今迄[悠々自適]とか[晴耕雨読]とか結構なご身分の人のことくらいに思っていたが、最近になってこの言葉の本質や理想郷とも思える生活状態が少しずつ身にしみて解ってきた。
健全な精神や健全な肉体と共に経済的な余裕も必要で、そのいずれが欠けてもこの境地を充分に味わうことは出来ない。
私はかって結婚したての頃、三年間を姑と共に暮らした。彼女は諺をよく使う人で、日常の会話より折に触れて聞かされた諺のほうが記憶に残っている。
例えば「蒔かぬ種は生えぬ」から始まって「物は入れようで入り、人は使いようで切れる」「七年たばって(ストック)一時の用にせよ」「女は着物の一枚より髪」「悪銭身に着かず」「虻蜂取らず」「石の上にも三年」「石橋を叩いて渡る」「薬は九層倍百姓は百層倍」等々と、とりとめもないことではあったが、良く聞かされたのは「親の意見となすびの花は千に一つの無駄も無い」である。目の前の事になぞらえてたんたんと呟いていた。
当時は又始まったとお経のように思っていたが、亡くなって四十年経った今、事あるごとに思い出すのは、姑の嫁教育は効を奏していたという事になるかも知れない。
最近では静かに自然に逆らわず、晴れた日には衣食住など身の廻りりのことをするのがこれからの自分の使命なのだと自分に言い聞かせ、諺とも付き合いながら晩年を過ごそうと思っている。
暑かった夏も彼岸すぎから涼しさも加わり一挙に花をつけてきたプランターの茄子を前にして、「実にならない花もあるよ」と眺めている。
ゴーヤもミニトマトもよく生ったけれど「百層倍」とはいかない。あれは米とか豆類など穀物の収穫を願う例えであろう。
さしずめプランターの作物を整理して、蒔かぬ種は生えぬの言葉通りラデッシュや小松菜に衣替えをしよう。これらの植物の成長が楽しみである。
庭木のくろがねもちも伸びすぎた枝を少しずつ伐り、木犀も咲き終わったら背を低くしようと、整形外科で、電気治療を受けてきては頑張っている。従ってご褒美に、雨の日は読書ざんまいとなる。
俳句 久々に針事すれば蚯蚓鳴く
英傑に序列ありけり秋祭り
“晴耕雨読”とは、こんなのとは全く異質の、ゆったりとした精神世界でのことだと思います。
それ故に、強いて言えば、健全な精神、健全な肉体に加えて健全な経済、もしくは算盤を意識しないゆとりの上に成り立つ話だと思いますが如何ですか?