大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-05-08 12:08:22 | Weblog
2 行き着く迄進め

 本当に後生が一大事に成ったか、真剣に求めた事があるか、
一晩位睡らずに考えた事が有るか。今が臨終と迫って聞いた事が有るか。
二河譬の真剣味の有る実地求道の態度を昔噺位に聞いては居ないか。
地獄一定を人の事に定め込んでは居ないか。
唯除五逆を空吹く風に聞き流しては居ないか。
 そんな堕落した横着者が不可称不可説不可思議の信楽を獲得する事が
出来るものかい。
大経の「設有大火充滿三千大千世界要當過此聞是経法歡喜信樂」等を和讃には

 たとひ大千世界に    みてらん火をもすぎゆきて
 佛の御名をきくひとは  ながく不退にかなふなり

と述べてあるが「おのおの十余箇国のさかひをこへて身命をかへりみずして
たずねきたらしめたまふ御こころざしひとへに往生極楽のみちを
とひきかんがためなり」と生命懸の求道は人の事で自分は疑いなく信じたと
平気で居るが、疑って見ない事に晴れたと言う言葉が使えるものか。
 法を見て居る間は行き詰らないが、一人が出て行かねばならないと言う機を
照し出された時には直に行き詰るぞ。
 何時迄も法のお手元ばかりを見ては居られまい。
他人の心ではない、自分の心だから見ずには居られまい。
気持ちが悪くて機を見るのが恐ろしいのだろう。
妙な、変な、取とめの付かぬ心が出るからなあ。
平生元気で達者な間は妄念が邪魔に成らないと片付けて置かれるが
臨終になり機を見る時は邪魔に成らなかった妄念が一番邪魔に成って
悉く疑雲と変るがよいか。
 死にさえすれば往生々々と言って居る事は往生浄土の文字だけには
合って居るけれども、平生業成の切れ味を知らないではないか。
現在にさえ満足出来ない者が、如何して未来往生が出来よう。
現在機を見るのを恐れて蓋をし佛を誤魔化して善人らしゆう粧うて居る行者が、
如何して即得往生する事が出来よう。
現在で明かな親に明かに遇い切らない人間が、如何して蓮華化生する事が出来よう。
明かに因果に矛盾が有るではないか。
 機を見なければ法の尊さは判らない。法を見なければ機の醜さは知らされないのに
何故法に偏して機を略にするか。
 法を三十年五十年聞かされて心の曇りの除かれない同行よ、
お助けの親の手元の指図をせずに、堕ちる人間だもの堕ちる機を深刻に
眺めさして戴いたらどうだ。
 このきかん機が「うん」と聞いてこそ、聞法の所詮が有るのではないか。
 立派に戴いて居た信心が、同行の言葉で崩れてしまった時程、
腹の立つ残念な口惜しい事はない。其の意気に猛進しなければ駄目である。
私は今迄何を聞いて居たのだろうか。訳も理屈も判って居ながら
判らん心が有るではないか。
夫れを見るから手間が掛ると言われても、此の機が満足する迄は聞かずには居られない。
さあ一大事!
と求めるけれども実地を通った知識に遇わなければ、腹がにがって居るのに
頭を揉んで呉れるから癪に触る程苦しい。聞けば聞く程堕ちる機が知らされて
恐ろしくて聞かずには居られない。此の場合に立って泣いた人のみが知識を簡び、
五里でも十里でも、生かして呉れると見込んだ知識の後を追うのである。
自信の抜けた教人信をなさる人の脚元が非常によく見えるから、
そんな譬話位では此の渋太い魂は解決付きませんと、善知識にでも突き掛からずには
居られない気がする。
他人様はこんな曲った心はないのであろうか。
疑うまいと思えば思う程疑わずには居られなくなる。
(機を見るからと言われるかも知れんが見んでもよい人は見る必要は無い。
健康な人には病人の心持ちは味わえない)
前から聞いたり覚えたリ、譬話などで接目を合わして見るけれども頭も胸も承知はしない。
自分は何故こんなに馬鹿に成ったのであろうか。
前の頃は聞けば聞く程有り難かったが、今は唯々苦しくて
而も真剣に成り得ない心だけが働いて居る。
睡ろうとしても睡られない。仕事も手に着かない。
何故唯が判らないかと機をもめば揉む程判らなくなる。
阿弥陀様は唯じゃと仰せらるると言うけれども一寸も唯ではありませぬ。
何処に他力が有るか、何処に其侭が有るかと苦しいまぎれに親に迄も
反逆の心を興さずには居られない。
其の心こそ唯除五逆誹謗正法と捨てられた機であるけれども
堕ちると言う事には気が付かず只堕ちともない、
何とか成れないかとも掻く心が一杯であるが、
其の心が自力の心とは更に知らない。
何故「はい」と返事が出来ないかと攻めるけれども上の心は周章ても
下の心は知らん顔して、地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜びもせず、
「てれっ」として居るのに呆れずには居られない。
泣かずには居られない。この心が言う事聞いて呉れないから、
耳までは法を聞きながら、元の三塗へ帰らねばならないかと思えば、
何物か握らずには居られない。握れば握った侭堕ちる。
思うも言うも皆嘘の心が動かして居るのではないか。
信じたのも知ったのも、覚えたのも、学問も理屈も総て絶えて、
堕ちるも上るも知り切らない心一つが業に引かされて、
無間のどん底へ投げ込まれた時、
三定死の思いに住し、自力無効と他力不思議とは同時に動き、
踊躍歓喜、信心歓喜、飛上って喜び、み佛様すみませなんだ。
こう迄して下さらなければ聞かない渋太い私で御座いました。
娑婆往来八千遍も私一人の為でありました。
どうして御恩に報いようかと泣くより他に術を知らない。
其の時の境地は言慮の外にある。百千万の言葉を並べるよりも
親に逢いさえすれば味える。
多くの同行よ、機に泣いて居る御同朋よ、機を見るのは向きが違うと
捨てるようなみ親ではないぞ。
機を見なければ見限りが付かない。
自力を捨てる見限りが付かなければ他力に帰した開発が判らないぞ。
 進め進め真剣に、深刻に、空論をやめて実地に窮すれば通ずる大道が有る。
人の通った糟を嘗めて喜んで居たのでは百千万劫過ぎるとも
大信海には入り難いぞ。
苦悩が有ればこそ求めずには居られないのだ。
疑いあればこそ晴れる迄進むのだ。
ぼんやりして居るのは投げ槍で他力ではないぞ。
計らうまいとじっとして居るのは却って自力に堕するぞ。
凡夫の計いの尽きた時が本当に佛に計われて居るのではないか。
 他人の後生ではあるまい。何故解決の付く迄進まないのか。
教える知識が居ないのか。求める同行が居ないのか。
(『魂のささやき』p.4-10)