雑記(退避所)

個人的雑感と個人的に気になる主に特定地方だったり公共交通だったりするニュースをやる気なく記載(予定)。

上杉謙信さんの楽しげなエピソードをてきとうに列挙してみる試み

2006-11-04 14:01:50 | 歴史
このあたりを書いていてフと思ったのですが、謙信の印象がみょーに高潔だったりしたのは、ひょっとすると明治政府の関係なのでしょうか?謙信が神格化されたのは明治時代になってからだったような。新田義貞の祭り上げが、主に明治時代以降なんじゃないかとゆーのは、実感としてあったんですが(江戸時代にもワッショイされてたカンジはありますが、金山城に点在する石碑なんかは陸軍とかのが多い気がするのでなんとなく)。…なんか話が逸れました。

そんな訳で(意味不明)上杉謙信さんの楽しげなエピソードをてきとうに列挙してみるですよ。以下に挙げる話の中には、真偽のほどがかなりアヤシイものもありますが、何がコワイって、いろんな情報を総合して考えてみると謙信さんならなきにしもあらずとゆーキモチになってしまうことだ…!(なるなよ)

なお、出典の著者名等は敬称略にて失礼致しますがご了承ください。
[ドキッ!美少年イッパイの徹夜大宴会]
謙信は二回ほど上京しているそうですが、その二回目の上京の折に近衛前久さん(関白)他の皆さんと夜通し酒を呑んでいたりしたようです。しかも、宴会には「華奢な若衆多数」=美少年がイッパイいらっしゃったそうです。謙信さんは「若衆数寄」=美少年スキーだとゆーことが断言されてしまっております。まあ、ある意味わかりやすい"地位のある僧侶"って気はしますが…(笑)。
出典:近衛通隆『近衛前久の関東下向』(『戦国大名論集9 上杉氏の研究』吉川弘文館/1984.12)
[国主なのに家出事件]
越後国内のゴタゴタが続いていた折に、イキナリ引退表明アンド比叡山にGo!という離れ業をやってのけいるようです。さすがにあわてた周囲の皆さんに途中でつまかり、説得の上「忠誠を誓うこと」「人質提出」とゆー条件で、お戻りになられたようですが。単にイヤになってのことなのか、高度な戦略なのかは不明ですが、戦略だとしたらスゴイな謙信さん!
ただ、個人的感想で申し訳ないのですが、もしワタクシが部下だったら、例えそれが戦略であったとしてもこんな社長はイヤだと思います。
出典:井上鋭夫『新潟県の歴史』山川出版社/1970.10:その他たくさん
[うっかりして従ってくれてた一族を滅ぼしちゃったよ事件]
小田原の北条さんちをターゲットに、何度か大々的に関東出兵をしている謙信さんですが、そんな謙信さんたちの関東での拠点にされてたお城は、元々地元の有力者のものでした。山を越えてやってきた謙信さんに早々に従ったにもかかわらず、滞在地で馬があばれたのを謀叛とカンチガイされて討ち取られ、あっさりと一族滅亡。すごいですね勘違いって…!(苦笑)
出典:山田武麿『群馬県の歴史』山川出版社/1974.1
[うっかりしてみんな敵になっちゃった事件]
謙信さんの苗字は元々「上杉」さんではなく「長尾」さんです。関東に大々的に出兵してきて、鎌倉の鶴岡八幡宮にお参りした際に上杉さんちを継いでいるのですが、そのときにお出迎えしてくれた地域の有力者が馬に乗ったままだったのを見た謙信さんは、怒って彼を馬から引きずり下ろしたそうです。それを見ていた他の人がヒいてしまい、みんな居城に帰ってしまったという話。馬に乗ったままのお出迎えは故事に倣ったことだったそうですが、何も引きずり下ろさなくても。
出典:江西逸志子 (著)/ 岸 正尚 (訳) 『小田原北条記』教育社
[うっかりして河に流されちゃったよ事件]
武田信玄さんと川中島で和睦した際、信玄さんが馬から下りないのを怒った謙信さん(またか)が、雪解け水で増水中の犀川に突進していき、自分も馬も兵士も流された上、流木につかまって何とか生還なさったそうです。ついでに信玄さんには「分別なし」って評されちゃってます。
出典:岡谷繁実『名将言行録』



……………。

……………………謙信さん…(遠い目)。