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日本国家の形成 - 7 ( 私の過ち )

2019-03-31 21:25:23 | 徒然の記
 山尾氏の『日本国家の形成』を、読み終えました。
書評は読んでいる途中でせず、読み終えてからすべきと自分で戒めたはずなのに、それを忘れ、読みながら批評しました。
 
 最終章の「天皇制国家の特質」と「あとがき」を読み、自分の早合点を反省いたしました。氏はやはり、反日・左翼学者と同列に見るべきでなく、真面目な歴史家でした。
 
 「この数年間に発表した論文を基に、律令国家形成史の諸段階を、大づかみに書いてみた。」「全体として、一つの作業仮説であり試論であって、しかも、輪郭の粗い素描に過ぎない。」
 
 「この数年間の私の勉強は、津田左右吉氏の『日本古代史の研究』と、石母田正氏の、『日本の古代国家』に取り組んでの模索と、試行の繰り返しである。」「書き終わって、二人の先達の掌中で、少しあがいたに過ぎぬ気がする。」
 
 「おのれの無知だけは、自覚できたので、改めて勉強しなおしたい。草稿を圧縮したため、説明不足と思うところも目につく。」「読者にお詫びするとともに、ご検討ご批判を、お願いする次第である。」
 
 これが、「あとがき」に述べられた言葉でした。氏が、何年もかけ取り組んだ課題を、私はわずか9日間の読書で、批評しました。草稿圧縮のための説明不足を氏が詫びていますが、それは確かだろうと、読者である私は同感しました。説明が割愛された部分で、理解ができなくなり違った解釈をしたのかと、そんな気もします。
 
 「おのれの無知だけは、自覚できたので、改めて勉強しなおしたい。」
 あとがきの謙虚さと誠実さを知り、散々批判してきた自分を、恥じました。最終章で、氏は文字通りの師となり、私は生徒となりました。
 
 「日本の君主の称号としての天皇の成立について、最も古い説明は、私の知る限りでは、平安時代末のものである。」
 
 1118年の鳥羽天皇のとき、宋が送ってきた国書を、天皇が諸家に勘案・奏上させました。そのとき中原師安 ( もろやす ) ら五人が、次のように述べました。
 
 「聖徳太子が隋に、日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、との国書を送ったが、返書には皇帝、倭王に問う、とあった。」「太子は、天子の号を倭王におとされたのをにくみ、報書に、東の天皇、西の皇帝に白すとした。」
 
 氏はこの5人の諸家の言葉を引用し、天子と皇帝の号から、天皇という号を作ったのだろうと解釈しています。また、律令制下の天皇は、最高軍事指揮権を中心に、天皇の大権を保有していたと説明します。
 
 「国家の大権と天皇主権のあり方を、最も端的に明示するのが、外に対する接触のときである。」「それゆえ天皇に代わり、その折衝にあたる、遣唐使と征夷大将軍には、節刀が与えられる。」「命令に服さない者を、天皇の名において、専殺しうるのであり、天皇の刑罰権をも委任されたのである。」
 
 聖徳太子の国書については聞いておりましたが、遣唐使と征夷大将軍の節刀については、初めて知りました。また氏はここで、律令制下の天皇について、大変重要な基本的性質を列挙します。
 
  1. 天皇は、姓 ( せい ) を賜与する唯一の主体として、政治的身分秩序を形成する根拠となっていること。
  2. 天皇は、位階を授与する唯一の主体であること。
  3. 天皇は、官人機構を形成する主体である。
  4. 支配階級の一般意志や、重要な事項は、天皇の命令として現れる。
 
 大化の改新は、天皇を中心とする律令国家を作るのが目的でした。明治維新のとき、元勲達が再び、強固な「天皇制国家」作ろうとしたのは、列強の脅威に対抗するためでした。飛鳥時代の天皇と貴族も、強大な中国や朝鮮の諸国と対抗するため、強固な律令国家を作ろうとしたのです。
 
 「律令体制における天皇は法を超越し、法の妥当性に根拠を与える、究極的権威として位置づけられている。」「従ってそれは、特定の階級を代表するのでなく、階級を超越した、無謬の神聖なるものでなければならず、政治的道徳規範の、根元でなければならない。」
 
 「天つ神の子孫であり、聖徳なる天皇は血統という、自然の秩序にのみ規制されるのである。」
 
 ここまでの理解がなされているのなら、言うことがありません。ここで語られているのは、現在に至る天皇の姿です。あらゆるものを超越する存在で、究極の権威なのですから、天皇にあるのは「公」のみで、「私」がありません。いわば天皇は、こういう時代から、過酷で大変な立場におられたことになります。
 
 「天つ神の子孫であり、聖徳なる天皇は、血統という自然の秩序にのみ、規制されるのである。」・・ この言葉は、男系維持の重要さを説明しています。心得違いをしている自民党の議員は、歴史を勉強し直さなければダメだ、ということも教えられます。
 
 良心的学者として敬服させつつ、それでも氏はまだ惑わせます。
 
 「このような法的観念的な形態と、それがどの程度実質化し永続するかは、別の問題であって・・・・」と、疑問を続けていますが、深く考えないことにいたしました。
 
 大切なのは、
  1.  氏が反日・左翼の学者でなかったこと。
  2.  日本を貶め、嫌悪する、「東京裁判」を肯定する学者でなかったこと
  3.  天皇のお立場を、正く説明する学者であったこと
 
 山尾氏に申します。「私もまた、己の無知を自覚しましたので、これから勉強しなおします。」
 
 氏の著書は、有価物のゴミとせず自分の本箱に納めます。予想しない結果となりましたが、人生にはこんなこともあるのでしょうか。勝手な書評で、ご迷惑をおかけした訪問者の方々には、お詫び申し上げます。
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