将棋雑記

将棋に関する雑感を書き散らしています。

旧パラを検証する182

2022-04-14 21:34:00 | 旧パラ検証
旧パラを検証する182
第十五号 1

53銀、同玉、45桂、42玉、32角成、52玉、53桂成、同玉、64銀、52玉、54飛迄11手
◎北村氏が逝去される少し前であった。サラサラと端書に認めて本図が送られて来た。丁度八月号の表紙の問題を物色していた時であり、駒の配置と云い詰手順と云い、味と云い、夏向きに一寸気が利いて、サラサラとしているので早速選んだ。間もなく死去の報。それで故北村研一氏遺作と標題が付くことになった。
●本題に対し、やれ易しすぎるか、平凡だとか、種々の評もありましたが、今は故人となられた天才北村氏の、タクマザル、然もその作品の持つ上品な雰囲気を味わって頂きたいと思います。又多くの方から本作の解答と共に、心からなる弔辞を頂きました件、遺族の方にかわり厚く御礼申上げます。
〇本局53銀同玉45桂42玉32飛成同飛同角成同玉33銀又は33飛以下で詰めて居られる方が相当数ありますが、それは誤であります。御研究下さい。
▽解答総数 二二五七通
▼不正解数  六一八通
△正解率 七二パーセント
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 北村研一氏の遺作が表紙に載りました。簡単ですが、45桂がワンポイントで32角成としてから64銀に打ち替える。小品ながらよく纏まった作品だと思います。
 この号は北村研一氏の追悼記事と木村升田の名人戦の感想が多いです。
つれづれ草
失礼御免名人戦余感  田舎初段 へちま生
=ラヂオ評=名人戦聴戦記 横山恭男
木村名人を讃う 前田三桂
名人戦絵巻詩 森 利男
升田八段へ苦言 杳陰老人
いずれも名人戦の感想記事

天才北村氏を偲ぶ 沢田燿男
 嗚呼、巨星は堕ちた。「北村研一氏逝く」の報を受取った時、私は呆然として為す術を知らなかった。詰棋界最大の損失たる此の悲報は、故人と親しかった私自身にも、殆ど絶望的なショックを与へたのである。最高の栄誉である看寿賞を受けた五日後に忽然として不帰の客となった北村兄、天才の死は何故に、常にかくも悲劇的なのであろうか。
 看寿賞授賞作品たる「槍襖」こそは、近来類例を見ない大傑作で正に看寿の名を冠するにふさわしい作品であったが、北村兄の作風が完全なる円熟期に入ったことを示すものであった。此の偉大なる頭脳は、同時に無限の傑作を秘めたまま「槍襖」一作を残して今や永遠に沈黙に入ってしまったのである。実に残念だ。
 しかし「槍襖」には、長い苦悩を経て「死」を超越し得た人の、安らかな悟りと、冷静水の如き心境が漲っている、と感じ得たのは私一人であったろうか。
 右から左へ、そして左から右に盤一杯に、滑稽とも思われる恰好で、香の「ヤリブスマ」に突きこまれる玉将は、やがて、最初の出発点たる「七五」の地位に帰って、終焉に至る。そこには、波瀾万丈の人生も、結局は「運命」の槍襖から逃れることの出来ない一個の王将に過ぎず、死の訪れと共に、人間の出発点たる無に帰一してしまふ、-かうした一つの人生観が象徴的に暗示されていると感ずるのは、穿ち過ぎた見方であろうか。
 北村兄はその才能、人格共に稀にみる存在であつた。昭和二十年に疎開するまで、私は前後五年の間、北村兄の隣家に住み、深い影響を受けたのであるが、今、思い出の二、三を語り、棋友諸兄と共に亡き面影を偲びたいと思ふ。
 私が北村兄を知ったのは昭和十六年春、戦時中とはいへ、まだまだ世情に余裕のある時分であつた。此の頃、兄は既に、海軍兵学校を休学して療養生活をしておられたが、血色は頗る良く、肥つてをられて、とても病人とは思へぬ位元気であつた。兄は私が通学していた府立一中の先輩であつたが、しかし何よりも、私達は「将棋」を通じて百年の知己というより、本当の兄弟の様な間柄になつてしまつた。殆ど毎日の様に、私達は互ひの家を訪問し、詰将棋の検討に対局に、定跡の研究に、又、棋界の噂話に。時の経つのを忘れる有様であつた。散歩の道すがら、盲将棋を戦はしたこともあつた。後年、北村兄が坂口八段に平手で勝った一局の際、兄が用いた「銀歩三新戦法」などもかうした雰囲気の中から生まれたものであつたが、それは後に語るとして、兄との交友が深くなればなるほど、その鋭い喚発の才能と、落付きのある温い人間味とに心から傾倒せずにはをれなかつた私であつた。
 兄の才能を物語る一例は其の学業成績である。秀才の多きを以て鳴る府立一中に於て兄は常に級長を続けていた。又、海軍兵学校に入校してからも、最高の成績を収め、卒業の際は恩賜の短剣が授与されることに内定していたものであるがその直前、不幸にも結核に冒されて、休学、続いて退校の止むなきに至ったのである。
 輝かしい未来を病魔に阻止された兄の当時の胸中は、察するに余りあるが、兄はその感情を全然顔に現はさなかった。常に微笑を堪へて悠々迫らざる態度を持していた兄には東洋的武人の風格があつた。
 かうした未来を失った北村兄の感情は一途に将棋-特に詰将棋創作に注がれたのであつた。兄の処女作が将棋世界誌上に発表されたのが昭和十六年、それから兄の躍進は実に目覚ましいものがあり、重厚にして而も絢爛たる傑作を次々と発表していつた。塚田前名人も兄に対して「並々ならぬ実力者だ」と最大級の讃辞を呈するに至ったのである。
 北村兄は私を恰好の余詰検討係にしてしまった。会へば必ず兄の新作検討を依頼される習慣になつてしまった。会わなかった日には私の家の郵便箱に、兄の作品を記入した紙片が入れてあつた。
 この頃の或る日、兄と私は、塚田氏の「一握り即席詰将棋」に関する記事を読んで、感嘆し合ったことがあった。兄は冗談の様に「僕にも出来ないものかなあ」と笑ひながら云った。私も「素人にそんな芸当が出来る筈はあるものか」と内心思いつつも、笑ひながら「ぢゃ試しに僕が握ってみようか」と云いながら、駒の中から一握りして、盤の上に置いた。それに王を加えて、北村兄は最初、「物は試し」といふ位の軽い気持で、あちらこちらと駒を動かしていたが、五、六分たつ中に急に兄の瞳には真剣味が深まって来た。それから矢張り五、六分「出来たよ」とむしろ意外さうな笑顔で云った。その作品がどんな図だつたかはもう忘れてしまったが、飛車捨に始まるかなりの妙手を含んだ中篇物だつたことを記憶している。私は只々兄の才能に感嘆するばかりであつた。
 指将棋に於ても、北村兄は平素は私と同じ位の実力であつたが、これ一番という対局になると、殆ど異常と思われる位の鋭さを発揮した。終戦後、頭角を現はした永井英明氏と、三番戦って、北村兄の三連勝に終ったことがある。しかし何よりも、北村兄の生涯を飾るに足る破天荒とも云うべき一局は、前にも一寸触れた、坂口八段に平手で勝利を得た一番であろう。時昭和二十年秋深い頃、既に私は疎開していたが、度々上京しては、北村兄と村山隆治氏などと共に、緑ヶ丘にあった坂口八段の稽古所を訪れたものであった。その席上、北村君は坂口先生と平手戦を指した。局面は「銀歩三」の岐れとなったが、兄はかねて私と共に研究して先手有利と見極めをつけていた新手「五五角」(A図参照)と打った。流石の坂口先生もこの新手に対する研究はなかったと見え三三歩と受けたが、以下北村兄の猛攻は実に凄まじく、遂に坂口先生を圧倒的に負かしてしまったのである。この将棋、坂口先生には三三歩以外、一手の悪手もなかった。これを稽古将棋といってしまへばそれまでであるが、いかなる将棋にもせよ、一素人が八段の大先生に平手で中押勝を得た例があっただろうか、正に空前絶後の記録といって過言ではなかろう。
先手北村氏五五角迄の局面

図面以後左の如く進行した。
三三歩 九一角成 二七角 四四香 四二銀打 五三飛成 四九角成 六八金 八六歩 七八玉
以後いくばくもなくして北村氏の勝となった。坂口八段の三三歩の処、三三銀打ならば後手幾分の有利であることを後に原田八段が発見した。
 終戦後の二年間、それは北村兄の肉体に訪れた、悲しくもはかない光明の期間だった。体力に小康を得た兄は東京都庁に勤務し、傍ら、同人雑誌「棋陣」を編集発行した。村山氏や私が最初の同人であったが、意慾的で斬新な内容だったので、忽ちの中に全国に広まった。
 しかし此の生活が無理だったのである。何事も好い加減なことの大嫌いな北村兄は健康者にも無理な、勤務と雑誌発行の両面に全力を打込んでしまったのだ。二十二年の夏兄は遂に倒れた。而も再起不能の重態であった。兄が自己の体力にもう少し正しい認識をもってをられたなら、と返す返すも悔やまれるのである。
 私が最後に兄に会ったのは二十三年の正月に上京した際であった。兄は絶対安静の床の上に在ったが「一寸身体を動かしてもすぐ熱が出るんでね」と淋しそうな笑いを洩らした。しかし詰将棋創作への感情は止み難く、天井の升目を将棋盤に見立てての盲創作にて兄の類稀なる才能と精神力とに最後の瞬間までも烈しく灼熱の火花を散らしたのであった。
 最後に「牛追菩薩」の由来を語ろう。北村兄は既に昭和十七、八年頃から、好んで此の号を使用していたが、それは兄自身のノートや、作品帳などプライベートの方面にのみ限られてをり、誌上には決して発表しなかった。私はその頃、此の号の由来を兄に質したことがあったが、兄は、大森の馬込に住んでいるので、馬込という語の対称的な牛追の二字を選んだのだ、と云ってをられた。察するに春の陽ざしの下、黙々と牛を追う姿を自己の象徴とされたのではなかろうか。殊に、兄がその最後を飾る大作にのみ、この名を冠したことは、既にその命数を自覚された結果ではないかと思う。
 今や北村兄は、灼熱の火花を散らして、その悲劇的な生涯を閉じた。私は最大の精神的支柱を失った思いである。心からなる兄の御冥福を祈りつつ拙文を終る。
(詰棋作家 新潟県)
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 パラに載っている図は誤りで、この図なら55角、33銀でも91角成で必勝です。正しい図は46歩が入っている図です。この局面が銀三歩定跡といって昭和10年~20年頃にかけて流行りました。この55角の北村新手が最後の流行で、33銀と打って後手やや指し易いというのが当時の結論で、消えて行きました。
 COMによると、55角では53飛成、47歩成、35歩以下先手優勢とのこと。定跡では35歩で43歩、42歩以下後手優勢です。
 一方、55角の北村新手は、33銀、91角成、27角、53飛成、49角成で後手指し易いというのが定跡の結論ですが、COMによると以下68玉、88歩、同銀、52飛、同龍、同金、53歩以下互角のようです。
 しかし、COMの順は人間には指し難い順です。でもその順が良いとは面白いものです。