今回入手した各種資料、チョイ読んだだけでも目から涙ならぬウロコが・・・
そーなんだ!の如何に浅薄な知識、涙、涙で寂しい限りです。
こっちの知識、長登鉱山奈良時代の開山ってのは知っていたが、
その後も連綿と続き、閉山は昭和時代と思っていた。
資料では、奈良~平安時代、皇朝十二銭の時代以降、完全に鉱山廃れ、江戸時代に再開発、昭和までと2分。
そこで分かった、長登の謂れ、噂!「奈良登りが訛って長登になったんだ」とする伝承。
鉱山開発が奈良時代まで遡るとは、昭和40年代まで思ってもいなかった。それが今では です。
これと同様なことが、あっちの香春岳にもあれば良いが、資料を見てる限りじゃ期待薄!
しかし、思いは同じ、あってもおかしくない!! 筈?!
ってことはさておいて、こんな問題どう考える?
1.考古学資料がある鋳銭所
長門、周防、山城
2. 史料からの貨幣献上国
近江、大宰府、播磨 銅銭を鋳造して献上(続日本紀)
3. 鋳銭司等の名称のある場所
長門鋳銭司 :考古学資料と一致(和同開珎)
周防鋳銭司 :考古学資料と一致(8種類が製造されたとするが、現在発見は3種類の鋳損じ銭、承和昌宝他)
岡田鋳銭司 :考古学資料と一致(山城)(和同開珎)
田原鋳銭司 :仁藤説による鋳銭司で、岡田鋳銭司の異説に当る
葛野鋳銭所 :後期の皇朝十二銭の鋳造場所?
河内鋳銭司 :銀銭の鋳造を行っていた可能性がある
和同開珎は大きく分けると、古和同と新和同に区分でき、古和同の原料、各地にあるが、新和同に関しては長登鉱山が主体らしい?
と云っても、長門鋳銭司で発見された和同開珎は1枚のみ?
皇朝十二銭に関して、周防鋳銭司での鋳銭だが、鋳型等の発見まだ少ない感?
うーん?まだまだ謎多き鉱山背景、貨幣鋳銭についてもか!
ただこれらもこっちの調査不足の可能性も・・・
今後も新たな資料が見つかれば、修正等も含め資料追加も進めていこう。
思った以上に資料少なく、皇朝十二銭の実物あるのに実際どーなのかな?
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