大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-06-06 10:51:19 | Weblog
33 何でもいけない

 頂いた積りでもいけない。はっきりせんままでもいけない。
其侭ごかしでもいけない。知ったのでもいけない。覚えたのでもいけない。
信じた持ちものでもいけない。成ったのでもいけない。
頂かせて貰うたのでもいけない。凡夫の計いはすべていけない。
計うまいとするのもいけない。思うのもいけない。思わないのもいけない。
自力の心の動いている間は総ていけない。
こんな理屈を通り越して、実地を踏んだ者ならうんもすんとも言えない心が
居るのに気が付く。久遠劫から聞いても何ともない。
あの今日今時まで、一寸も変らん魂が昼寝しているぞ。
極楽と聞いても喜ばず、地獄と聞いても何ともない。
あの変らん心に眼を付けて、若不生者の誓いを樹てて下さったのじゃから、
成りきらん地獄真向の侭が「唯じゃ」と聞き開く、
どちらに向いても南無阿弥陀佛。立っても居ても南無阿弥陀佛、
寝ても起きても南無阿弥陀佛。
(『魂のささやき』p.67-68)

魂のささやき

2008-06-05 10:48:01 | Weblog
32 名乗りを挙げよ

 大抵のお方は親子の名乗が挙がらんづくで、満足しておいでになるが
善人じゃからそれで済んだもの。
私は性が悪いから、はっきりするまで進んだ。名乗の挙るまで求めた。
真剣になり切らんから泣いた。暗い心を見れば見る程恐ろしくって、
人事に聞いては居られなんだ。親が知っているからと安心しては居られなかった。
親がはっきりしたお慈悲なら、子がはっきりして何故悪い。
聞けば聞く程渦巻く心に泣いた。
何処が唯じゃ。何処がその侭じゃと、親に不足を何度言ったか知れない。
 あの不足を言うてる姿が一番可愛いと親は言ってるぞ。
(『魂のささやき』p.67)

魂のささやき

2008-06-04 12:11:47 | Weblog
31 教えぶり

 法然上人様は念佛為本、親鸞聖人様は信心為本、蓮如上人様はたのむ一念、
私の手元へ届いた時は「ただじゃぞ」の一言で解決は付く。
(『魂のささやき』p.66-67)

魂のささやき

2008-06-04 12:11:15 | Weblog
30 信の前後に

 信の前後に変る処と変らぬ処が有る。
信前にはひょっとや底気味の悪い人に相談の出来ないものがある。
それを無明の闇という。信の一念で速に無明の暗は晴れ、
往生は一定、万歳万歳と日本晴れがした時は、苦抜けがするから変る処、
貪瞋煩悩は信の前後の区別なく更に変りはない。
摂取されていながらも不実の心がやまぬとは、此では往生は如何と
微塵も思わず済まぬ事だと懺悔に向う。
(『魂のささやき』p.66)

魂のささやき

2008-06-03 18:49:11 | Weblog
29 睡入られない

 阿弥陀佛は十劫前に正覚は取られてあるけれども
私に届かなければ安心は出来ない。
多くの僧侶が機を見るな見るな、機を見ると手間が掛ると教えられて、
法の方ばかり眺めて救わるる事と安心しているが、
夫は自分勝手に決めて安心しているのじゃ。
機を見れば手間が掛るが法を見れば早いと教えているが、
そんな馬鹿な本願が有るものか。
法を見れば早いというのは、合点と深信とを同様に心得ているが、情けない事じゃ。
真実の機が知れなくて、真実の法が知れるものか。
法の方ばかりでは、機の方が抜けるから、片手落ちになる。
南無の機が分らなければ、法の阿弥陀佛は知れても首無し念佛になる。
法の手元ばかり聞いた人間は、五十年聞いていても、
薄紙がはっきりせんではないか。この様な人を二十願の善人というのじゃ。
何故か。それは悪い機の方は略して包んで、好い方ばかり見て行こうとする。
他力の中の自力の信というのだ。
第十八願の相手は、唯除五逆誹謗正法と除かれた機が
泣く泣く法を求めて居るのであるから、真実の機様に目醒めて居る。
罪の自覚を得るまでは、一通りの苦悩ではない。
併しこの苦悩のどん底から、叫び出づる救済の呼声に貫かれた一念は、
煩悩菩提無二、佛凡一体、機法一体、願行具足、南無阿弥陀佛、
正念、深信、決定心、金剛心、菩提心、無上信心、度衆生心、
名前は何でもよいが、好い親よなあの慶びは、
法体のみで満足出来ず、不実の機に泣いた者に与えらるる特権である。
今!新地にも枝光にも、官舎にも中央区にも、尾倉前田黒崎にも、
熱心に求めている同行があるのを、静かに床の中で思い浮べて、
宿善開発の時を考えてみれば睡入る事が出来ない。
一時は苦しくても底抜けのお慈悲にあえば十方世界の主になれる。
火の車か白蓮華か、聞く一念で解決がつく。
これを思えば求道者よりも指導者の方に力瘤が入る。
助けて下さいよりも助かりて呉れよの念力が強い。
一時も早く求道者の苦が抜ける様に念せずにはいられない。
(『魂のささやき』p.64-66)

魂のささやき

2008-06-02 12:15:47 | Weblog
28 御恩報謝

 此れも御恩報謝、あれも御恩報謝と思わして貰って居ると言う同行に
よく会うが御恩報謝に眼が付く間はうぬぼれ心の雑修の位じゃ。
真の御恩報謝は不実一ぱいの底抜け凡夫が救われて上げる事じゃ。
私が絶対不二の法に貫かれる迄は、若不生者不取正覚と立続けて居らるるのだから
何よりも信決定が御恩報謝じゃ。
本当に救済されたものなら御恩知らずに眼が付くから御恩報謝とうぬぼれないわい。
(『魂のささやき』p.63-64)

魂のささやき

2008-06-02 12:15:04 | Weblog
27 何故真剣になれないか

 朝五時半には眼が開く。南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、今日も此の身体を
使わして頂きますと、身体をさすりながら、此の煩悩の器が無かったら
佛智満入はすまいものを、

   法の為尽さざらまし吾からだ
     弥陀より借りし御恩報謝に

さあさあ起きましょう。六時には沢山お参り下さるから、
私が勤行にいなければ心配なさるだろう。
何の苦もない、不平もない、私の身体の動く姿が其侭来いの六字に
動かされているのである。
浮か浮かキョロキョロ暮して居るが、いざの時は全身全霊悉く法悦に感泣しつつ
語らずには居られない。或青年が批評するのは悪い事ですが、
貴兄のは頂けよ頂けよでなくて頂き切らん煩悩が救われた嬉しさを説かるるのだから
腹をえぐらるる様であると言ったが、自信の侭が教人信になるのだ。
頂け頂けとそんなに気安く宇宙全体が呑めるものかい。
他力だから易いと言うかもしれないが、色も無ければ声も無い無形の真理を
散乱放逸の不実の腹に体験するのだから難中の難と説いてあるではないか。
他力程六ヶ敷いものはないよ。又他力に苦抜けしたら此程易いものはない。
自分の動くままが六字の全体だから行住坐臥の侭が南無阿弥陀佛、
平生の時に私が弥陀やら弥陀が私やら親子の名乗が揚らんでどうする。
平生業成ではないか。魂一つは信の一念に往生しているのじゃぞ。
(『魂のささやき』p.62-63)

魂のささやき

2008-06-01 14:33:06 | Weblog
26 拝みます

 毎晩法話から帰って来る時は十時過ぎ、石段を登り詰め、
疲れた身体で本堂に向い最敬礼、親様法龍の責任を果して只今帰りました。
さぞお待遠い事で御座いましたでしょうと、
静かに頭をもたげる時は疲労は消えている。
玄関に上れば書生も下女も起きて待っていてくれている。
合掌こそしないけれども心の中で感謝せずにはいられない。
御内佛の間には私の身体を心配して下さってある父上と
霊界より感応している妻の写真とがある。
私は父上の張って下さった教田を耕す責任と、
亡き妻の心を満足してやらねばならぬ義務がある。
合掌瞑目涙は尽きぬ。淋しさ悲しさで泣くのではない。
未だ未だ報謝の出来ないので泣いている。
御内佛に向っては両親のお心に背かぬ様に致しますと誓い、
本堂に来れば沢山なお方が私を待っていて下さる。
畏くも先帝陛下の御尊儀、聖徳太子の霊像、宮中にも等しい感に打たれる。
三国の七高僧や、祖師善知識を次第に考え、遺骨の重ねて有るを拝んでは、
従苦入苦のお方が多いであろう。法龍が今救うて上げますと言う勇猛心が湧く。
後堂で床に座って生みの両親や、祖先の霊に合掌せずにはいられない。
数千海里隔てては居るが、両親の心は常に私の心を動かして居る。
お母様今日も無事に済まさしていただきました。
此の広大無辺の佛智に逢わして下さった嬉しさ、
此上からは佛様の勅命通りに活動せずにはいられませんと、
一日中の有様を話し終る時は涙で眼は開かない。
夫では宮殿の中、七宝蓮台に休まして頂きます。
明日も命があれば六字に計われて進みます。南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛。
(『魂のささやき』p.59-60)