末っ子の、岐阜の叔母が亡くなった。これで母の六人兄妹はオールナッシング。
葬式に行くのに、妹と栄のオアシスで九時に待ち合わせたのに、彼女は二、三分遅れたばかりに高速バスに乗れなかった。
私は乗っている一時間の間中心配して、岐阜廻りにしたらとか先では、何処で弟にキャッチしてもらうとか、携帯メールのやりとりをしていて、会館の外まで出迎えてくれていた、喪主に挨拶も出来ぬほどで、化粧直しをする暇など無かった。
それなのに時間に遅れて来た、妹は私の顔の色が黒いとか皺が深いとか、致命的なことを言って私が、ひそかに蜂のムサシと名付けているそのままの性分である。
亡くなった叔母は母と二歳違いで、戦争未亡人であった。
三人の子供を育てていて、闊達な気性だったので、親戚も良く寄り付いた。
戦後焼け跡に建てた小さな家に従姉妹達が寄り集まって、おにぎりや西瓜を持って長良川の花火に大部隊で繰り出したりした。
私の嫁ぎ先と叔母が勤めに通ってくる名駅の地下街とは近かったので、行き来もして舅がお母さんより叔母さんに似ていると私のことを言ったりした。
跡取り息子はケーキ屋から始めて次にスーパーをやって、一代でそこそこの財をなした。
お葬式のセレモニーでは、叔母の日舞の写真や来しかたの家族の写真を大きな画面で公開した後、最後の挨拶で遠路大勢の方にお見送りいただいてと涙顔で言ったかとおもうと、ぱーっと顔を輝かせた。
「良い報告があります。今朝孫があの雲の上に大きいばあちゃんと餡ぢいちゃん(戦前は菓子屋)が並んで手を振って居ると言い下の子も、見える見えると言いましたので、私も納得しました」と結んで会場の皆をほっとさせた。
日頃こんな事でもなければ逢う事のない従姉妹達に別れをつげて、人生繰り返しリズムでこのつぎは私達の番ね、と言いながら帰りは恙無く名古屋に妹と二人で帰りついた。
くしくも母達姉妹三人は九十から九十三歳の終焉であった。合掌
俳句 客人をもてなす色や福寿草
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