『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学_1章_7~9

2010年12月29日 | 『自由の哲学』
⑦ならば、この観点(原因となっている自分の意志を自覚しているかどうか)から見てみたい。私たちの意志の自由を問う時、ただひとつの面(つまり、意志を自覚しているかどうか)だけから問うのは適っているか? ダメだとすれば、どんなことが関係して来るのか、どんなことと一緒に考えなければならないか。

⑧意識された原因と意識されない衝動とが全然別のものであるからには、

※「意識された因からするとやみくものつきあげからするも必然に違って判断されなければなるまい」が不明。

この違いを最初に問おう。
そしてその答えによって、そもそも自由の問いに(自由の問いとは、人の意志が自由かどうかという問い?)どう答えるべきかもかかってくる(=関わってくる?)だろう。

⑨自分の行動の原因を知っているとはどういうことか。この問いがほとんど誰にも無視されてきたのは、分かちえないひとつ(=人)がふたつに分けられてきてしまったからだ。つまり「する人」と「知る人」が別々に扱われ、何より「知るからする人」が置いてこられたからだ。

※する人=泣くあかんぼ、転がる石、エサを食べる動物、流行りを追いかける人。/ゴミを拾う人、難しい本を読む人、おいしい料理を作る人…。
知る人=原因を自覚している状態でいる時の人。この例だと、最初の方は自覚してないけど、「/」の後からは、町をキレイにしたい人、自由を理解したい人、人を喜ばせたい人、という自覚があるんですね。
知るからする人=町をキレイにしたくてゴミを拾う人、自由を理解したくてムズカシイ本を読む人、人を喜ばせたくて料理を作る人、…という、「自覚や目的を持って自分から行動する人」のことをきちんと議論してこなかった、のですね。

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1 コメント

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Unknown (オキツ)
2011-04-06 06:52:27
もう一回読んでみよう。

7.
ならば、この観点(原因となっている自分の意志を自覚しているかどうか)から見てみたい。私たちの意志の自由を問う時、ただひとつの面(私たちの意志は自由かどうか)だけから問うのは適切か? ダメだとすれば、何と一緒に考えなければならないか。

8.
自分で意識している原因と、
なんだか気持ちが盛り上がっちゃうことの二つが違うからには、
「なぜ自分はこうするのか」をきちんと意識してすることと、
意識なんてせずに、なんだかわからないけどしちゃうこととの二つも
絶対に違うこととして判断されないといけない。
この二つの違いを問うことから始めよう。
そしてその答えは、そもそもの自由の問い(最初の問い=人の意志は自由か)に
どう対応すればいいかにも関わってくる。

9.
自分が何かをする。その原因を「知っている」とはどういうことか。
この問いがほとんど無視されてきたのは、
別々にできない二つ(「する人」と「する原因を知る人」)が別々に扱われてきたからだ。
大事なのは、「原因を知っているから何かをする人」というトータルな「人」についてきちんと見てみることだ。

※それがわかれば、「原因を知らないで何かする人」もわかるな。ホントは「○○な人」という言葉を「○○な時」に変えたいけれど。
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