大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-06-29 13:04:30 | Weblog
44 門出の用意は出来たか

 他人の信仰ならいざ知らず、自分の出離の大問題、
人に相談しなければ判らなかったり、善知識の助太刀が無かったら
満足し切れない様な事では往生の解決はついて居ないぞ。
汽車に乗って道を行く時、「何処へおいでになりますか」、
と尋ねられて、「私は何処か知らん」と言えるか。
「親が知って居るから好い」そんなら親に本当に逢っているか。
真に心の悩みが晴れているか。親に逢うた積り、信心戴いた積り、
任せた積り、晴れた積り、積りは百千万並べても、決定ではないぞ。
 汽船は出発しようとして居る。宿に寝ころんでいて切符を買った積り、
船に乗った積りでは生死の苦海が渡れないぞ。
乗った船は他力じゃが、乗るまでは即ち宿善開発までは求道せねばならないぞ。
最初から他力は有り得ない。それに皆十八願の機じゃと言う人も有るが、
夫なら佛様は第十九願、第二十願は誰の為に建立されたか。
後の二願は聞き損ないの機の為ではないか。
万行随一の名号と見るは第十九願の機(自力)、
名号の万行に超過せるを知るは第二十願の機(半自力半他力)、
名号に動かされ無我の世界に入るは第十八願の機(絶対他力)である。
此の真仮の分斎を分別せずして、十把一束に総て十八願の機とは言い得られまい。
名号の殊勝は知って居ても開発の出来ない間は第二十願の桁である。
二十願の機は罪福を信じ、善本徳本の名号を己の功徳とし
佛に廻向する機であるから、廻向出来るか出来ないか、
自力の尽きるまで進まなければ第十八願には開発しない。
自力より半自力半他力へ、それより絶対他力へと進ましむる本願の施設ではないか。
階段が無ければ三階には昇れない。況んや地獄はい出の私が五十二段をや、
第十九願は自力修行の化粧をし、第二十願は他力の中の自力の機功を募る化粧をする。
化粧の間や誤魔化しの間は積りですむ。積りの間は決定心がない。
決定がないから疑いが出る。疑えば往生は不可である。
 第十八願の機は、化粧をし得ない悪性に泣き、誤魔化さず、諂わず、
解決の付くまでは死すとも動かない決心で求めて居るから、
不徹底な妥協は許さない。
地獄一定の大自覚と極楽一定の大自覚を同時に獲て居るから、
光明の広海に遊び、現生に十種の益を獲て居る。
正定聚不退転の益を蒙り乍ら後すだりが出来るものか。
常行大悲の益を得ながら放逸に流れらるるものか。
 邪定聚の第十九願の機にも、不定聚の第二十願の機にも、
門出の用意が出来たか出来ないか、決定がないから判らないのも無理はない。
判らぬから機を見ないで御教化を覚えて親が知って居ると逃げるが、
魂が知らなければ安心は出来ないぞ。
 正定聚の第十八願の機は、堕ちる決定が付いているから
帰る決定も付いて居る。親が知っているから子供も知っている。
親が他力至極の金剛心であるから子供も正しく金剛心を受けて居る。
親の方が助ける若不生者の決定が付いているから
子供の方も助かる必得往生の決定が付いている。
大決定、大安堵、不思議の世界、無我の境地、無疑無慮、疑蓋無雑、
門出の用意は信の一念に成就している。
久遠劫より呼び続けたみ親の声に覚まされている。
堕ちる必定、助かる決定、万歳、万歳、万々歳。南無阿弥陀佛。
現在即得往生不退転と弘誓の船、大悲の願船に乗りこんで、
光明の広海に浮んでいるから、命終の時が本国に帰った時じゃ。
(『魂のささやき』p.92-95)

コメントを投稿