郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。フランス、イギリスを主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ39』と史実◆ハーバート・ノーマンと武士道

2015年10月04日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ38』と史実◆高杉晋作と奇兵隊幻想の続きです。

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 朝ドラに五代友厚と大久保利通が出てきました。
 まったく、ありえへん感じなんですが、おもしろいので許せます。
 朝ドラと大河は基本的にちがいますが、しかし、ドラマである以上、おもしろければ、史実から少々ずれていようがどうしようが、かまわないんです。
 しかしまあ、この珍大河ときたら、まったくもって、おもしろくありません。
 あまりのつまらなさに、もう突っ込む気力も無いのですが。



 だいたい仮住まいに等しい山口に、極端な言い方をすれば、奥なんかありません。
 萩のお城には、奥らしきものもあったんですが、それは正妻のいる場所ではなく、側室がいただけです。
 正妻は江戸にしかいませんでしたから。
 そのありもしない奥が閉じるといわれても、馬鹿馬鹿しくて見る気がなくなるだけなのですが、山本栄一郎氏の「吉田松陰の妹・文(美和)」によれば、明治3年5月に興丸さまは山口の銀姫のもとを離れ、三田尻別邸(お茶屋)に転居しているんだそうです。
 興丸さまはとても病弱で、大阪でオランダ人医師ボードウィンの診察を受けましたところが、気候温暖な瀬戸内海沿岸への転居を勧められたような次第です。そして三ヶ月後、健康のために庶民と同じように育てよ、と、そうせい侯が言われたとやらで、興丸さまつき女中は全員解雇されます。しかし、美和はこの少し前、銀姫つきお側女中として名が挙がっていまして、もちろん、解雇はされていません。
 廃藩置県が行われましたのは、その翌年、明治4年の7月でして、最長、このときまで美和が勤めていた可能性はあります。

 もう一つ。廃藩置県が行われたとたんに、なんで銀姫、都美姫が洋服をこしらえてみたりするんですかね? まったくもって、意味不明です。よくまあ山口に、婦人服の仕立て職人がおりましたこと。
 何回も仮縫いしたり、いろいろと、当時のドレスの仕立ては大変ですのよ。あほらしい。



 次いで、楫取素彦が二条窪に住んでいた時期と目的について、です。
 大きくちがっているわけではないんですけれども、「男爵 楫取素彦の生涯」収録、池信宏證氏著「長門三隅二条窪在住時代の楫取素彦・寿子夫妻のこと」によりますと、楫取は、明治3年3月の諸隊脱退騒動で、藩政府員を辞職して、新築の二条窪の邸宅に住んでいるのですが、その二十日後には、三田尻管掌(市長のような職)となり、三田尻に引き移っているのだそうです。
 楫取が二条窪に荘園を得て、住もうと決めましたのは、どうも、明治2年の3月ころではないか、と推測され、石垣を築いた大層な邸宅を作りますのにほぼ一年。楫取素彦が移り住むと同時に寿夫人や家族が移り住み、しかし素彦は単身赴任で三田尻へ。明治4年3月28にそうせい侯が薨去され、素彦は侯の葬儀を最後に公職を引退し、二条窪へ。翌明治5年2月に足柄兼参事に任命されますまでの実質10ヶ月ほどが、楫取が荘園に住んだ期間だそうです。

 えーと。ドラマでは道明も二条窪にいたような話になっておりますが、スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明に書いておりますように、山口明倫館でフランス語を学んでいたそうですから、寄宿していたのではないでしょうか。
 二条窪でいまにいたるまで語り継がれておりますのは、楫取よりも寿さんの方が、浄土真宗の伝道に尽力したことでして、素彦が百姓をしたといいましても、小規模地主になって荘園の管理をしていたわけですから、ドラマで描かれました趣とは、そうとうにちがっていたように思います。

 もう一つ、秀次郎が萩に現れるタイミングもづれています。
 これまで何度か書いてまいりましたが、秀次郎が萩で久坂の実子と認められましたのは、明治2年の11月17日です。美和さんが御殿女中をしている時期でして、しばらくは、久坂の母方の従姉(大谷家の娘)の嫁入り先、椿家で養育されたと伝わっています。

 以上で、珍大河の話は終えまして、前回の続きを書きたいと思います。

BBC 世界に衝撃を与えた日28 冷戦下のスパイ~ケンブリッジ・スパイグループとローゼンバーグ夫妻の最期 [DVD]
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 このBBCのケンブリッジ・スパイグループの話、ドラマ仕立てのドキュメンタリーですが、珍大河の百倍はおもしろいです。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol2 イートン校リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校において、多少、書いているのですが、第一次世界大戦後、イギリスでは、世の中の価値観が一変しておりました。

 コメント欄に書いておりますが、基本的に海軍重視のイギリスには徴兵制度がなく、常設陸軍が小規模だったために、専門の将校もごく少数でした。ところが、諸処の理由から19世紀末にはそれではすまなくなってきたのですが、国家財政上からも陸軍の増強はむつかしく、陸戦にのめりこんでしまった第2次ボーア戦争などは、志願兵の大幅増強で乗り切ってます。
 現場の指揮官につきましては、オックスフォード、ケンブリッジの学生、卒業生を中心とします若いエリートたちが、即席の教育で下級将校になります。
 第1次大戦のイギリスでは、50歳以下の貴族の男子の2割までが戦死し、オックスブリッジの学生の三人に一人が戦死。これは、第2次大戦の日本の帝大生の死亡率よりはるかに高く、戦後、オックスブリッジはゴーストタウンのようだったそうです。

 愛国心に満ちた彼らは、エリートだからこそ率先して戦場を志し、ろくに訓練も受けないで下級将校となり、指揮官先頭を実戦し、無謀な作戦の犠牲となりました。
 NHKで断続的に放送されていますイギリスのテレビドラマ「ダウントン・アビー」でも、その様子は描かれていますが、彼らが予想もしていなかった悲惨な塹壕戦の結果、たとえ戦死はまぬがれても、体が不自由になったり、精神をやられたりで、廃人になった者も多かったといいます。

 その後、世界を不況が襲いますなか、神の教えではなく、共産主義にアナザー・カントリー、もう一つの祖国を見ますエリートの卵が、多数現れたわけなんです。

映画『アナザー・カントリー』『眺めのいい部屋』予告編


 映画『アナザー・カントリー』の主人公のモデル、ガイ・バージェスは、イートンからケンブリッジへ進学し、そこで共産主義に出会います。ケンブリッジからエリート外交官となった複数の仲間とともに、ソ連のスパイとなり、それがあばかれかかったためにソ連に亡命。映画では、最初と最後に、ガイが晩年にモスクワで受けた西側ジャーナリストのインタビューが描かれますが、まだ若かったにもかかわらず、ルパート・エヴェレットがその晩年のガイを、見事に演じています。

 Cambridge Five spy Guy Burgess interview unearthed by CBC


 上のフィルムには、本物のガイのそのときのインタビューフィルムが収録されています。
 ソ連のスパイとなりましたケンブリッジ出身者は他にもいて、ソ連が崩壊しましたとき、彼らがソ連に渡しました西側の機密文書は、二万ページを越えることがわかりました。

スパイと言われた外交官―ハーバート・ノーマンの生涯 (ちくま文庫)
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 ハーバート・ノーマンが、ガイ・バージェスと重なるような時期にケンブリッジにいて、共産主義者となっていたことは、確かめられています。
産経新聞 「ノーマンは共産主義者」英断定 GHQ幹部 MI5、35年の留学時参照)。
 しかし、工藤美代子氏は、「スパイと言われた外交官―ハーバート・ノーマンの生涯」において、ノーマンがソ連のスパイであったことは、否定しています。
 確かに、スパイだったと言うには、あんまりにも資料不足です。工藤氏も言っておられるのですが、どうやらカナダは、ノーマンに関します文書を、すべて公開しているわけではないようですし、公開しているものも、伏せ字だらけなのだそうです。

 単に共産主義者だった、というだけのことでしたら、当時は日本でもやたらに流行っていまして、ノーマンより四っつ年若い共産主義かぶれが、うちの近所にもいたそうです。
 「気まぐれ美術館」という美術エッセイで知られます、洲之内徹です。
 「近くの陶器屋の息子が赤で、特高が来て、息子は屋根伝いに逃げて、あのときは近所中大騒ぎじゃった」と、昔、祖母が語っておりました。東京美術学校へ行って赤に染まって松山へ帰って来たのですが、後に転向し、中国大陸で軍の対共工作にたずさわり、どうも、共産主義者であることのバカバカしさに目覚めたもののようです。

 問題は、ノーマンが共産主義者であったかどうか、ではなく、共産主義者として、日本をアメリカとの開戦に向かわせる工作に、かかわったのかどうか、ということではないでしょうか。
 工藤美代子氏は、長い伝記の最後を、以下の言葉で結んでいます。

 最後に、私は、ノーマンの死を彼の無実の証明とは考えていない。彼の無実の証明は、むしろ彼の生の中にあったのではないか。ノーマンは本来、自分の生を深く愛した人である。わざわざ、その生の喜びを裏切ってまで、スパイ活動をする必然はいったいどこにあったのか。 

 しかし、ガイ・バージェスたちにしましても、どこからどう見ましても、自分の生を深く愛していたと、思うんですね。
 しかもノーマンの場合、戦前、日米開戦を望む共産主義者たちの策動に加わったところで、祖国カナダの外交方針を裏切ることにはならず、むしろ、1939年にドイツがポーランドに侵攻し、ヨーロッパを席巻して、1940年に英仏軍をダンケルクに追いつめるにいたっては、英連邦の一員であるカナダにとりましては、一刻も早いアメリカ参戦のために、日米開戦こそが、望まれたのではないのでしょうか。

 ノーマンは、ケンブリッジ卒業後、カナダに帰り、ケンブリッジの友人の共産主義者が、スペイン戦線で戦死したことを知り、自分なりに、世界をおおうファシズムと戦うことを誓います。
 それが、ハーヴァード大学で日本史を研究し、論文を書くことだったのですが、ロックフェラー財団から三年間の奨学資金を受けていて、ロックフェラー財団はまた、太平洋問題調査会(IPR)の最大の資金援助者でして、ノーマンがこの期間にまとめました「日本における近代国家の成立」は、ハーヴァードの学位論文を意図して書かれる一方、太平洋問題調査会の調査書の一つとして、刊行されました。
 
日本における近代国家の成立 (岩波文庫)
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岩波書店


 ゾルゲ事件の首謀者の一人として処刑されました尾崎秀実は、中国問題の専門家ということで、1936年、カリフォルニアのヨセミテで開催された太平洋問題調査会に参加し、西園寺公一と出会います。尾崎はこれ以前からゾルゲと知り合っていましたが、あらためてゾルゲを紹介され、初めて本名を知ったといいます。(wiki-尾崎秀実より)
 同じ1936年、ノーマンは、カナダ中国人民友の会の書記となった記録があるそうですが、具体的にどういう活動をしていたかは、わからないそうです。しかし、確実に言えることは、この時期のノーマンは、太平洋問題調査会に提供するために、日本史の研究をしていた、ということです。(ハーバーと・ノーマン全集第四巻収録 大窪原二著 「覚書 ハーバート・ノーマンの生涯」より)
 
 ノーマンは、1940年1月、「日本における近代国家の成立」を書き上げ、太平洋問題調査会に手渡した直後、カナダ外務省、在日公使館の語学官に任命され、5月に着任します。
 翌1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日米開戦にいたり、カナダ公使館内に抑留されるまで、ノーマンは日本にいて、翌1942年の交換船でカナダへ帰り、この年12月の太平洋問題調査会・第八回国際会議には、カナダ代表団幹事の一人として出席します。
 ちなみに、太平洋問題調査会とは、そもそもはアジア・太平洋地域のさまざまな問題について、各国の民間組織が研究・討議する、自由主義的知識人の組織だったのですが、尾崎が出席しましたヨセミテ会議のころには、中国の影響力が非常に強い会議となり、同時にこの回からソ連が正式メンバーとして加わり、反日的色彩が決定的なものとなっていました。

 最大の問題は、です。日本の敗戦後、ノーマンがGHQに出向し、支配者のスタッフとして君臨し、太平洋問題調査会のために記した日本近代史が、そのまま、占領政策の指標となったことです。
 
 ケンブリッジで共産主義者となる以前、1933年の時点から、ノーマンは、次のように考えていました。「スパイと言われた外交官」から引用です。

 「あの腐った武士道にはがまんできません。それは恥知らずな軍国主義者たちに利用されている、使いものにならない封建的な観念にすぎません」 

 もしかして、あるいは、なのですが、昭和の岐路◆新渡戸稲造の松山事件でちらりと触れているのですが、日本IRP理事長の新渡戸稲造は、1933年、、カナダのバンフで開かれました太平洋問題調査会の第五回会議に出席し、満州問題で孤立する日本の立場に理解を求めようと奮闘し、心労を募らせ、カナダで客死します。
 新渡戸稲造は、クリスチャンであり、同時に「武士道」を英語で書き、世界に紹介した人物でもあります。
 カナダに帰って、社会主義に傾倒していました若きノーマンにとりましては、武士道を信奉します自由主義的クリスチャンの日本人、新渡戸は、ぬえのようで、打倒すべき日本人の代表となっていたのではないでしょうか。

 ともかく。
 ノーマンの幕末維新史では、あたりまえのように、「士族の封建制信奉」が悪く語られ、それに後世の軍国主義がかぶさるのですが、そういったイメージの骨子は、いまだに日本の俗書で見受けられるものでしょう。
 もう一つ、ノーマンがGHQで成したことは、近衛文麿の排斥でした。「スパイと言われた外交官」から、ノーマンの手になる近衛攻撃文の引用です。

 「彼(近衛)の在任中の記録から、(私は)彼が戦争犯罪人にあたるとの強い印象をもった。しかしそれ以上に容赦ならないことは、彼がよく手懐けた政治的専門家と術策をめぐらし、もっと権力を得ようと上手に立ち回り、中枢的地位に巧みにのしあがり、現状において彼は不可欠の人物であるとほのめかすことにより最高司令官(マッカーサー)の救いを求めて、いまだに公務にでしゃばっていることである。
 一つ確かなことがある。それは、彼(近衛)が重要な地位につくことを許容される限り、それがどのような地位であっても、彼は自由で民主的な運動の台頭を妨害し、挫折させてしまうであろうということである。彼が憲法起草委員会を牛耳るかぎり、民主憲法を作成しようとするいかなる真剣な企みも、彼は打毀してしまうであろう」


  近衛文麿の憲法改正要綱(国立国会図書館)をご覧になってみてください。
 近衛文麿は、GHQの意向もくみながら、日本人が独自に憲法を改正するつもりでいたんですね。もちろん、馬鹿げた第九条などは、これにはありません。
 そして、ノーマンがいうには、近衛文麿は、うまくマッカーサーを取り込みかかっていたんです。
 結局、ノーマンの口出しは成功して、近衛文麿は自殺するのですが、しかし私は、つい想像をめぐらせてしまいます。あるいはノーマンは、ゾルゲ事件が蒸し返され、日米を開戦に導く工作に多くの共産主義者がかかわり、間接的に、でしょうけれども、自分(ノーマン)やカナダ外交部がかかわっていたことを、近衛がマッカーサーに登用され、いつの日か暴露することをも、おそれたのではないでしょうか。
 
 結局、史料がないわけですので、ノーマンがスパイであったとはいえないのですが、どうも私には、伝説の金日成将軍と故国山川 vol6伝説の金日成将軍と故国山川 vol7伝説の金日成将軍と故国山川 vol8で書きました「アリランの歌」の張志楽(キム・サン)が、ノーマンに重なってみえてしまいます。
 張志楽も共産主義者で、同時に、繊細な心を持った文学者でした。
 そして、日中開戦を心より、願っていたんです。
 日本が憎かったわけではありません。日本は敗れる。戦いに敗れた日本は、すばらしい共産主義国に生まれ変わり、ソ連はもちろん、中国とも朝鮮ともいい仲間になれる! と、張志楽は夢想したんです。

 ソ連は、ロシアにとって悲惨きわまりなかった第一次世界大戦の中から、生まれました。
 そう。共産主義国は、近代戦の中からしか、生まれ得ないのです。
 共産主義者は、平和主義者ではありません。日本の軍国主義者は、封建士族とは似ても似つかず、実は共産主義者であったことを、近衛は知っていました。なにしろ近衛は、結果的にうっかり、共産主義者の策動に乗り、開戦への道筋をつけてしまいました、その本人なのですから。wiki-近衛上奏文参照)

 とにもかくにも、です。
 ソ連が崩壊してもう、二十数年です。にもかかわらず、なぜ日本人が、いつまでも占領時の共産主義の亡霊に取り憑かれ、占領史観と占領憲法を、後生大事に守り続けていかなければならないのか、私には、さっぱりわかりません。
 その探求は大変なことになりますので、またの機会にまわし、とりあえず次回は、珍大河の内容にあわせて、秀次郎くんでいこうかな、と。


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4 コメント

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オーエン・ラティモア (自然葉)
2015-10-05 22:59:44
いつも愛読しています。
今回のノーマンをめぐる『ノーマンと武士道』は大変な力作で、感服しました。
ノーマンとともに忘れられないのが、隠れコミュニストである「支那学者」として有名なオーエン・ラティモアです。「(ラティモアは)日本人の心の深層に反日的かつ親共的な進歩主義を刻み込んだ。」(湯浅赳男『日本近代史の総括』新評論2000年p165)と言われています。ラティモアは日本の戦前(大東亜戦争前)の社会を全否定しました。それに同調して「封建制という言葉の中にロシアや中国の伝統的体制と、西ヨーロッパや日本の前近代体制とを一緒くたにぶち込んだ」(湯浅、同書p163)のが、日本の左翼です。封建制という歴史的概念は分権的多数中心的社会経済体制です。ロシアや中国の東洋的専制主義の社会よりもましな制度でした。そして、西ヨーロッパよりもましな封建制が日本だと思います。(松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』中公文庫)
「封建制という言葉はもともとフランス革命のときに民衆が憎悪をこめてその敵に対して投げつけたスローガン用語である。それを今日の日本の学校教師たちはみな日本社会の気に入らぬものに貼り付けている。」(湯浅、同書p164)
ノーマンは自殺し、その正体はうやむやになったようですが、ラティモアはカール・ウィットフォーゲルが「コミュニストだった」と証言しています。(ウィットフォーゲルは独ソ不可侵条約の締結日まで、正式にドイツ共産党員でしたから、その証言は本当でしょう。G・L・ウルメン『評伝ウィットフォーゲル』新評論1995年)
ありがとうございます。 (郎女)
2015-10-06 12:04:15
湯浅赳男氏の『日本近代史の総括』は、さっそく読んでみようと思います。
 新渡戸稲造の松山事件を書きましたときには、まったく知らなかったのですが、今回、太平洋問題調査会(IPR)について少し調べて、ちょっとびっくりしました。こういった国際会議って、妙な勢力にのっとられやすいんですねえ。

 国連もいまだに奇妙な官僚組織のような気がします。

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/d88ff42f1a30f9b6f639aa50f7539d0b

 このモーリス・ストロングの特権なんか、???なんですが、日本のマスコミは、国連批判をまったくといっていいほどしませんよねえ。なんなんだろう、と思います。
ご注進いたします (自然葉)
2015-10-15 22:28:39
>>ソ連が崩壊してもう、二十数年です。にもかかわらず、なぜ日本人が、いつまでも占領時の共産主義の亡霊に取り憑かれ、占領史観と占領憲法を、後生大事に守り続けていかなければならないのか、私には、さっぱりわかりません。
同感です。
渡部昇一氏の新刊『戦後七十年の真実』(育鵬社、2015年8月10日)を読んでおりましたら、貴ブログ主様の関心のありそうな記述がありましたので、ご注進いたします。
戦後史で、痛恨の出来事といえば、アメリカ占領軍による公職追放というものです。日本の産業界、大学などの教育機関の教官、マスメディアの業界、政界から20万人以上の公職追放者が出ました。詳しくはhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E8%BF%BD%E6%94%BEを参照ください。「その人選をした中心人物はハーバート・ノーマンであろうと考えられます。(中略)...戦後GHQの要請を受けてカナダ外務省から出向し、天皇とマッカーサーの会談の通訳などを務めています。このノーマンが周辺にいた日本の左翼学者たちとともに公職追放のリストを作成したことはほぼ間違いないと思われます。」(渡部前掲書p80)「宮澤俊義をはじめとする東大の憲法学者たち」(同書p76-77)が、当初「占領憲法」を否定していたのに、「変節」して「日本国憲法」を承認し歓迎したのも、公職追放を怖れたからだと渡部氏は推測しています。
その結果、憲法学者はほとんど9条信者(9条規定の「戦争」は「自衛戦争および侵略戦争」であると解し、自衛隊も否定する非常識な人たち)になったらしいです。
しかし、昭和34年ころの最高裁判所の裁判官たちは立派でした。9条規定の「戦争」は侵略戦争であり、自衛戦争を意味するものではないとしました。(下記参照)
http://blog.livedoor.jp/cooshot5693/archives/52709802.html
自然葉さま (郎女)
2015-10-17 02:08:58
昭和34年ころの最高裁判所の裁判官は、当然、戦前の教育を受けた方ばかりだったでしょうから、りっぱだったんですね。
私は、吉本貞昭氏の「知られざる日本国憲法の正体」を読んでいるのですが、ご紹介の渡辺氏のご著書も、詠んでみるつもりでおります。
吉本氏のご著書では、民政局のトーマス・A・ビッソンなど、憲法改正にかかわった人物があきらかにソ連のスパイであったことが指摘されています。

 私は、日米開戦にこそ、ソ連のスパイが暗躍したのではないか、ということを疑っていまして、たとえスパイではなくとも、当時の共産主義者は、「日本が戦争に負けて共産主義国になれば、国民はみな幸せになれる」と、夢みたいなことを信じていたわけですから、本人、祖国を裏切っている自覚もなく、正義と信じて、戦争を推進したわけです。それが、どれほどの悲惨をもたらすかを考えもしませんで。
 正義を気取った理想主義者って、恐いものです。

 体制側も、恐ろしい共産党独裁の実体を知っていました亡命者・ゲンリフ・リュシコフの告白なんかを、なぜ、もっと上手く宣伝につかえなかったのだろう、とか、考えたりもします。

 身近に、けっこう保守的な政治的意見を持ちながら、戦前・戦中の共産主義者が平和主義者だったと、いまだに信じている人物がいたりで、悩みの種がつきません昨今です。

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