら、そんな軽業みたいなことができるか?だから、パウロのように、自分が負い目と感じる過去の過ちや失敗や、諸々の負の遺産?は全て、「信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受ることができると自分に言えばいいのではないか。そんな気持ちをキープすることが大切。これは、前向きな気持ちなので、今すぐ、信者らしく?なれなくても、少なくとも、よい働きをする遺伝子は、スイッチ・オンの状態。スイッチ・オン状態がキープできれば、やがて、遺伝子の応援で、苦労することなく、信者に復帰できる。

 そんな青写真への希望をもたらしてくれるのが、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」で始まる今日のパウロの手紙だ。再度、読み返すなら、気持ちを目向きにして生きるようにと言う積極的な提言であることが分るはずだ。つまり、あなたの信仰の遺伝子をオンにしなさい。
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ノーモアお困りご近所

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フィリピ2:1ー11
 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

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 「 2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」

 パウロがそんなお願いをしたくなったのは、パウロ自身かつては、ローマ人としての誇りを唯一の価値としてキリスト教徒の迫害に明け暮れた過去が心から離れていないからかもしれない。少なくとも、こうした事細かな願いをしたくなった理由がフィリピの教会にはあったに違いない。

 人間の集まりである教会に問題があるのは当然だとしても、いろいろの問題を乗り越える努力というものが必要なのはいうまでもない。かといって、妙案がるわけでもない。仕方がないといってあきらめようとしたり、いよいよとなったら静かに身を引くなど、「信者らしい解決策」というものがなかなか思い浮かばないのが普通ではないか。

 そんなお困りご近所に、「5 互いにこのことを心がけなさい」と言ってパウロが提供した妙案が、十字架のキリスト。それは、まったく意表をつく提案であったので、賛成できないと言う人が少なからずいたに違いない。イヤ、確かに今もそのような人は多いようだ。その証拠に、パウロの時代から2000年たった今も、教会はさまざまな問題を乗り越えていないばかりか、ますます、パウロの提案など見向きもしなくなった信者は倍増した感すらあるではないか。

 賛成できない、理由は、「自分はキリストではない。自分を無にすることなど出来ない」というもの。イヤ、そうではなくて、実は、それほど困っていない、からかもしれない。むしろ、何も信者だから起こる問題ではなく、世間一般、どこでも起こっている問題なので、それほどショックではないのかもしれない。まさか、時々、かげでコソコソ話しをする程度で発散させれば済むことと思っているわけではあるまい。

 ともかく、そういうことでパウロの妙案に賛成できない人がいるとしたら、ボクはパウロの弁護に回りたい。これこそ、究極の妙案です!と声を大にして言いたい。とくに理屈で鍛えられた司祭たちは、頭で解決することに長けているので難しいから、手に余るとしても、信徒は純粋な人が多いので、この人たちには繰り返し同じことを言い続けたい。

 十字架のキリストの元に帰らずして他の妙案はない。血を流し、うなだれたままの惨めな姿を直視せずして妙案は浮かばない。黙して語らない十字架のキリストの沈黙を聞かずして新しい道は開かれない。身を引き裂く痛みのなかで、自分の一切の尊厳と主張を剥奪されて、なおも、抗することなく、しかも、槍を向ける人々のために執り成しの祈りを御父に捧げたキリストの深い心を味わうことなくして信者を名乗ることは不遜すぎる。そんな生身のキリストの前で、「自分の主義、主張がナンボノモンヤ」と感ぜずして何事も新たにはならない。

 そうなのだ、この、「生身のキリストの十字架」に戻る信仰の姿の回復こそが、信者らしい、お困りご近所の難問解決の妙案。試す価値は120%。
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回心は運転から?

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エゼ33:7-9
 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。

(日本聖書協会『聖書 新共同訳』より)

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 先日十年数年ぶりに速度違反取り締まりに遭遇した。いつもは、全く意識しなかったところだけにショック。「二点減点ですが、3ヵ月間無事故無違反だと消えます。しかし、累積点として残るので、免許証の色が変わります。しかし、5年更新は出来ます。」取り調べの警察官が慰めてくれた。
 
 今日の本文を読んで、何故か、冒頭のエピソードが蘇った。「優良運転」の肩書きをはぎ取られ、「悪徳ドライバー」のレッテルを貼られた感じがしたからかも知れない。

 思い当たることは沢山ある。
 道端に設置されたレーダーに気がついて思わず速度を落として事なきを得たら、「引っかからなかった」自分を誇り、人が「引っかかった」話を聞くと間が悪い人だと同情し、追い越し車線は走る権利があるとばかりに傍若無人に駆け抜け、黄色信号は「滑り込みセーフ!」と言って突破し、前を行く車に、「遅い!」と言って、中央線が白線に変わるやいなやこれ見よがしに追い越そうとする。さらに、線路でも、一旦停止でも見通しの良いところではきちんと止まれない横着な性格。

 本文に曰く、「あなたが悪人に警告」したにもかかわらず、「彼(悪人)がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死」ぬ。 
 聖書で言う死とは、「神から離れた状態」のこと。神から離れた状態とは、「人に喜びや希望を分かち合えない状態。」否定的な言い方をすれば、「人に苦痛と失望をもたらすだけの状態。」

 亜の原意は墓だという。したがって、悪は「心が墓に納められた状態」というのはボクの勝手な理解。自分を悪人と思ったことはないが、少なくとも、運転中の態度はまさに悪人。これまで颯爽?とハンドルを握っていたとき、ボクは死んでいた!これは大変!

 そんな風に読んで気がついたことがある。失った二点を回復するための「三ヶ月は辛抱」の安全運転から、失った心を墓から取り出すための心穏やかな安全運転へ。急がず焦らず競わずのマイペース。み言葉が運転の世界まで入り込んでこようとは夢想だにしなかったので、まさに、たかが運転、されど運転。自分の未開発な部分に開発の手が・・・。
 運転の霊性とでも呼びますかな。
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洗礼の神秘を前にして・・・

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マタ16:13-20
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
 弟子たちは言った。
 「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
 イエスが言われた。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
 すると、イエスはお答えになった。
 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

 ずいぶん昔のことが蘇った。
 「青年の黙想会に来て欲しい。」長崎のある教会のカテキスタのシスターからの電話に戸惑いながら、出かけることにした。
 「日曜日のミサ?べつに・・・。行くのが当り前だと思っていますから・・・。」
 若者にとってミサは苦痛。ボクの話しの前提がくずれてあわてた。さすが長崎の若者だ!
 あれから25年。子供たちに同じセリフを聞かせているのだろうか。それとも、「近頃の子供は・・・」と教会離れの次世代に頭を抱えているのだろうか。


 司祭になる一年前の神学部4年生の授業は教会現場を想定した実践的なものが中心となる。
 「女子高校生が洗礼を受けたいと言ったら慎重に判断しなければなりません。」
 几帳面なカナダ人司祭が真面目な顔で説いた。その年頃の女の子は、憧れや情緒的な面が強いからというのが理由だった。

 若い頃のもう一つの話し。
 「無効な洗礼というのがあるのではないか。」そう思うことが何度もあった。「そんなことはない。どんな理由であろうと、洗礼は全て有効。神様の働きだから。」頭では分っていたのだが・・・。

 「あなたはメシア、生ける神の子です。」満点の答え!
 イエスは歓喜した。
 「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 小学生の時に洗礼を受けた隣のお兄さん。「神様は一人です!」「はい!」そして洗礼を受けたというあの村の人々。神父さんと友達になったので信者になったという小学校の先生。高校生の時に洗礼を授けたゆうこさん。
 この30数年にわたって関わった多くのモト信者達。
 
 「この人達はどうなるんですか?」
 イエスさまは一瞬困ったような顔をされたがすぐに笑顔になり、天を指さし、やがて両手を広げて肩をすくめて笑った。それは、まるで、「受洗者の動機がなんであろうと、はたまた、信者を増やしたいという司祭の聖なる野心によるものであろうと、アンタは心配せんでもいい」と言っているかのようだった。イヤ、それだけではない。御父の働きだったとすれば、その責任も御父がご自分でとってくださるということだ。

 それにしても、親は親なりに信仰伝授をやっても、何故か止まない次世代の教会離れ。思わずイエスさまを振り向いたら、やっぱり同じ仕草をされただけだった。

 とにかく全て御父の働き!有効!・・・ま、いいかっ!

 洗礼の神秘の前に御父の計り知れないご計画の不思議さを思った土曜の昼下がり。  
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パウロの信者像に迫る

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ロマ8:35・37-39
 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
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 コリントの人々のパウロ評は「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい」だったという。そのパウロがローマ人に向かって信者はいかにあるべきかを説いた8章。その結びが、今日の本文。まさに重々しく力強い!そしてりりしい!イヨーッ世界一!思わず声を上げたくなった。信者の心意気ここにあり、だ。

 勇ましい言葉に鼓舞されることはある。「元気をもらいました!」といって別れることもる。そのことが人生の転機になったということもあるかもしれない。

 しかし、思わず歓声を上げたくなったとはいえ、今日のパウロの畳み掛けるような問いかけには、正直言って、思わずひるんでしまう。
 艱難か!いやだ。苦しみか!とんでもない。迫害か!冗談じゃない。飢えか!やめてくれ。裸か!危険か、剣か!全部全部イヤだ!イヤだ!!イヤだーーっ!!!まるで、悪夢にうなされているみたいではないか。

 しかし、そんな逃げ腰モードを一瞬のうちに静止モードに変えてしまったのが「・・・神の愛から私たちを引き離すことは出来ないのです」という結びの言葉だ。気になってつい立ち止まってしまう。まるで、イヤダイヤダとだだをこねていた子供が、他のことに気をとられて一瞬泣きやんだときのようだ。
 それはともかく、信徒であり続けている現実。司祭であり続けている現実。それこそが、神の愛から引き離されることなく神の愛に踏みとどまっている証拠ではないか。しかも、様々な艱難や苦しみにもめげずに、周りの無理解という迫害?にもひるむことなく、文字通り裸一貫、ゼロからのやり直しがあったり、目の前に剣を突きつけられているようなせっぱ詰まった状況に直面しながらも、とにもかくにも信者であり続けている現実は尊い。

 だが、パウロはそんな甘い自己評価に反論するかのように言葉を続ける。「ワシが言いたいのは、『・・・他のどんな被造物も私達を・・・神の愛から引き離すことは出来ない』ということであって、ただ単に、信者であることを辞めなければいいと言っているのではない。」そんな風に聞こえる。
 
 この世にも神様にもいい顔をするふた心の信仰ではダメと言うことですか?聞き返したくなる。この世と妥協しながらの信仰で何が悪い!第一、私ら俗人は霞を食って生きるわけにはいきませんから。皮肉屋の彼の顔が浮かんだりもする。

 しかし、待て待て、いるぞいるぞ。熱心だが、どこか冷めていて、批評が好きな信者。ほめるよりもけちをつけたがる信者。悪くないとは思うがみんなを仕切っている信者。存在感がありすぎて周りが気を遣う信者。心配性の信者。これも悪くないとは思うが、司祭も信者の決定に従うべきだと主張する民主主義信者。信者批判になりそうなのでここらで止めよう。

 要するに、パウロが説く信者像の決定版?は、「私のこれらの言動は、神の愛に添うものかどうか」もっとやさしい言い方をすれば、「私のこれらの言動を神様も喜んでくれるだろうか」と素朴に自問自答出来る信者のこと。つまり、自分を客観的に眺めることの出来る安定感のある信者。そうなると、神様との愛の関わりも深みを増し、その実りとして、相互の違いを認め合う落ち着いた雰囲気の信者共同体が出来上がるに違いない。
 
 司祭も信者の一人として、暑さにめげず、目指せ、信者の決定版。
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万事が益となる!

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ロマ8:28-30
 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』より)
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万事が益となるように共に働く

 そんな風に思えたら、どれだけ楽かと思う。私達の問題は、しばしば、「万事がバラバラに働いている」としか思われないこと。一難去ってまた一難。ヤレヤレまたかよ!こんな風に、いろいろなことに振り回されているという被害者意識に取り憑かれてしまう。一旦そうなると、まさに、万事がてんでんバラバラに働き始めて、全くツイていない!ということになる。

 そんな私達のよくある姿の前に冒頭のみ言葉が立ちはだかる。まるで、両手を広げて通せんぼうをするかのように。いや、別に通せんぼうをしているのではなさそう。「神を愛する者たちには」という条件が付いていた!あなたが、神様を信じているなら・・・。
 そうはいっても、正直な話し、多くの信者達にとって、果たして、度重なる逆境をバネにして成長ラインを維持できているか心もとない。そういう決めつけた言い方は良くない。なんとか、目鼻を付けようと「呻いている」と言った方がいい。
 
 いわゆる物の本によると、バブルという最大の逆境を乗り越え、成長企業の名をほしいままにしているかのような偉大な経営者達はカリスマ経営者と呼ばれる。現状を分析して見通しを立てる才覚に優れているという意味かと思う。

 カリスマが「神から恵まれた才能」であると知ると、私達の父なる神は経営者の神様かと言いたくもなるが、よく考えてみると、信者は自分の人生の運営を任されている経営者のようなものではないのか。

 そうであるなら、自分の人生の運営は基本的には自分自身に任されていることになる。そんなの当り前だ!と声を上げたくなるなら、なおのこと、あなたは冒頭のみ言葉と真っ向勝負しなければならない。
「万事が共に働く。共に働く。益となるように。益となるように。ボクの益となるように。」何度も何度も繰り返し味わい続けることが第一にすべき事。真っ向勝負なので、み言葉とがっぷり四つに組む。バラバラに働き、なおかつ自分にとって不利益でしかないと思える事柄の一つ一つを思い描きながら、「万事が共に・・・」と繰り返す。これを繰り返すことで、「被害者意識」から解放されていくことに驚くことだろう。つまり、思い起こしただけで気持ちが滅入り、不利益としか思えず黒ずんで見えた事柄が、み言葉の息を吹きかけられることで次第に明るさを取り戻し、やがてメッセージすら送ってくるようになる。そして、ハッと気がついて思わず膝をたたいてしまうということも起こったりするのだ。だから、先ず試す価値があるのだ。

 現状を分析して見通しを立てる才覚とは、神を信じる者の場合、こうしたみ言葉との真っ向勝負無しには心もとない。そこが企業の経営者達と違う。飽くなき利益の追求を本命とする企業の経営者並みに、思考をめぐらすだけでは混乱の泥沼に沈むのが落ち。神の手の内を見極めるには私達の頭脳はあまりにも小さすぎるからだ。思い巡らしかつみ言葉を反芻し続ける。すると、言葉が生きて働き、呼びかける「みことば」に変わる「言霊(ことだま)信仰」の生きた体験こそ、あなたの人生に光明をもたらす。

 万事が益となるように共に働く。だから、怖いものなし。「そんな人生の経営者たれ!」パウロが檄を飛ばしている。
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呻きは祈りだった!

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 ローマ8,18-23
 現在の苦しみは、将来私達に現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』より)

 うめく、呻吟(しんぎん)する。通常口にする言葉ではないが、悲痛な叫びを連想することは出来る。押し殺したような重苦しさを感じることも出来る。そして、呻くような・・・となると何やらオドロオドロしい妖怪でも出てきそうな気配だが、実は、もっと前向きな意味がある。

 うめくは、呻くと書く。口はいわゆるクチを意味するよりも「お祈りの言葉を書いた札を入れる器」のことだという。申は神にもあるように、やはり神にまつわる意味を持ち、電光が斜めに走る形でそれが神が現れる姿だと考えたのだという(注)。こうなると、呻く姿が祈る姿に重なってくるから不思議だ。それにしても、神の前で呻くというのも少し変な感じがする。しかし、辛い現実の前で、乗り越えられそうにないほどの逆境の中にあって呻吟するのは、実は、神の前で叫びを上げている姿なんだと、古代中国の人々が理解したのだとすれば、パウロの神学に何と近いことか!

 パウロは言う。
 「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」

 生きづらいと言うか、難儀なことが多いというかそんな現実に生きる私達のあえぐ姿は、私達が贖われたい、つまりよりよい者、より生きやすい人生に変えられたいとの願望に他ならない。もしあなたが、霊の初穂(つまり霊のプレゼント)を受けた信者であるなら、そんな呻きの厳しい現実に押しつぶされることなく顔を上げて生きていけることが保証されていることが分るはずだ。 
 虚無に服しているはずの被造物、つまり「明日は炉に投げ込まれる野の草」(マタイ6,28)のようにはかない被造物でさえ、神の意志の外にあるものではない。つまり、人に踏まれて果てる草花の命でさえも神はいとおしみ、永遠に私達人間を飾るものとしての使命を全うさせてくださる。それが、パウロの言う「被造物の贖い」ではないのか。パウロは、あの山上の垂訓の主の言葉を思い起こしながらこの下りをしたためたに違いない。自然界を眺める柔らかでやさしい主の眼差しがパウロの神学によって深められ、被造物達のはかなさの呻き、自然界に君臨する人間達の呻き、つまりこの地上のあらゆる呻きに希望の光を当てられた。

 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と胸を張ることは出来ないとしても、また、私達の様々な呻きを、友達や家族と共有しようとするのが自然なことだとしても、どうせなら、神に直接呻いてはどうか。そうしたら、呻きの祈りとなって、冒頭で述べたように、申は「神が現れる様」なんだから、電光石火霊験(れいげん)あらたか?ま、希望の光を受けることは間違いない。

注:白川 静著「字統」467頁
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貧しい人、エレミアの苦悩とは・・・

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エレミア20:10-13 
 わたしには聞こえています 多くの人の非難が。 「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。 「共に彼を弾劾しよう」と。 わたしの味方だった者も皆 わたしがつまずくのを待ち構えている。 「彼は惑わされて,
我々は勝つことができる。 彼に復讐してやろう」と。
 しかし主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます。 それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき、勝つことを得ず、成功することなく甚だしく辱めを受ける。
それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。
 万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。 わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。
わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。
 主に向かって歌い、主を賛美せよ。 主は貧しい人の魂を 悪事を謀る者の手から助け出される。

(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

 一体、エレミヤに何があったというのか。四面楚歌。そんなただなならぬ状況を思わせるエレミヤの苦悩とは。
 エレミヤ第一章、特に13節以降を読むと分かる。当時のユダ王国の腐敗ぶりは目に余ったらしい。変質したヤーウェ信仰。頑迷な指導者達によって若いエレミヤの糾弾は無視され、ついには命までも狙われるようになる。エレミヤのストレスは高まり、いやがる自分を呼んだ神に怒りをぶちまけるような激しい祈りが続く。そして、もう何も語るまい、もう止めた!そう思っても、炎のように激しく燃え上がる内なる叫び。そんな整理のつかない懊悩の吐露。それが、今日の本文の直前7-9節。

 そして、後半14-18節は、今日の本文の最後の言葉とは裏腹に、自分の生を呪い、絶望の叫びで結ばれる。
 鬼気迫るエレミヤのすごさを感じる下りだ。エレミヤ書を是非手にして欲しい。

 ところで、そんなエレミヤの報われることのない預言活動から来る苛立ち、怒り、耳を貸そうとしないばかりか、容赦ないあざけりを浴びせる人々へのたぎるような復讐心にもかかわらず、エレミヤは策を弄することなく、復讐を神に委ねる。
 
 復讐心という言葉は、キリスト信者にはなじまない。しかし、復讐したい、仕返ししたい、ぎゃふんと言わせたいという気持ちは、現実には、大小、誰の中にもあり得る怒りの一種。それでも、既に日本語となって、特にスポーツで多用されるリベンジ(復讐)となると、健康的な響きすらするから面白い。

 いずれにしても、エレミヤのリベンジは、スポーツで勝った負けたのレベルではない。遙かに深刻であるにもかかわらず、怒りの矛先を人々に向けながらも復讐は神に。敵をも愛しなさいという新約の教えに至る過渡期の信仰?

 何よりも目を引くのは、「主に向かって歌い、主を賛美せよ。」苦悩の中にあって、やっと言えた自分自身へのメッセージ。痛ましい感じもするが、それが言えて預言者。なぜそう言えるのか。なぜなら、「主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される」からだ。貧しい人とはエレミヤ自身のことに他ならない。自分の身がどうなろうと、神が賛美されるなら良しとしよう。そんな心意気を持った人のこと。そんな貧しい人を見ると、神はどうしても見捨てるわけにいかない。そこが神の一番の弱いところ。そんな神の弱みを知っている者エレミヤ。不思議な信頼関係で結ばれた不思議な間柄。

 実は、そんな間柄に仲間入りしているのが信者。

 どんなに心が揺れ、不信の言葉を吐いたとしても、最後は、エレミヤに倣って何とか言いたい。「主に向かって歌い、主を賛美せよ。」それが無理なら、せめて、「ともかく、神様、あなたが称えられますように。」何とか信者の証を、まず自分自身にたてたい。主の預言職を頂いた信者の一人として。

 で、あなたと神様との不思議な信頼関係は?
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神様の相談に乗る

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 「実は、折り入ってお願いしたいことがあります。」そう言われると、誰でも、緊張し、一体どんなことかと身構えることになる。
 もし、友達であれば、少々の難題であっても、「アンタのことだから・・・」と何とか期待に応えようと努力するし、まして、お世話になっている人なら、この時とばかりに、恩返しのつもりで「分りました」と気合いが入るに違いない。
 しかし、もし、特に後者の場合、折り入っての頼み事に、「他のことならともかく、こればかりは勘弁してください」と断ったとすれば、恩返しに条件を付けたということになり、誠実な態度とは言い難い。確かに無理なこともあるとは言え、それでも、出来る限りの努力をして、恩に報いようとするのが人の道ではないか。
 もし、それすらもなく、全く取り合って貰えなかったとすれば、頼み事をした人は面目をつぶされたことになり、ムッとするどころか、「恩知らず!」と深く失望するに違いない。
 
 どうして、長々と、もしもの話しをしたかというと、今日の出エジプト記の本文を読んでみたら、モーセに語られた神の言葉が次のように聞こえたからだ。

 ヤコブの家、イスラエルのみんなに聞いてもらいたいことがるのだ。
 他でもないことだが、私がみんなをエジプトから救い出すためにどんなことをしたかはよく分っていると思う。そこでだ、折角ここまで逃れ、自由の身になったのだから、今後は、モーセと共に私との契約をしっかり守って生きて欲しい。もし、みんながそうしてくれたらどんなにか嬉しいことか。それだけではない。実は、私には大きな夢があるのだ。もちろん、世界は全て私のもだが、そうは言っても、まだ多くの民は私を知らない。そこで、みんなにお願いなんだが、私と他の民だみの仲介者となって、私のことをいい風に話して貰いたいのだ。あなたがたと同じように世界のみんなが私を信じるようになったら・・・。それが私の夢なのだよ。どうだね、私の祭司となってずっと私のために働いてはくれまいか。

 神との契約と言えば、どこか人ごとのような感じを否めない。恩着せがましくもなく、かといって、どっちでもいいという安易さでもなく、謹厳実直、イヤとは言えないお人柄。それがボクの神のイメージだ。だから、契約とは神様が期待を持って持ちかけた相談のことだ。自分の側から言えば、たまたま通りかかっただけなのに声をかけて貰った。それが、ボクの人生を変えた、ということになる。

 ヤコブの家、イスラエルの人々とは、他でもない、洗礼を受けた信者のことだ。幼児洗礼の子供たちに要求するのは、少し酷だとしても、一度は、明確に「ハイ」と答えて「神の祭司」の道を歩み出した大人たちの責任は大きい。神の実直さには実直な応答がふさわしい。しかし、神との契約履行(信者として生きる)には、いつでも、「自分なりに」という条件が付く。背伸びするのでもなく、人まねでもなく、自分なりに。しかし、実直に、そして誠実に。祭司であるあなたへの神の期待は大きい。
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信仰のゆがみを正す

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マタイ9,9-13
 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

 日本を代表する聖書学者雨宮神父さんの記事を読んでいて、イスラエルの「民のゆがみに気づかせ、・・・」という下りに目がとまった。そして、「信仰のゆがみを正す」というタイトルになった。まっすぐでない、ゆがみ。ピサの斜塔は名物になっているが、倒れやしないかと人々を不安がらせる。ゆがんだものを見るのは落ち着かない。目に見えるものは手直しも可能かも知れないが、ゆがんだ信仰は難しい。第一、自分の信仰のどこがゆがんでいるのか識別することすらしばしば難しい。
 ある町の教会。この数年、若い家庭が増えたので、ミサには子供たちが目立つようになった。主任司祭は目を細めるが、「ミサがうるさくなった」と嘆く声が聞こえるようになった。ミサは静にあずかりたいというのは分るとしても、「子供はどうしてあんあんあんあん泣くんだろう。神様を呼んでいるんだよ」という詩人八木重吉の心境にみんながなればいいのにと思った。
 あの頃2才のチーちゃんは、なぜかミサになると一人で盛り上がり、会衆の前面、祭壇のまん前でデングリ返りをよくやった。みんなから「イエスさまのチアガール」と呼ばれて得意満面だった。眉をひそめる人は皆無だったのに、町の教会ではそうはいかないのだろうか。
 チーちゃんのような活動?を認めようとしない教会というか、信者の集まりは、どこかゆがんでいやしないか。微妙な問題ではあるが・・・。
 ゆがみは、何も信徒だけの問題ではない。責任ある位置にいればいるだけゆがみは見えにくくなるように思う。福音の教えに忠実かどうかよりも、「立場上」、「責任上」が切り札となる場合は少なくないのではないか。そのように、個人のレベルを超えた信仰の姿は決して生やさしくない。そんな悩みは、教会も昔から体験済みのようで、そんな時の妙案を残してくれた。どっちに転んでも、誰かが泣くことになるという場合、つまり、どちらかを選ばなければならないときは、「より小さい悪を選びなさい。」苦肉の策としか言いようがないが、苦労が偲ばれる。自分にも経験があるので笑えないが、後は、神様に委ねて、「なるようにしかならない」と腹をくくるしかない。
 ところで、信仰のゆがみの問題は、町の教会の問題のような、もっと日常的な事柄をめぐっての方が深刻のように思う。苛立ち、不平、不満など、否定的感情に支配されるときは、自分のゆがみを見るチャンス。しかし、「そんなの常識!」、「人間だから当り前」「ミサは静であるベキ」などが顔を出してくるので、よほど正直に、妥協することなく、自分のありのままを見る練習をしないと、ゆがみなど見えてこない。見えたとしても、せいぜい相手のゆがみだけ。熱心がアダになることも・・・。
 今日の福音が指摘しているのはそんなことではないのか。イエスのゆがみを指摘した人々に対するイエスの答えは厳しい。「行って学びなさい。」どっちがゆがんでいるのか、「もっと練習してから出直してこい。」イエスの叱責を聞き逃すとソンをするのはあなた。
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