-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

5月12日に背炙り峠を訪ねました。-その2-

2013-05-14 17:39:21 | 歴史

4 「楯」跡について

 畑沢には、戦国時代から江戸時代初期にかけて、延沢城の出城というべき「楯」の跡とそれに由来する地名が残されているとの調査結果があります。そのことを4月13日のブログに書きました。今回は、そのうち「背あぶり峠を守る楯」を、畑沢の人をはじめとしてなるべく多くの方に見てもらいたいとことと、追加調査の下調べをすることが主たる目的でした。

 保角里志氏の著書「南出羽の城」は、県内の城跡を広く紹介し、多くの読者を歴史好きにさせました。私も好きになった一人です。歴史の専門家でなくとも、何百年または千年以上もの昔に思いを馳せて、当時の様子をわくわくと想像させたのは、私だけではないでしょう。

 今回の大部分の参加者は、地蔵堂も楯跡も初めてでした。例えば畑沢で生まれ育っても、古道があることすら分からないというのが実情です。ましてや「楯」跡となると、初めて聞いたのではではないでしょうか。「南出羽の城」は大きい役割を果たしています。

 

 さて、もう一つの目的は、この書籍で「未調査」となっている区域について、さらに専門家による調査をお願いするための下調べでした。と言うのは、昨年の11月にこの書籍を読んで興味を持った私が、見物(素人の興味本位)と洒落込んだところ、著者が未調査とされている区域にも「堀切(ほりきり)」らしいものが見えました。

   ※堀切; 城を防御するために掘られた水のない堀

 そこで、保角氏に追加調査をお願いしましたが、大変にお忙しい御様子で、尾花沢市内の方を紹介して下さいました。その後、今年の4月に入って、村山市の友人と現場踏査したところ、まだ知られていない「曲輪(くるわ)」の遺跡も「未調査」区域に眠っている可能性が大きくなりました。何としてもということで、その紹介していただいた方に御同行をお願いしました。

 

  その結果、やはり未調査区域には、結構、大きい「曲輪」の跡があるということでした。既知の曲輪の西側に何段にもなって広がっているようです。曲輪の脇には、堀切らしいものもあるそうです。曲輪と曲輪の段差は、素人の私が見ても、背丈の3倍はあったでしょうか、素人らしく「かなり」と表現します。広さも既知の曲輪に匹敵するのではと感じました。現場の私たちは楽しくなってきました。遺跡が「素人の目の前」で発見されていくのです。

 今回は幸いなことに、春まだ早くて木の葉も下草も茂っていません。見通しが良かったのです。新しく曲輪が発見された場所は、杉の植林がなされ、夏になると下草と雑木の葉が、地面を覆い隠してしまうでしょう。

 残念ながら、今回は私が言っていた「堀切らしいもの」ともう一つの未調査部分は、確認する時間がありませんでした。次回に背炙り峠を訪問する機会に期待しています。

 

5 これから

 下調べをされた専門家によりますと、別途に本格的な調査をしたいということでした。ただ、直ぐにということは難しくて、落葉した秋ごろかなということでした。その時には下調べをした場所以外の未調査区域も調査されるものと思いますので、楯跡はさらに広がる可能性があります。また、尾花沢市だけでなく、村山市も共有の歴史遺産として何らかの動きがあると思います。古道全ルート解明の作業は、私たち素人が進めます。古道沿いの刈り払いは、所有権の問題がありますので、可能な所だけでも進められればと思っています。



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