こころのたね

ここでまく種が、どこかで花を咲かせてくれたらいいな(*^_^*)
2018.8月より再開!母になりました✨

東進セミナー

2009-06-26 18:47:46 | 思い出
東進セミナーというのは、私が中学3年生の時に1年間通った塾です
今は名前も変わって統合されましたが、以前は地域に3校ありました。
私が通っていた所は、80人以上が通っていたと思います
4クラス制で、月1回のテストのたびに成績順で、上からTS・SS・S・Aクラスに振り分けられるんですよ


私の塾生活は、受験のためと母に強制的に入れられて始まりました
ゆうちゃん姉妹が先に通っていたとはいえ、最初は嫌で嫌で仕方がありませんでした
けれど他の中学校の友達が出来て、先生たちとも打ち解けられて、だんだん楽しくなってきて・・・
最初はSクラスかAクラスだった私が、夏からはSSクラスの常連になって、最後のクラス替えではついにTSクラスに入ることができたんです
(でもTSクラスはメンバーも全然違うし、レベルも高いし、「私SSのがいい!TSじゃなくていい!」と先生に駄々をこねたりしましたが(笑))



各教科の5人の先生たちは、みなさん個性的
理科の塾長(自称・ジェームス先生)は、口癖?が「どへどへ!」でした。
数学の自称・トーマス先生は、生徒によって扱いが違います。
国語の自称・ボブ先生は、いつも奇抜な色のYシャツを着ていました。
英語のM先生(唯一の女性)は、超!!スパルタレッスン。
社会の新幸ちゃんは、1人で勝手にいじけちゃうおじちゃんです。


特にトーマス先生・塾長・ボブ先生からは、かなりいじられました~
私は数学の成績が壊滅的だったこともあり、本当に数学が嫌いで・・・
数学で0点を取ってしまい、激怒したトーマス先生に「便所に流すぞ~!!!!」と塾の水洗トイレに流される・・・という悪夢を見たほどでした
その夢を話したら、トーマス先生は「お前よっぽどやな~!」と大爆笑
本当に、どれだけ数学に追い詰められてんだって感じですよね
後日あった答案返却の時に、普通に1人1人の名前を呼んで返していたトーマス先生が突然、「便所!」と叫びました
全員きょとーんとした教室。
すると、「おい、加来!お前て!はよ取りにこんか!」
「えぇぇ~!!私のことですか~!?」
へんてこりんな呼び名に、今度は訳の分からないクラスのみんなも大爆笑
しかも点が低くて怒られて、重ね重ね相当恥ずかしい思いをしました・・・
それからもずっと私だけ、答案返却で名前を呼ばれるついでに点数だけバラされ続けて赤っ恥です


またある時には、職員室にいるトーマス先生が、教室にまで聞こえる大声で「こらぁぁ~!!加来ぅぅぅ~~!!!!」と怒鳴りました
次の授業の予習をしていた私には怒られる心当たりはありませんが、塾内に同じ名前の子はいないので、おそるおそる職員室へ出頭・・・
すると、またしても数学のテストの点が悪かったと、お説教をくらいました
大声で呼ばれていたおかげで、たくさんのギャラリーに見られながらの公開お説教大会
横にいたボブ先生が、「国語は1位の成績なのにな~」と大笑いしてくれちゃったので、更に怒られるハメに
「お前は国語がそんなに出来るのに、なんで数学がこうなんや!俺が給料泥棒講師みたいやないか!」
「いえそんな・・・私ほんとに根っからの文系なんです・・・これでも大健闘ですよ・・・」
「俺を鬼みたいに思っちょうかも知れんけどな、本来は優しいんぞ?特に女子にはこんな扱いせんしなぁ」
「私・・・女子ですけど!?というか男子にさえも、こんな扱い見たことないですけど!?」
「はっはっは!お前は特別!!良かったな~!!」
・・・全然良くありませんよね


“便所騒動”を知っている塾長が、授業中に私の顔を見て突然吹き出しました
何事かと思ったら、「お前の頭にトイレ掃除で使うスッポン(?)がくっついちょう幻が見える・・・」ですって
まったくも~、失礼しちゃう


私がインフルエンザにかかって1週間ほど塾を休んだ時、
「なっちゃんが休んじょう間、先生の機嫌が悪くて大変やったよ~」と言われました
えっ、私は先生のストレス発散に貢献させられているの
その日は病み上がりの私にも、先生たちは嬉々として絡んできました
それを見て、「良かった良かった」と満足げなクラスメイトたち
・・・まったく嬉しくありません


そんな先生たちのせいで、自分が知らない子から変に知られているという、
塾内でのちょっとしたありがたくない有名人になってしまいました



そんなこんなでワイワイと頑張った結果は・・・
元々得意だった国語は、満点を取らないとボブ先生に怒られるくらいになりました。
生理的に受け付けない数学は、それでも人並みには点数が取れるようになりました。
社会と理科は、ぼちぼち・・・(笑)
理解不能だった英語は、スパルタレッスンのおかげで得意科目になり、M先生にとって伝説の生徒になったそうです。
そしておかげさまで、志望校合格


塾での勉強は本当に厳しくて大変で、学校の休み時間も常に宿題に追われる毎日
学校が終わって軽くご飯を食べて塾に行って、帰宅は日付が変わる頃
いやぁ、あの頃はとてもよく頑張っていました・・・褒めてあげたい


でも、本当に楽しい思い出がたくさんある場所です
東進では色々な逸話?もあるので、のちのち他の記事でご紹介する事があるかもしれません


専門学校までの通学路

2008-09-18 18:46:26 | 思い出
今日は午後から、仕事関係の説明会に参加しました。


会場が私の母校(専門学校)の近くで、かなーり久しぶりに通学路(?)を歩きましたよ
駅の改札を出て、ショッピング街を通り抜けて外に出て、家電屋さんの横を直進、横断歩道を渡って、公園を通って・・・
違うお店になっていたり、公園が工事中だったり、色々変わっているものがありました。

でも、覚えている店もたくさんあって、1人でなつかしさに浸ってしまいました
駅の中を歩く時は、人波を上手に歩けなくて流されてたなぁ・・・とか、色々思い出して(笑)


帰りはちょうど授業が終わった時間と重なって、後輩らしき団体と一緒に駅まで戻りました



たった2年足らずでも、毎日のように歩いた短い道。
もうなかなか歩くことはないので、今日は通る機会があって良かったなぁと思いました


給食ムース

2008-05-21 19:03:30 | 思い出

どこのエリアの方にまで通じるか分かりませんが、このムースを見て「なつかしい~!」と思いませんか?


小学校・中学校の時たまに出ていたこのムースは、給食の中ではスター的存在
献立表の中に“ムース”という字を見つけた瞬間から、みんなその日を待ち望むくらいでした

溶けてなめらかになったムースもおいしいですが、半解凍くらいのムースが私は好きです
小さくてすぐになくなってしまうから、みんなちょっとずつ、ゆっくりゆっくり食べていたなぁ


今でもきっと、たくさんの小中学生の心の支え(大げさ(笑))になっているのでしょうね



体育祭実行委員会

2007-10-24 21:01:13 | 思い出
ふと思い出す、5年前の秋のこと
今日は、専門学校時代の思い出、体育祭実行委員会のことについて書きたいと思います。
話せば長くなってしまうのですが、よかったら読んでください



私の行っていた専門学校では、1年の秋に体育祭がありました。
夏休みが終わった頃にかかってきた、担任・ヒロシ(電話魔)からの電話
「今度は何の用やろ?」と思って出ると、「体育祭実行委員になってくれんか?」と言われました。
お願いというよりも、マンツーマンで任命の電話…私は頷くしかありません(笑)
各クラス2人ずつの委員、うちのクラスからはヒロシの独断で、私とM君が選ばれたのでした


そして初めての実行委員会
たくさんの科とクラスがあり、委員が勢揃いすると30人くらいで、知らない人ばかり。
そこで話の流れで、なぜかM君が委員長に選ばれました(笑)
副委員長(男子)と書記(女子)は、立候補があって決定
毎週放課後に委員会が開かれるようになりました。

けれど、書記になった子が2回目からいきなり委員会に来なくなり…そのままフェードアウト(笑)
来年の委員になる後輩のために話し合いや経過の記録が必要ですが、委員長は司会・副委員長はまとめ役でホワイトボード記入…
する人が誰もいなくて仕方ないので、クラスメイトのよしみで私がノートに記録していました
そしてある時、委員会の先生が「おーい、書記~!」と誰かを呼びます。
書記とかおらんやん!?と思いましたが、「もしかして…?」と振り返ってみると、やっぱり私で正解
「私は書記じゃありませんけど…平委員なんですけど…」と言えぬまま、私は書記と呼ばれるようになりました(笑)



体育祭のことで決まっていたのは、日程と時間と会場と予算だけ。
実行委員会にいる主な先生は1人だけ。
進行・スケジュール・競技内容・ルール・選手・景品などを決めること、用具作り、昼食の手配やゴミの始末など、その他すべては実行委員の仕事だったのです
これはなかなか…怒涛でした


体育祭まで1ヶ月を切ると、委員会も頻繁になり、終わる時間も夜遅くなり、帰宅時間は11時前後…
みんなの焦りと疲れがピークに達していた、体育祭直前のこと。
なんと、委員長のM君が連日の病欠
他の委員の子に「委員長はどうしたとー?」と聞かれ、「いやよく分からんのよ、体調悪かったもんね…ごめんなさい」と答える会話の繰り返し
そんな緊急事態の中「私は平委員やもん」なんて言っている場合ではなく、副委員長と2人で必死に委員会を仕切りました
この時の団結力は、自分達ながら素晴らしかったです



本番前日になってようやくM君が復活して、何とか無事に迎えた当日
盛り上がるとは期待していなかったのに、体育祭は結構な盛り上がりでした
私はそれを喜んだり実感する暇もなく、あちこち駆け回っていましたが

体育祭が終わって反省会があり、その後は打ち上げということでM君たちとラーメンを食べに行きました
その時のラーメンの味は、格別だったなぁ・・・



後日の放課後に委員会全体での打ち上げがありました
お菓子やジュースを買い込んで、教室でワイワイ騒ぎながら体育祭を振り返るものです
打ち上げの終盤に先生が、「じゃあ最後に、役員からそれぞれ挨拶してもらおう!まずは委員長から!」と言いました。
M君が挨拶をして、次に副委員長が呼ばれて挨拶をして…
予感はありましたが、その次にやっぱり先生は私を指差し、「じゃあラスト、書記ね!」ですって
ここでようやく私は、「書記と呼ばれて仕事はしてましたが、実は私、書記じゃなくて平委員なんですよね…」と言えたのです(笑)
「あっそういえば!」「言われてみれば、そうやった!」「わぁ、今までありがとう(笑)」と、最後にちゃんとオチがつきました(笑)



全然知らない者同士が集まって、一つの目標に向かって話し合って力を合わせて。
始めはよそよそしかったけれど、打ち解けるまでに時間はかかりませんでした
仕事は大変でしたが、委員会は楽しかったです
普段は接点のない人達と仲良くなる機会をもらって、「自分達がやったんだ!」と言い切れる体育祭を成功させることができて・・・本当に貴重な経験をさせてもらったと思っています



体育祭練習

2007-08-21 18:07:18 | 思い出
この時期になると、思い出すことがあります。
高校時代にあっていた、体育祭の練習のこと


母校の高校では9月上旬に体育祭があるので、お盆明けから全校練習が始まるのです
夏休み前半は、午前中に課外・昼に体育祭のダンスなどの練習が少し。
後半になると、午前中に課外・午後は夕方までミッチリ全校練習
自称進学校なので授業時間が多いのに、体育祭にも力を入れちゃっていたもので・・・
まったく“夏休み”の意味がない、というより夏休みのほうがつらかったのでした(笑)



ブロック対抗の体育祭で、夏休みには校庭にブロックごとのスタンドが建てられます
スタンドというのは、私たち生徒全員が座るひな壇のような・・・とにかく大きいです
このスタンドが作られ始めると、「あぁ~もうそんな時期か~」と憂鬱になるんですよね


練習内容は、主に各ブロックごとの応援合戦
スタンドに座って“スタンドパネル”と呼ばれる木製パネルを持っての練習です。
スタンドパネルは支える棒がついたT字型で、本をめくるように各色のパネルをめくれるようになっていて、
みんなのパネルで文字や絵を作り出すものです
木製だから重たくて、教室と校庭の往復で持ち運ぶのがつらかったなぁ
めくるだけではなく、パタパタしたり、回したり、それに合わせて大声で叫んだり・・・
本当に難しくて大変で、なかなか上手くいかず、仕切るスタンドパネル長はいつも血管が切れそうになっていました(笑)
ひたすら怒られて何度もやり直しをさせられる私たちも、最終的には血管が切れそうでした(笑)


ブロック練習の他には、入場行進の練習、男子のタンブリングや女子のダンスの練習、各種目のリハーサルなど。
午前中は蒸し暑い教室で勉強、午後は炎天下の校庭でぶっ続け練習・・・
体育祭が近づいてくると、準備で夜まで居残りしたりして。
日焼け止めを塗っても全然おいつかなくて、かなり日焼けしてました
なぜか私、いまだに体操服のクォーターパンツの日焼けが残ってますよ・・・
よく頑張っていたなぁ、今ならもうできないなぁ



思い出したくもないような、灼熱の練習地獄 
でもその練習を乗り越えての体育祭は、本当に高校時代の大きな思い出です
本気で騒いで、本気で応援して、本気で頑張って、本気で喜んで、本気で悔しがって・・・本気で楽しんでいました
あんなにみんなで頑張れることってなかなか無いんだって、今になって分かります
みんなで泣いて、笑って、何ものにも代えがたい経験でした
練習は本当に本当に本当にきつくて、毎年「いやだ~!!今年こそ死ぬ~!!」と嘆いていましたが・・・(笑)
そこを乗り越えた先には、いつだって最高の笑顔と涙と感動がありました



今ごろ母校の後輩たちも、毎日延々と練習を頑張っているのでしょう
ぜひ本番で「頑張ってよかった!!」って笑ってほしいです
熱中症・熱射病に気をつけて、頑張れ後輩たち


忘れられない「もしも」

2007-08-10 20:06:35 | 思い出
今日は、ちょっと変なお話です
“思い出”のカテゴリーに入れるかどうかで迷ったのですが、これも私の高校時代のカケラなので入れました。
まぁ読んでやろうかな~という方は、お付き合いください



高校生の頃、仲が良かった友達に言われた、忘れられない言葉があります。
「もしもアナタが何かに取り憑かれて自我を失って、大量殺人する人になったりしたら、私に殺してもらいたい?」

普通に世間話をしている合間にそんなことを言われたので、
私は「は!?」とまぬけにキョトンとしてしまいました(笑)
「なん言いよんね?」と笑った私と、やけに真剣な顔をしていた彼女。


ちなみに実際には、「アナタ」の所にはお互いの呼び名が入ります
友達から急にこんなこと言われたら、ビックリしますよねぇ


「アナタにだけは絶対頼まん。」と更に茶化そうとした私ですが、
「でも身近な人にさぁ…」と返してくる彼女を見て、どうしてか知らないけどこれは真剣な話なんだ…と思いました。


「どうしても戻らんのなら…みんなを殺してしまう前に、確かに自分をどうにかしたいね。」
話の展開についていけないながらも、そう答えました
すると「それ、誰に頼む?」と、もう一度尋ねてきます。
こういう風に明確な答えを出してしまうこと、実は大の苦手
それでも少し軽い口調で、「家族には頼めんし、人を選ぶ頼み事やね…じゃあ、やっぱアナタに頼むかな。」みたいなことを言いました。




今度は、「もしも反対の立場になって、私が殺してほしいって頼んでたら、どうする?」
という2つ目の質問。
また、難しい…
最初よりは答えやすいけれど、私の答えを言うのはちょっと恥ずかしい…

でも答えないと終わりそうにないので、口を開きます。
「うーん、とりあえずは諦め悪く粘ってみようかね。」
当然キョトンとした顔をされたので、続けて喋ります。
「まずは友達になった時のことから、楽しかったこと、喧嘩したこととか、これまでのこと全部話す。
 それでも元に戻ってくれんかったら、私のことが分からんかったら…。
 その時は絶対、殺される前に私の方がどうにかするよ。」

ちょっと過激かもしれませんが、本音で答えました。

3つ目の質問は、「そのあと、どうする?」
正直言うと、答えは「わからない」でしたが、考えて考えて…
出した答えは、やっぱりハッキリしません(笑)
「最初は私も後から死のうとすると思う。
 けど、アナタは多分それを望んでない。やろ?
なら、全部背負って生きていけたらいいっちゃけど…。」

そしてお互いに「じゃあ“その時”はよろしく」なんて話をしたような気がします(笑)



その後どうなったかは、まったく覚えてないんです 
話は続いたのかな、そこで終わったのかな。
彼女はどうしてそんなことを聞いてきたのかな、納得してくれたのかな。
彼女にとっての正解は何だったのかな、私はちゃんと答えられたのかな。


今となっては分かりません。
もうその子は、自分がそんなことを言ったことすら、覚えてないかもしれない
幸い、“その時”は来ていませんしね(笑)


でも、もっとちゃんと答えてあげられればよかった。
苦手でも、照れ臭くても、重くなるかもしれなくても、1つ目の質問からもっと向き合えばよかった。
「例えばアナタを殺して生き続けるより、アナタの友達のまま死んだほうがいいよ。」
素直にそう言えたらよかった。
それを聞いた彼女はきっと、「私のこと、大好きなのねぇ」って、ニーッと笑って言ったはず。
もしも、言っていたら。
そうしたら、今と何かが変わっていたのかな・・・。


彼女が本当に欲しかった答えはおそらく、その「もしも」の例え話に対する明確な回答というわけじゃなくて。
私が彼女のことを、親しい友達としてどんな風に思っているか・・・それを確かめたかったのでしょうか。
今なら、それを察することができたのに・・・


ふと思い出しては、そんなことを考えます
その子からの「もしも」の質問に、私は今でも「もしも」で答えを探しているのです



書いていたらこんな感じになってしまいましたが、別に何か落ち込んでいるわけではありませんので(笑)
ただちょっと・・・やっぱり忘れられないんですねぇ
もし親しい友達にそんなことを聞かれたら…
みなさんならどう思って、どう答えるでしょう。

あだ名

2007-06-19 19:44:14 | 思い出
みなさんには、印象に残っているあだ名ってありますか?


これまで私にもいろんなあだ名がありましたけれど、1番インパクトが強かったあだ名は、
専門学校時代の「おかあさん」
キッカケは、クラスの誰かが私に言った、「いいなぁ、ホントにお母さんみたい!」という一言
それを聞いていた周りの人たちが、「確かに!」「ねぇ、おかあさん」と私を呼び始め、次第にクラスに浸透していって…。
それから男女関係なくクラスメイトの半数が、私のことを普通に、自然に「おかあさん」と呼ぶようになったんです
最初私は戸惑ったし、「色々おかしいけど、何より私は早生まれだから!アンタ達のほとんどより後に生まれてるよ!」なんて思っていましたが、
でもしばらく経って気付いたら、こちらも普通に自然に返事をしていました(笑)



とは言っても、廊下に居る時に遠くから大声で「おかあさーん!!!」と呼ばれるのは恥ずかしかったですね
他のクラスの人が「えっ、誰!?」って振り返るのが気まずくて

それと私のことを知らない人達の前でも、普段通り「おかあさん」と呼びながら日常会話を続けられるので、必ずおかしな事になりました
その後の話の流れは、「えっ、おかあさん!?」「なんで!?」になります
そのおかげで、色々な人とすぐにお喋りできましたけど
でも散々仲良くなった後に、「ところでおかあさんさぁ、名前は何かね?」というオチもあり(笑)



本当に「おかあさん」には、いろんなエピソードがあります
もしクラスメイトが専門学校時代のことを思い返した時、私の名前は思い出せなくても、
「そういえば、おかあさんって居たな~」みたいに思い出してもらえるかもしれない

ちょっとおかしなあだ名ですが、みんなが親しみを込めて(?)呼んでくれた、ありがたい呼び名だと思っています




ウォークラリー大会

2007-05-24 18:41:42 | 思い出
この時期になると、思い出す事があります。
専門学校時代にあった、悪夢のウォークラリー


私の通っていた科では、レクリエーションインストラクターという資格も取得することができます
そのためには、1年と2年で1回ずつ、ウォークラリー大会に参加しなくてはいけませんでした。

1年生の時は、特別問題もなく無事に終了
しかし、事件は2年生の時に起こったのです


2年生の時の会場は、うちの担任の先生(通称ヒロシ)の地元・宗像でした。
みんなが集合する博多駅からは、会場の最寄りの駅までに1時間以上かかります
最寄りの駅から、1時間に数本しかないバスに乗り換えて行くしかない、交通の便の悪い場所
せっかくの日曜日だというのに、みんな普段よりも相当早起きをして、人がいなくて静まり返った博多駅に集合…
その時の大会は、ヒロシが主催者の1人にもなっている大会でした。


5月の半ばでしたが、夏のように日差しが強くて暑い日だったなぁ
ウォークラリー自体は、去年の経験もあって慣れていたので、
どのグループも問題なく終わりました
予定時間よりもずいぶん早くゴールしてしまって、拍子抜けしたくらいです

問題は、大会が終わって解散になった後
ヒロシに「じゃあみなさん、ここで解散です。バスで帰ってください」と言われ、
クラスのみんなでバス停に行って、時刻表を見ました。
すると・・・バスが、ない
バスは行ったばかりで、次のバスが来るのは2時間近く後だったのです
時間を潰そうにもすごい田舎で、時間を潰せそうな場所はなく、
会場にはヒロシの姿ももうありませんでした

しばらくの間、呆然とした私たち・・・
「・・・駅まで歩いたら、1時間くらい?」
「たぶん、それくらいはかかるやろ」
「2時間待つのは・・・厳しいよね?」
「時間もったいないしね・・・」
「・・・歩く?」
という感じで、駅まで歩くことに決定。
まだ日差しの強い中、行列になって歩きました

なぜか日陰のない道、上り坂と下り坂ばかりの繰り返し・・・これはウォークラリー以上にきつかった
「1年が百道の都会なのに、なんでうちらはこんな便利悪い所の大会なん!?」
「ヒロシには地元でも、うちら完全にアウェイやん!!」
「主催なら帰りのバスの時間も、計画に入れんといけんやろ~!!」
「休みの日にバカみたいに早起きした挙句、これかい!!」
と、怒りのパワーで自分たちを支え、必死で歩いたのでした・・・
「ウォークラリーが終わらないぃぃ~~!!」状態(笑)


その夜、事情を知ったヒロシから、出席番号順に電話がかかってきました
出席番号の終わりのほうの人にかかってきたのは、もう日付が変わった後。
「疲れて寝ちょうのに、起こされた!!」と、次の日会ったみんなは、
さらに激怒していたのでした・・・(笑)



そんな間抜けで気の遠くなるような、5月の灼熱地獄
今となっては笑い話・・・ですが、あの日の疲れと怒りが軽くよみがえってきます
もうあんな体験はしたくないなぁ、今なら途中で行き倒れると思います(笑)


鯰小☆写真館【校舎編】

2007-04-20 18:14:31 | 思い出
私の母校の写真・第3弾です


校舎・・・古くて汚いんです(笑)
こちらが教室ばかりある校舎です。
冬に撮った写真なので葉のないあの木は、実はイチョウの木。
秋には黄色い葉っぱがパラパラ落ちて、掃除当番の時は大変ですが、
とってもきれいなんですよ




それからこちらは、玄関です
なぜかここだけ、壁がこんな洒落た感じなのが不思議です(笑)
そして更に不思議なことに、玄関前にこんな南国チックなスペースが(笑)
ヤシの木のようなものが植えてあります、イチョウの木の横です・・・



この玄関がある方の校舎に、職員室や特別教室が集まっています。
私たちは、6年生の時の教室に、特別教室を使っていたんです
教室の数が足りなかったか何かで、私たちの学年だけ反対側の校舎を割り当てられました。
特別教室は他の教室より広いし、普通の教室とは作りも違うし、面白かったです

確か1組は理科室、2組は美術室、3組は音楽室
私は2組だったので、美術室。床の色がオレンジでした
教室の横には小さい美術準備室があって、そこも私たちの遊び場でした


古くて汚い校舎だけれど、たくさんの思い出がつまった場所です


鯰小☆写真館【校庭の遊具編】

2007-04-04 19:13:02 | 思い出
スーパージム編に引き続き、母校の写真を載っけてみます
今回は、スーパージム以外の校庭にある遊具の写真です


1枚目の写真は、すべり台
私が通っていた当時は、このすべり台の下の所に、赤い遊覧船?が付いていたはず
4人乗りでギコギコ揺らして乗る、大人気の遊具だったのに
いつも誰かが順番待ちしているような感じで・・・。
老朽化したのでしょうか、分からないけれど、
これでは楽しさが当時の半減どころか、10分の1ぐらいだろうなぁ





それから、こちらは丸太渡り?です
スーパージムのすぐ横にあります
高所恐怖症の私でもこれなら普通に遊べるので、よく渡っていました
歩かずに、丸太の上に乗って足で揺らしたりとか




帰って来てから気付いたのですが、ナマショーの写真を撮ってなかった~
鯰小卒業生には、「なんしよんか~!!」と思われているでしょう(笑)
なんだか、自分が見ただけで満足しちゃって・・・あはは


ナマショーというのは、言葉で説明するのが難しい遊具
大きいタイヤが重なっていて、その上に立派な棒があって、そこから縄が3本くらい吊るされています。
タイヤに足を掛けて上り、縄につかまって、タイヤを蹴った反動でグルグル回るんです
楽しいけれど危険なので、遊べる学年制限がありました
何で「ナマショー」と呼ぶのかは、まったくの謎です(笑)
けれどまさに、鯰小の象徴という感じの遊具でした



この他にも、ジャングルジム・砂場・鉄棒・タイヤなど、校庭には色々な遊び場があります。
考えてみると、遊び場に恵まれていましたね