松村正直さんの第5歌集『紫のひと』(2019年/短歌研究社)
稲光 この世のことは束の間の思い出なれど全身ひかる
大きな視点で見れば、たしかに人間の一生はとても短く、私が大切に胸のなかであたためているどんな記憶も、私が死ねばこの世から消えてしまうので、結局私の「思い出」というのは、私が生きている間にだけ存在する「束の間」のものにすぎない。けれども。「全身ひかる」の「全身」は、普通に考えたら、自分自身のからだが稲光に照らされて光っている、というふうに読めるけれど、それだけではないような気がする。いつかは消えてしまうにしても、少なくとも自分が生きている今は、ここにたしかに存在している「思い出」。その「思い出」の全身が光っている、という感じもしてくる。どちらにせよ、稲光によってぴかっと光るのなんて、一瞬よりももっと短い間だけのこと。限りある生、という諦念を痛いほどに自覚していながらなおも、あるいは自覚しているからこそ、一瞬が永遠に匹敵するほどの強いかがやきを持つことへの淡い憧れを捨てきれない、その裂け目のようなものが露出している一首。
*「〜だから」という言い方が不思議な奥行きを持っている
飛行機もいつかは墜ちるものだから私は生きて飛行機に乗る
生まれ変わることはないからゆっくりと、ただゆっくりとゆうぐれは死ぬ
抱くことも抱かれることも秋だからつめたい樹々の声にしたがう
*デジタルな把握がおもしろい
川べりにソメイヨシノは植えられて二倍に増える桜の色が
ゆく春の西日かがやく 7✕12の窓の一枚だけに
*「母」の歌
手を振れば景色は薄れゆくようで手を上げたままくっと頷く
塗り重ねるように別れを一つまた増やして日々は濃くなるばかり
娘なら一緒に入る温泉を別れてひとりひとりの時間
*そのほか好きな歌
桜、滝、紅葉、雪などを季節ごとに深く見つめることによって、目に見えないはずの「時間」に「からだ」を与えている。
紫のひとは部屋から出て行きぬ絵のなかに私ひとり残して
ねむりへと降りてゆくときすれ違う黒犬の毛に腕は触れたり
そこで気を失うような空白の、ましろき滝のなかほどあたり
てのひらの奥に眠れるわがこころ呼び覚まさんと強くこすりぬ
のど笛というおそろしき言葉あり噛み切りたればひうひうと鳴る
現実に少し遅れて降る雪を見ており雪の覆うホームに
目を閉じてのぼるひばりよ永遠と呼ぶものどれも永遠でなく
ひとりでは届くことなき深さまで潜(もぐ)りぬ互いを錘(おもり)となして
でも無理はしないでと言う釣り糸が強く引かれて光るみたいに
みずうみの過去へと続いているような水路だ 深き声をたたえて
波音は、でもじんわりと満ちてゆきその先に咲く白きてのひら
夜が更けてより思い出す日によって君のなみだの味異なるを
生まれたのもこんな日だった鉄柵の冷たい色に指は触れつつ