43 機を見れば手間が掛る
機を見れば手間が掛ると、一も二もなく自分の核心に触れるのを嫌っている。
佛様のお手元に機法一体に成就してあるから、今更機を見る必要がないと
跳ねつけるが、実機が判らなくて真実の喚声が聞えるものか。
機を見れば手間がかかると言っているが、本当に機を見て手間が掛った人間か。
宗祖、蓮師が機を見るなと教えられたか。
唯々説教本等に面白可笑しく書いて有るのを、金科玉条の如く
思い込んで居るだろう。
真宗は易い易いにかぶれて、極難信を葬っては居ないだろうか。
法の手元では算用が合っても機の手元を見れば金が不足ではないか。
実際世の中の多くの方方が、天上の月ばかり見て
水中の月を知らないのではないか。
五十年八十年聞いて理屈は知っていても、底知れぬ気味の悪い心はないか。
立派な蓋はしてあっても便所は臭いぞ。
自己の真のねうちが知れなければ救済の絶対性も知れないぞ。
機法は二種一具であると言いながら何故法のみに偏するか。
機の醜さは法の尊高を知らしめ、法の威神力は機の下劣を照すのではないか。
極悪最下の機が、極善最上の法に満足し、地獄は一定住家ぞかしの
絶対不二の機に泣いた者が、五劫思惟の本願、絶対不二の妙法を成就せしめた
大自信が有るのではないか。
生死の苦海に溺れた者でなければ弘誓の舟に救われた味は知らない。
親を探した者でなければ逢うた嬉しさを知らない。
何時とはなしに逢う人も居ようが、苦悩のどん底に泣いた私は
正定聚の大自覚を与えて頂いた。宗教は観念の遊戯ではない。
自分の核心を他所にして決定心の樹立される筈がない。
泣き得る者は幸福だ。真剣に成り得る者は永遠の生命を得る。
佛様のお手元に機法一体の訳は成就して有っても、
現在摂取不捨の利益を蒙った信の一念の名乗が挙がらなければ
私の上に佛凡一体、機法一体は成就しない。
親が知って居るから好いと言う者が多いが、親が知って居るものなら
子供が知って何故悪い。
堕ちる機か、助かり得る機か。法の鏡の前で我が機を繕うて見よ。
繕うた者でなければ醜さは知れない。曇った者でなければ晴れた味は知れない。
泣いた者でなければ笑う時の愉快な味は知らない。
他人の出来事の様に、堕ちる者をお助けと言った処で、
堕ちる者の知れないのに助かる者の知れる筈がない。
こけ込む雑修の溝は小さいぞ。躓く自力の石は小さいぞ。
私の機を離れて真実の法は生きない。機を見て手間が掛るか掛らぬか
恐れずやって御覧、自分の機じゃから死ぬるまで見ずには居られないぞ。
包んでいた醜い悪性が照し尽されて白状した時と、摂取された時は同時で、
不可思議の妙味が有るのじゃぞ。夫は現在の一息に!!
救われた者の幸。親が子を呼び子が親を呼ぶ。南無阿弥陀佛、阿弥陀佛。
(『魂のささやき』p.89-91)
機を見れば手間が掛ると、一も二もなく自分の核心に触れるのを嫌っている。
佛様のお手元に機法一体に成就してあるから、今更機を見る必要がないと
跳ねつけるが、実機が判らなくて真実の喚声が聞えるものか。
機を見れば手間がかかると言っているが、本当に機を見て手間が掛った人間か。
宗祖、蓮師が機を見るなと教えられたか。
唯々説教本等に面白可笑しく書いて有るのを、金科玉条の如く
思い込んで居るだろう。
真宗は易い易いにかぶれて、極難信を葬っては居ないだろうか。
法の手元では算用が合っても機の手元を見れば金が不足ではないか。
実際世の中の多くの方方が、天上の月ばかり見て
水中の月を知らないのではないか。
五十年八十年聞いて理屈は知っていても、底知れぬ気味の悪い心はないか。
立派な蓋はしてあっても便所は臭いぞ。
自己の真のねうちが知れなければ救済の絶対性も知れないぞ。
機法は二種一具であると言いながら何故法のみに偏するか。
機の醜さは法の尊高を知らしめ、法の威神力は機の下劣を照すのではないか。
極悪最下の機が、極善最上の法に満足し、地獄は一定住家ぞかしの
絶対不二の機に泣いた者が、五劫思惟の本願、絶対不二の妙法を成就せしめた
大自信が有るのではないか。
生死の苦海に溺れた者でなければ弘誓の舟に救われた味は知らない。
親を探した者でなければ逢うた嬉しさを知らない。
何時とはなしに逢う人も居ようが、苦悩のどん底に泣いた私は
正定聚の大自覚を与えて頂いた。宗教は観念の遊戯ではない。
自分の核心を他所にして決定心の樹立される筈がない。
泣き得る者は幸福だ。真剣に成り得る者は永遠の生命を得る。
佛様のお手元に機法一体の訳は成就して有っても、
現在摂取不捨の利益を蒙った信の一念の名乗が挙がらなければ
私の上に佛凡一体、機法一体は成就しない。
親が知って居るから好いと言う者が多いが、親が知って居るものなら
子供が知って何故悪い。
堕ちる機か、助かり得る機か。法の鏡の前で我が機を繕うて見よ。
繕うた者でなければ醜さは知れない。曇った者でなければ晴れた味は知れない。
泣いた者でなければ笑う時の愉快な味は知らない。
他人の出来事の様に、堕ちる者をお助けと言った処で、
堕ちる者の知れないのに助かる者の知れる筈がない。
こけ込む雑修の溝は小さいぞ。躓く自力の石は小さいぞ。
私の機を離れて真実の法は生きない。機を見て手間が掛るか掛らぬか
恐れずやって御覧、自分の機じゃから死ぬるまで見ずには居られないぞ。
包んでいた醜い悪性が照し尽されて白状した時と、摂取された時は同時で、
不可思議の妙味が有るのじゃぞ。夫は現在の一息に!!
救われた者の幸。親が子を呼び子が親を呼ぶ。南無阿弥陀佛、阿弥陀佛。
(『魂のささやき』p.89-91)