きんいろなみだ

大森静佳

季節のエッセー5「夏の食卓」

2019年08月08日 | その他
夏の食卓         大森静佳


遠い記憶のなかの食べ物は、どうしてこんなにも美味しそうなのだろう。かつて、夏になると食卓に並んでいたのが、祖母の作る西瓜の漬物だった。食べた後の皮を、一番外側の部分だけ削り、塩もみして一晩置くだけのシンプルな漬物。西瓜の皮は、中国では漢方薬に使われるほど栄養があるらしい。
 
これが私たち姉弟の大好物で、朝昼晩と飽きずに食べた。ぱりぱり。ぽりぽり。夏休みのおやつにもちょうどいい。噛むと舌の上にさっぱりとした旨味が広がって、いま思えばあれは日本酒にも合うかもしれない。うっすら残った赤い果肉の色と、皮のグリーンが、漬けあがると淡く潤ってパステルカラーのように輝きだす、あの見た目も好きだった。何となく特別な食べ物という感じがあって。
 
山口県出身の祖母がハブ茶で炊いてくれる茶粥を、西瓜の漬物と一緒に食べるのが、暑い時期の定番だった。これが、夏バテのからだに沁みとおるように美味しい。茶粥といっても、 近畿地方で食べられていたさらさらしたものではなく、粘り気のある茶色いご飯という感じで、しかもサツマイモがごろごろ混ざった、正真正銘の田舎の料理だった。
 
私が中学生になったくらいの頃からだろうか、少しずつ認知症が重くなってきた祖母はひとりで自室にこもるようになり、茶粥と西瓜の皮は食卓から消えてしまった。家族の誰も、そのことには触れなかったし、母も別にそれを自分が引き継いで作ろうとはしなかった。だから本当に、ふっつりと消えてしまった。あの、宝石のようにきらきらしたカラフルな西瓜の漬物が、確かにあった世界から、ない世界へ。それは、暮らしのなかのささいな一部分でしかなかったはずなのに、すべてが変わってしまったような気がした。
 
何かが「ある」から「ない」へ。いま現在は、西瓜の漬け物について言えば「ない」の世界だが、別の何かについては「ある」の世界にいる。普段は無意識に。「ない」をうまく想像できなくて、でもいつか確実に「ない」が来ることが、ときどき心底こわい。ただ、「ある」と「ない」の隙間に、あるいは「ない」の後に、それらを思い出すという時間が「ある」、ということも感じる。
 
祖母が亡くなって、今年で十年。この夏は、実家の母にレシピを聞いて、茶粥と西瓜の漬け物を作ってみようと思っている。


「京都新聞」朝刊2018年7月30日

コメントを投稿