42 誰の罪か
教うる者の罪か、求むる者の罪か。否何れも真剣味は欠けている。
自信の無いのに教人信のある筈が無い。
島地黙雷師が盛岡に移られて、盛岡は山処で猿が多いと聞いたが、
本当の猿は居ないで佛教を聞かざるが多い。
夫は教えざるの親ざるが悪いからじゃと申されたそうなが
私への教訓である。子供を導くは親の念力に有る。
精神的に万人を教化するは指導者の胸裡に在る。
一匹の馬が狂うと千匹の馬が狂う。
針が正しく進まねば糸も真直に縫えない。
指導者に自信の自覚がなくて教人信して真佛弟子を作り得ようか。
師弟子共に極楽には往生せずして、
空しく三塗に帰らなければならないではないか。
(一)僧侶の方は私を初めとして物知り顔に成りたがる。
説教本を読んだり喩話を読んだ時、自分の心に感動を与えると、
それを直に他力の信仰の様に思い決める。
道理に契い理屈が合うと金剛心の様に思うて威張り出す。
堕つる者をお助け、この儘が唯じゃ、あら心得やすの安心や、
これも他力、あれも他力、其の儘ごかしにこかして仕舞う。
機を見ると手間がかかる、法を見れば直に戴かれるとて、
臭い物に蓋をして罪悪を見ない様にしたがる癖がある。
そして遇々熱烈な求道者が来り、熱烈な布教者を見れば
直に難癖を付けて異安心と言いたがる。
蔭での悪口のみならず高座の上からでも悪口を言うけれども
本人直接には言い切らない。人を批評するだけの自信が有るか。
親と一体の大自覚があるか。佛智満入の体験が有るか。
正定聚の分人の歓喜があるか。
今度の一大事の往生は、声のよいのでも、節の上手なのでも通用はせんぞ。
喩話を知って合点したのも、覚えて成程と上塗りしたのも間に合わないぞ。
最後の一刹那には学問も理屈も及ばんぞ。
我機に蓋をして置いて何時大満足が出来るのだ。
苦悩の心が救済された時大決定が動くのではないか。
広大難思の大自信を獲た者が酒に呑まれて前後を知らなかったり、
色に溺れて道を過ったり、碁や将棋に時を忘れたり、
馬鹿話で門信徒を誤魔化したり出来るものかい。
法龍の一大欠陥は、教人信ばかりやっているが、
自信がぬけて居ては空砲に等しいから人が驚かない。
実弾なら音は小さくても的中すれば即死する。
自信の有るものなら必ず信仰の煩悶は起して居る。
一大事の後生とは切迫つまって考えて居る。
因って救われた嬉しさじゃもの信仰の経路を話さずに居られるものか。
学問は無くとも、真仮の分斎を明かに分ち得る。
信仰は学問ではない。自己の大満足である。
ここはお互僧侶は慎まなければならない。
(二)聞く方も真剣、一大事となっていない。罪悪の黒い心が出れば、
御布施を包んでは講師や和上に免状貰いに行く。
どうやら腹の虫が治った様だから帰って来るが又復グチグチ言い出す。
元気な間はそれでもよいが、命終の時にどうするか。
誰様はお許しになっても肝心要の魂様が許さんぞ。
真宗の信仰は二の足踏む様に不安定な宗教ではないぞ。
大決定の心が無いから、報謝で極楽に乗込もうとする同行が多いが、
箒では人は斬れないぞ。満足するまでお求めなさい。決定行くまでお聞きなさい。
泣いたり笑ったりするのみが真の宗教ではありませんよ。
久遠劫からの魂の解決が付くか付かぬかの分岐点ではないか。
教うる者も聞く者も能所共に火花を散らせ尽十方の光明は照す。
(『魂のささやき』p.86-89)
教うる者の罪か、求むる者の罪か。否何れも真剣味は欠けている。
自信の無いのに教人信のある筈が無い。
島地黙雷師が盛岡に移られて、盛岡は山処で猿が多いと聞いたが、
本当の猿は居ないで佛教を聞かざるが多い。
夫は教えざるの親ざるが悪いからじゃと申されたそうなが
私への教訓である。子供を導くは親の念力に有る。
精神的に万人を教化するは指導者の胸裡に在る。
一匹の馬が狂うと千匹の馬が狂う。
針が正しく進まねば糸も真直に縫えない。
指導者に自信の自覚がなくて教人信して真佛弟子を作り得ようか。
師弟子共に極楽には往生せずして、
空しく三塗に帰らなければならないではないか。
(一)僧侶の方は私を初めとして物知り顔に成りたがる。
説教本を読んだり喩話を読んだ時、自分の心に感動を与えると、
それを直に他力の信仰の様に思い決める。
道理に契い理屈が合うと金剛心の様に思うて威張り出す。
堕つる者をお助け、この儘が唯じゃ、あら心得やすの安心や、
これも他力、あれも他力、其の儘ごかしにこかして仕舞う。
機を見ると手間がかかる、法を見れば直に戴かれるとて、
臭い物に蓋をして罪悪を見ない様にしたがる癖がある。
そして遇々熱烈な求道者が来り、熱烈な布教者を見れば
直に難癖を付けて異安心と言いたがる。
蔭での悪口のみならず高座の上からでも悪口を言うけれども
本人直接には言い切らない。人を批評するだけの自信が有るか。
親と一体の大自覚があるか。佛智満入の体験が有るか。
正定聚の分人の歓喜があるか。
今度の一大事の往生は、声のよいのでも、節の上手なのでも通用はせんぞ。
喩話を知って合点したのも、覚えて成程と上塗りしたのも間に合わないぞ。
最後の一刹那には学問も理屈も及ばんぞ。
我機に蓋をして置いて何時大満足が出来るのだ。
苦悩の心が救済された時大決定が動くのではないか。
広大難思の大自信を獲た者が酒に呑まれて前後を知らなかったり、
色に溺れて道を過ったり、碁や将棋に時を忘れたり、
馬鹿話で門信徒を誤魔化したり出来るものかい。
法龍の一大欠陥は、教人信ばかりやっているが、
自信がぬけて居ては空砲に等しいから人が驚かない。
実弾なら音は小さくても的中すれば即死する。
自信の有るものなら必ず信仰の煩悶は起して居る。
一大事の後生とは切迫つまって考えて居る。
因って救われた嬉しさじゃもの信仰の経路を話さずに居られるものか。
学問は無くとも、真仮の分斎を明かに分ち得る。
信仰は学問ではない。自己の大満足である。
ここはお互僧侶は慎まなければならない。
(二)聞く方も真剣、一大事となっていない。罪悪の黒い心が出れば、
御布施を包んでは講師や和上に免状貰いに行く。
どうやら腹の虫が治った様だから帰って来るが又復グチグチ言い出す。
元気な間はそれでもよいが、命終の時にどうするか。
誰様はお許しになっても肝心要の魂様が許さんぞ。
真宗の信仰は二の足踏む様に不安定な宗教ではないぞ。
大決定の心が無いから、報謝で極楽に乗込もうとする同行が多いが、
箒では人は斬れないぞ。満足するまでお求めなさい。決定行くまでお聞きなさい。
泣いたり笑ったりするのみが真の宗教ではありませんよ。
久遠劫からの魂の解決が付くか付かぬかの分岐点ではないか。
教うる者も聞く者も能所共に火花を散らせ尽十方の光明は照す。
(『魂のささやき』p.86-89)