おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

正 月 の 餅 事 情

2010-12-23 07:21:12 | Weblog

 毎年暮れになると思い出すことがある。子供の頃の二十七、八日の朝、起きると何か騒々しい。
 裏の勝手場を覗くと毎年頼まれてやってくるKさん一家が我が家の両親もまじえて三和土の真ん中に持ち出した臼で餅つきを始めている。
 
せいろで蒸した湯気、むんむんの餅米を臼に引っくり返すと桶の水につけて置いた杵を男盛りのKさんが、力強く振りかざしてぺったんこと音をたてる。小母さんの手返しも堂に入ったものである。 
 三升臼を一人に一枚八人の家族の頭数と、ぼろ餅(もち米を入れたもの)や黍餅があがってくると、座敷二間にならべられる。  子供達は出来たての餡ころ餅をほほばって幸せであった。
 終戦後都会には浮浪者が溢れ食料事情が悪かった一時期、母と私は一枚の田圃に正月の餅に備えて稲を植えたことがあった。その手順は勤労奉仕で覚えてきた子供の私の采配でおぼつかなく母と二人で笑えるような、泣ける話であった。。
 母のお雑煮は大根、人参、里芋、餅菜、かまぼこ、鶏肉やしいたけなどを盛り合わせ、椀によそうと鰹節削りでけずった厚い鰹節をたっぷりかけてくれる美味しいもので、子供達は齢の数だけ食べる事を競ったりしていた。
 雑煮は住む地域によって風習や家族の好みなどでまちまちであることを、結婚して始めて知った。
 餅菜だけ入れた名古屋の雑煮には正月なのにと大層がっかりした。
 ろくに花嫁修業もしてこなかった私に「郷に入っては郷に従え」と姑は昆布と花かつおをたっぷり入れて水から煮てだしをとることを教えてくれた。
 二、三年も経つとそのあっさり味が気に入ってそれでなくてはならなくなってしまった。
 舅の実家が米屋で餅は毎年そこでたのんでいたが子供が育つ頃餅つき機がはやりだして各家庭でつくれるようになった。日本人の食事情も急速に変化をして子供達は正月三日にはもうラーメンが良いと言いだす始末で雑煮も人気がなくなって行った。
 しかし私はせめて三が日は日本人の心のふるさとだからと、雑煮を炊いて子供を育てた。
 今では餅つき機も倉庫に眠りスーパーで袋入餅がオールシーズン買えるようになって、日本人の嗜好が幅広く変わってしまった。
 正直私も御餅は胃に重いからとか何とか理屈をつけて直にパンとコーヒーの正月になる。
          俳句 青青と葉物盛んな十二月
             湖の家族増えしようなり鴨渡来          

コメント (1)
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