ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『最後の殿様』 -18 ( スターリンと 2・26事件 )

2021-07-17 14:51:37 | 徒然の記

 2・26事件には、侯も複雑な思いがあるのでしょうか。折に触れ、感想を述べています。

 「2・26事件には、確かに同情すべき点が多い。」「だがその影響も、軽視するわけにいかない。」「三月事件、十月事件、5・15事件までは、」「首謀者は革命運動として、国民大衆との結合を念頭に置いていた。」「労働者や農民が加わり、無産政党の加担も求めていた。」

 「だが、2・26事件にはそれがない。」「純粋性と忠誠心に凝り固まった結果、軍人だけの行動となった。」「これが、派閥闘争に利用されたといわれるところで、」「国民から遊離しただけでなく、反軍思想さえ生まれた。」「2・26事件の結果、世界の各国が、アジア大乱を予想した通りになった。」「翌、昭和12年7月7日に、盧溝橋事変が突発し、」「ついに、不幸な日中戦争となったのである。」

 私はこの時、侯の自伝の5年後に出版された、白石正義氏の著『私の昭和史』の記述を思い出しました。

 氏は、陸軍士官学校在学中に5・15事件に連座し、退学処分となり、満州に追放されました。そこで関東軍情報部、関東軍特務機関要員となり、身分を隠したまま終戦を迎え、引き揚げ船で帰国した人物です。戦後は一般人として暮らしていましたが、自分の人生の記録として、昭和63年にこの本を書いています。

 侯の知らない事実が書かれており、知っていたら、2・26事件への見方が変わっていたのではないかと、そんな気がしてきました。話が横道へそれますが、白石氏の著作から、その部分を転記します。

 「わが国と蒋介石を戦わせ、」「両方の戦力を消耗させることが、」「スターリンの唯一の願望であり、世界戦略の一端であった。」「アジアでの無産革命を達成するための障碍の一番が、日本帝国で、二番目が蒋介石の国民党であった。」

 「このためにスターリンは、中国に「国共合作」を行わせ、」「手段として、共産軍を国民党軍に編入し、日本に対する統一連合戦線を結成させた。」

 いわゆる、世間でささやかれる「スターリン謀略説」です。白石氏が、渾身の思いで出版した本だったのでしょうが、昭和63年の日本では、一顧だにされなかったようです。

 「近衛内閣以後の歴代の内閣は、日中戦争を一日も早く終わらせるべく、」「それなりの努力を払った。」「しかし都度不調に終わった原因は、スターリンの  " 反ファッショ人民戦線 "  にあったのでないか。」「王明の提案の内容をみれば、いくらわが国が和平交渉を提案しても、無駄であった理由が、判明する。」

 ここで氏が説明しているのは、昭和10年にモスクワで行われた、「コミンテルン第7回大会」における「スターリンの戦略」です。大会後、戦略に沿って、三つのことが実行に移されたと言います。

  1. 毛沢東の抗日宣言 (昭和10年)

  2. 西安事件 (昭和10年)

  3. 2・26事件 (昭和11年)

 1. 2. については、納得できますが、3つの戦略の中に 2・26事件が含まれていると言うのは、不思議な話でした。今まで忘れていましたが、侯の自伝を読み、ふと白石氏の著作を思い出しました。

 氏の著作を、少しばかり転記します。

 〈 1. 毛沢東の抗日宣言 (昭和10年) 〉

  スターリンの指示を受けた毛沢東は、四川省で、抗日宣言を発表した。

 「中国および中国民衆の仇敵は日本だ。」「日本の侵略で中国は多くのものを失ったが、今や日本はさらに武装し、中国に迫っている。」「中国および中国民衆は、国内抗争を停止し、抗日の旗印のもとに、すべての階級の民衆を組織し、全面的抗日戦線を行うべきだ。」

  〈 2. 西安事件 (昭和10年) 〉

  共産党討伐戦のため、南京を訪れていた蒋介石を、副司令官である張学良が、宿舎を急襲し監禁した。延安にいた共産党の周恩来が、モスクワの指令で仲介に入り、蒋介石を救出した。釈放の条件として、蒋介石は共産党討伐を止め、国共軍が一致して日本と戦うことを、約束させられた。

  〈 3. 2・26事件 (昭和11年) 〉

   軍部内の将校を扇動し、天皇親政の名のもとに政権を取らせ、米英相手の戦争に突入させる。かくて日本は国力を消耗し、敗れ、日本を敗戦革命に導くことができる。

 要するにスターリンは、クーデターを成功させ、米英戦争へ向かわせることを戦略にしていたと、氏は説明しています。意見の正当性を裏付けるため、ボン大学教授の松本氏の意見を、引用していました。

 「 2・26事件によるクーデターは成功しなかったが、米英戦争へ向かうという流れは残った。」「5・15事件は、純粋に日本だけで考えられ、実行されたものだが、」「 2・26事件は、その考えの底流に、外国の発案が働いている可能性がある。」

 読者の疑問を解く鍵として、白石氏が次のように述べています。

 「コミンテルン第7回大会には、野坂参三と山本縣蔵の2名が、それぞれ岡野、田中という偽名で日本を出国し、参加しています。」

 私はこの2名、野坂、山本の両氏が、スターリンの戦略を実現するため、大川周明氏や北一輝氏に近づいていたのではないかと、推測します。共産党員にも親近感を抱き、警戒心を持たなかったのですから、十分に考えられます。結局日本軍は昭和16年の12月に「真珠湾攻撃」をするのですから、長い目で見れば、スターリンの戦略は実行されています。

 スターリンを過大評価するのでなく、私がこの話を紹介するのは、「日本共産党の恐ろしさ」「無警戒な日本人」への警鐘のためです。現在の国際社会は、米中の二大強国が覇権を争い、日本がその狭間で翻弄されています。政界にも経済界にも、国益を忘れた反日左翼たちが、中国に膝を屈し、米国内の反日勢力に媚びを売っています。

 私たちは、侯や大川氏、北氏と、周辺にいる「お人好し」の人々を、笑っているわけにいきません、他人事ではありませんと、それが言いたくて回り道をいたしました。

 「政界は一寸先は闇」といわれますが、国際社会も同じことです。過去を知り、現在を考えることの大切さを、息子たちに伝えたいと願っています。

  1.  反日左翼学者の追放  2.  反日左翼スコミの駆逐  3.  反日左翼政治家の落選

 現在の私たちがやらなくてならない具体策は、以上三つです。しかも忘れてならない重要なことは、自民党の中にいる「害虫たち」です。落選させる勇気を持たなくてはなりません。

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『最後の殿様』 -17 ( 大川氏と北氏の革命思想 )

2021-07-17 08:10:13 | 徒然の記

 大川周明氏と北一輝氏の思想を比較する前に、時代を語る侯の説明を転記します。

 「昭和7年になると、底流にあった歴史の激動が、表面化してきた。」「米を作っても農民は食えず、佐倉宗五郎のような義人の出現を待望するようになった。」「青年は鬱勃たる不満を抱き、ある者は過激化し、ある者は退廃的になっていった。」

 「2月9日に、前の大蔵大臣井上準之助さんが、」「選挙の応援演説に行った先の小学校で、小沼正に拳銃で射殺された。」「3月5日には、三井合名の団琢磨さんが、菱沼吾郎に射殺された。」

 「これが血盟団事件であった。」「血盟団は、社会の諸悪の根源は、政治家よりも財閥であるとみた。」「より根源の財閥を、一人一殺によって打倒しようと試みたのである。」「財閥は大打撃を受けた。」

 血盟団事件については、私も学校で習い、事実だけは知っています。

 「その激動の中で、大川周明くんと石原莞爾くんは協力して、」「神武会を発足させ、発会式を行い、」「またしても僕が担がれて、顧問になった。」「これは行知社の名称を変え、幅を広くしたものである。」

 ここで侯が、大川氏の主張を紹介しています。

 「神武会は政党でなく、一個の国民運動である。」「われらは一党一派を立て、現在勢力を倒し、これに代わろうとするものではない。」「国民全体の総力をもって、建設にあたらんとするもので、」「国民統合の、機動力足らんとするものである。」

 「今日の乱兆歴然とした機運の中で、一党一派が単独で、」「政局を収集しうるとは考えていない。」「少なくとも神武会は、左様な日向の夢を描いてはおらぬ。」

 私には、当たり前のことを述べているとしか読めませんが、侯は、「大川くんは、一党一派の利己心や指導権を否定している」と評して、さらに紹介します。

 「神武会はまず国民に向かって、日本の理想と現実を明確に説明する。」「国民は日本の理想の高きを知り、日本の現実の低劣悲惨さを知るであろう。」「さらに神武会は国民に対し、日本を貶めた諸悪の根源がどこにあるかを、」「正確に説明する。」

 これも私には、当たり前の意見ですが、侯は、「いろいろの意見があるが、全て抹消的で、その根源をえぐっていない。」「大川くんの着眼はやはり鋭い」と評価し、説明を続けます。冗長なので少し割愛し、最後の部分を転記します。

 「神武会の政策には、少なくとも2個の条件を不可欠とする。」「第一は途端に苦しむ国民が切実にもとめ、断行によりその苦しみを和らげうるもの。」「第二はその断行が、国家機構の根本的改革を誘導するものであること。」

 拙速を語らず、長期展望に立った意見には、三月事件と十月事件の反省がこめられ、国民大衆の上に立つ革命を語っていると、侯は、高く評価しています。しかし私には単なる精神論だけで、具体的な中身が何もないと思えますので、それほど感心しません。

 北一輝氏について言いますと、『日本改造法案大綱』が有名です。2・26事件の決起将校たちは、氏の本を熱心に読んでいたと言います。どのような内容なのか、ネットの情報がありますので、紹介します。

 ・男女平等、男女の政治参画

 ・華族制度廃止、貴族院廃止

 ・累進課税の強調

 ・私有財産制限、大資本国有化、財閥解体、皇室財産削減

 ・日本の国体は、「天皇の独裁国家」でなく、「天皇を中心とする近代的民主国家」

 ・天皇の下に議会があり、議会から内閣が生まれる「天皇親政国家」を目指す

 ここまで具体的に書いていたのかと言う驚きが、まずありました。大川氏の抽象的な精神論に比べますと、具体的なので、若い将校の心を掴んだのだと思いました。十月事件のクーデターは未遂に終わりましたが、成功した後の政府の陣容まで計画していたことが、ネットの検索でわかりました。

  首相 荒木貞夫陸軍中将   蔵相 大川周明  内相 橋本欣五郎中佐

  外相 建川美次少将     法相 北一輝   警視総監 長勇少佐

  海相 小林省三郎少将

 侯は説明していませんが、おそらく十月事件のクーデター失敗以来、革命一本槍の北一輝氏と大川氏の間に、考えに齟齬が生まれたのではないかと推察します。大川氏が北一輝氏を離れれば、必然的に侯も北氏から距離を置くことになります。さらにネットでは次のようにも、書かれています。

 「彼らの思想は、国家社会主義と分類・紹介される事が多い。」「しかしむしろ、軍部単独による階級闘争・暴力革命・非合法手段・強権行使に頼った、」「日本式社会主義とも言える。」「更には反特権階級・反財閥、果ては日蓮宗の思想までもが混然としている。」

 北氏だけでなく大川氏の思想も、神道やイスラム教が混じる「日本式社会主義」だったと、私には見えます。「彼らには、政権を取るまでの方法論はあったが、政権を取った後の具体策がなかった。」と、ネットでは厳しい評価ですが、さもありなんと、思えてなりません。

 侯の著作で北一輝氏は評価されていませんが、ネットには別の評価も書かれていますので、「両論併記」の意味で、転記します。

 「二・二六事件後、軍法会議の裁判長吉田悳少将はその手記で、」「北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。」「流石に一方の大将たるの風格あり、と述べている。」

 「日ごろから言葉遣いは丁寧で、目下、年下の者にも敬語を使っていたという。」「裁判では、青年将校たちの決起について、自分は関係がないことを主張しながらも、」「青年将校たちに与えた、自らの思想的影響についてはまったく逃げず、死刑判決を受け入れている。」

 侯の人物評も、吉田少将の評価も、どちらも北一輝氏を語る事実です。息子たちへの参考のため、付記しました。

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