おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

雪の日の思い出

2010-12-11 18:06:56 | Weblog

 十二月八日と言えば私達の年代の者は第二次大戦の開戦日と思うのであるが、私のとっている新聞には最早一行も書かれてはいなかった。が今日はそれを書こうとしているのではない。
 小学校三年生のその日「戦争だ、戦争が始まった」と大人達の異口同音の不穏な空気の中を初雪に見舞われながら登校した。
 それから四年近く「鬼畜米英」などと戦意をあおる教育を受けたあげく戦いに敗れた。
 女学校一年の私達は軍需工場から帰ってくる先輩を迎え標準服から伝統のセーラーカラーの制服に変わり、英語も習って次第に落ち着きを取り戻して行った。
 私は机を並べている電車通学のC子と本の貸し借りをしたり部活のコーラスで「美しき碧きドナウ」を歌ったりして仲良くしていた。
 二年生の冬休みに彼女の家に遊びに行く約束をした。
 後に「私鉄沿線」でヒットした野口吾郎の育った町より一、二区手前の田舎である。
 教わった道を昨夜来のどっさり降った雪の中を玲瓏とした気分で歩いていった。
 百人一首でもして遊ぶのかなあと自分の境涯から一歩も出ない発想で彼女の家に着くと出てきた彼女が言うには「父がまともに上ってもらえるような家ではないのでとお断りをせよ」と言うのですと門前払いをされてしまった

 かと言って外は綿帽子をかぶったように一面の銀世界で散歩をするわけにもいかず「白雪降りたり、ああ、ああ夜の内に白雪、雪降りたり」とハモッテ駅まで送ってもらって帰った。
 彼女は当時既に母がなく妹と父との三人で親戚の納屋を借りて疎開してきたままで住んでいた。
 
私を帰した事を暫く気にしていたが今風に言えば私がKYだったのである。
 それからクラスも変わり名古屋へ引揚げて行ったので卒業名簿にも名前がなかった。
 慌ただしい青春が過ぎて私は名古屋に嫁ぎ二児の母で商店主婦をしていた時、商用で栄の東海銀行本店に行くと彼女が銀行員として窓口に居たので吃驚した。
 
一瞥以来の挨拶をこそこそ交わしCAを出て銀行員になったのを父が一番喜んでいると言っていた。
 暇を見つけて一度逢いたいと言っていたのに果たせぬまま余りに早い彼女の死であった。
 
二十代の終わりで勿論未婚であった。
 名古屋は雪があまり降らないが、あの美濃の雪の日のことは戦争の名残りと共に忘れられない思い出である。

  俳句 霜降りて湯治場に来る村の衆
     霜の朝駅へのブーツ足早に

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする