土屋龍一郎のブログ

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さて、10年後

2008-02-27 17:54:05 | Weblog
1998年の冬季オリンピック長野大会が終了して、10年間が経った。
この写真は・・・現在のセントラルスクゥエアだ。
当時、私たちの聖地として存在していた場所だ.
今は...
当時所有者が手放し、別の方が駐車場として運営している。
単なるメモリアルパークとして存在させることが不可能であったことはわかるけれども、ずいぶん時間をかけたけれどここを効果的に活用する知恵を出すことができなかった。
「しょうがないよな」と言ってしまえばそれで終わりである。
でも、こうして10年と言う節目が廻ってきて、あらためてこの場所を眺めたときに放っておかれた聖地セントラルスクゥエアの主が悲しげにしているのを感じる。
あれだけ燃えたオリンピックを、単なる思い出だけにしてしまった功罪は、私たちにあるだろう。
これから、20周年までにそれを補い、そして復活することができるだろうか・・・・?

98/2/22 SAYONARA

2008-02-22 02:45:03 | Weblog
閉会式会場で5000発の花火が上がっている頃、セントラルスクゥエアに隣接する「やま」を全館、1Fから5Fまで借り切って盛大な表彰式会場打ち上げを行った。
こんなとてつもない企画は、やっぱりJCが思いついた。
世界中の人が閉会式会場に集まってしまったので、この日のやまを全館借り切ることが出来たのだ。
というより、赤池社長が二つ返事でこの大懇親会を引き受けてくれたのだ。

表彰式会場のばかでかいスクリーンには中村さんが打ち込んだ「SAYONARA」の文字が浮かぶ。
それを見下ろしながら、本当の「SAYONARA」の意味にも気づかず、永遠にこの盛り上がりが続く気がしながら更けてゆく長野は権堂の夜に身を任せていったのだった。

今考えても、あの「SAYONARA」で、本当に何かが終わってしまったのだった。

98/2/22 打ち上げは任せろ。

2008-02-22 02:44:34 | Weblog
ついに・・オリンピックが終了した。
ひとつの競技もこの目で見ることはなかった。
開会式に席がなかったばかりか、閉会式にも行く予定がなかった。
だから、この表彰式会場に携わった全ボランティアの大大大懇親会を企画した。
これは、JCのもっとも得意とする企画だ。
セントラルスクゥエアに、集まったボランティアをチームごとに紹介する。
紹介されたチームは順番に、メダルを獲得した選手が渡った地上2mにある花道を通ってメインステージへ!
表舞台に立っていた人たちも、裏舞台にいた人たちも、全員が全員を大きな大きな拍手で讃え合った。

このときばかりは涙が出た。
ふと見ると、一番苦労していたはずのおっさんたちが花道を通っていない。
式典総括責任者今井さん、鬼のディレクター島崎さん、演出責任者中村さん。
3人とも「今日だけは俺たちが裏方をやるよ」と言って、結局最後まで表舞台にあがることなく、盛り上がった表彰式会場をまぶしそうに眺めていた。

98/2/21 俺たちの聖地

2008-02-21 18:25:36 | Weblog
セントラルスクゥエアは、表彰式会場に関わった俺たちの聖地となった。
美しかった。

こんなに頑張ったオリンピックボランティアだったけれど、心残りもたくさんある。
その一つがこのセントラルスクゥエアの跡利用について、オリンピック中に知恵を出せなかったことだ。
半年前には「ここで表彰された全選手たちの手形を埋め込もう。ひと坪地主を何十人も集めて、この聖地を買い取ろう。そして我々が委任管理したらどうか。10年後、20年後にあの選手たちにもう一度戻ってきてもらうために。」という、斬新なアイディアもあった。2008年の今なら、その手法は現実化できるけれど、1998年には、恐ろしく気の遠くなるような作業に思えたし、連日の対応で手一杯だったので、結局なにも策を出さないままになってしまったのだった。
こういった状況は、ほとんどすべての長野市民に言えていたのではないか?
その結果、美しい場所が、記憶の中にだけしか残らない見えない資産になってしまった。

98/2/21 競技最終日

2008-02-21 18:25:07 | Weblog
16日間に及ぶ、果てしなく、気の遠くなるようなスケジュールも、やはり競技終了の日が来た。
最終日には、なんとダメ押しでショートトラック競技で西谷岳文選手が金メダル、上松仁選手が銅メダルを獲得した。
屋内競技なので、ホワイトリングで表彰式が行われたのだが、最終日のスペシャルゲストとしてセントラルスクゥエアの表彰式会場にも来てくれた。
HQ(ヘッドクオーター)があるビルの裏手にはどこから情報を入手したのかたくさんの観客が、滑り込んでくる選手送迎車両を待ちかまえ、取り巻いた。県警の先導車両・後続車両はかなりのスピードの車両にテールツーノーズでぴったり護衛しながら到着した。
入場ゲートでも一度あがったバーの下を連続で走り抜けたテクニックには舌を巻いた。

さて、この花はそれぞれの表彰式でメダルの前に贈られるフラワープレゼント用に、毎日業者が手作りした花だ。
つい、格好をつけてみた。

98/2/20 表参道

2008-02-20 00:24:33 | Weblog
善光寺に通じる「中央通り」は、このオリンピックを境に「表参道」という名称が使われ出した。
もはや、まちの中央の位置づけだけでなく、善光寺への表参道として連日、東京都内のような、いや言い過ぎかな、軽井沢のようなにぎわいだった。ここら辺の商店街は「長野銀座商店街」という。銀座だからな。

このビルは、昭和37年に建てられた由緒あるビルだ。
オリンピック期間中は、天下のIBMが1Fから4Fまで借り切ってオフィスにしていた。
1Fは、訪れた人のためにIBMがその場で撮影した顔写真をすり込んだ、オリジナルメモリアルIDカードを作ってくれた。
初日にその話を聞いたときに「そんな企画、受けるのかな?」などとみんなで噂していた。
が、2日目からこれを注文する人の長蛇の列ができて、「2時間待ち」とか、ディズニーランド状態であった。
ビルオーナーでさえ、もらえなかった。
列になって並ぶなんてあり得ない長野市民をこんなにトリコにした、やっぱり天下のIBMだった。

98/2/20 MEDALS

2008-02-20 00:20:20 | Weblog
表彰式会場では、木曽伝統の漆塗りのメダルが用意された。
厳重に厳重に管理されていたので、もちろん手にとって見たり勝者のようにかじる真似などしてはいけない。 が、目に焼き付けることはできた。たまたま、事務局で点検中に居合わせたので、写真だけ撮らせていただいた。
これらは、われわれの中でも、もっとも細かい作業にうるさくてきちんとしていてミスなど犯せば泣いてしまうような人物がふさわしいと考えて慎重に人選した。
その結果満場一致で A先輩に決まった。
感激屋のA先輩は、日本がメダルを獲得すると、ぽろぽろと涙を流しながらメダルの準備をして、日本国歌が流れて国旗が掲揚されるとまた大泣きしていたとのことだ。
人選は間違っていなかった。

また、国旗を掲げたのは長野のボーイスカウトの諸君である。
どんな大雪でも大雨でも、連日整然と、黙々と段取りのリハーサルを欠かさなかった。
そのおかげで、完璧な、美しい掲揚が行われたのだ。
それぞれ長さの違う国歌にあわせて掲揚を始め、音楽終了と当時に旗がポールの最上段まで上り詰める。
小中学生・高校生たちの気迫のこもった、すごい職人芸であった。

98/2/19おそろいユニフォーム

2008-02-19 02:13:08 | Weblog
長野青年会議所のオリンピック対策用特設事務局で、真剣に(?)議論している場面である。
とても厳重な警備体制をひいている表彰式会場だが、設営側の自分たちから見れば弱点がよく見えた。
というより、ぼこぼこと大穴が空いていることに気づいていた。
というのも、長野青年会議所および、長野ブロック協議会はこの2年前の1996年に全国のJCメンバー1万人を長野に集めて青年会議所の全国会員大会を主管した経験があったからだ。
だから、1997年の暮れにやっと秘密が解かれて日の目を見たオリンピック組織委員会(NAOC)の企画書を見たとたんに、その企画書から30人の理事が全員違った部分についての運営上の手落ちについて厳しい指摘をすることができた。
導線の交錯・連絡網の不連続・人員配置のアンバランス・スケジュールの不整合・・・・・・
これらは、すべからくNAOCに対して改善要望として指摘した。最初は鼻にもかけてもらえず、というより嫌われ者のJCであったが、すぐにこちらの精度の高さと組織力を証明することとなり、最終的には「あの成功はJCのおかげでした」とまで言われるようになった。
でも、プロの国際犯罪者が見れば砂上の楼閣のような会場だったからいつ危険な場面に直面してもおかしくはなかった。
この写真のミーティングでは「もし期間中に事故が起きた場合は私を先頭に責任の所在をはっきりさせたい」というところから始めたのだった。

98/2/19聖火を見に行く。

2008-02-19 01:56:12 | Weblog
連日の表彰式会場の業務は、午前の11時頃から始まる。
各会場で行われている競技の進捗状況を把握して、その日の会場の混雑を予測する。
その後、ミーティングにて予定を確認する。
午後は表彰式会場視察と点検。および、付近で行われている文化プログラムの点検と挨拶回り。
競技が終了して、入賞者が確定すると俄然忙しくなる。
1~3位の選手分のメダルの用意と、掲揚する旗や演奏する曲目の準備。
遠方の会場からこちらへやってくる選手たちの誘導と受け入れ準備。
日がかげってくる頃、会場にはもう観客があふれているからその警備と交通整理。
表彰式リハーサルと、本番の手配。
10時を過ぎて、世界へ配信する映像が終了すると、片付けおよび反省会と翌日のブリーフィング。
その後、文化プログラムを手伝ってくれた北陸信越地区・長野ブロックのJCの方々の終礼に駆けつけて、御礼の挨拶と記念品のプレゼント。
毎日、終了は12時頃である。

ほとほと疲れて、でもこの19日はいつもより早く終了したので、大急ぎで妻を誘って車で40分ほど走った所にあるオリンピックスタジアムの聖火を見に行った。
もちろん遠巻きに見るしかなかったけれど、世界で一番輝かしい炎だった。

98/2/18とにかく熱狂的

2008-02-18 20:03:14 | Weblog
17日に日本男子の日の丸飛行隊が、ジャンプで金メダルを取ってから、さらにオリンピックは盛り上がった。
表彰式会場で原田選手はじめとする皆さんが映し出されてから、この会場周辺は連日大変なにぎわいであった。
なにしろ、世界最高のアスリートを直に見ることが出来るのだから。

この写真は、18日にフリースタイルで優勝した男女を表彰しているときの会場である。
残念ながらこの日は日本勢の表彰がなかった。
それにもかかわらず、ものすごい熱気であった。

裏話であるが、表彰する選手のバックにかかる音楽や旗を「国旗」「国歌」とアナウンスするか「選手団の旗」「選手団の歌」とするかで、大もめにもめた。「そんなアナウンスをするくらいならやめさせてもらう」と言って席を立ってしまったある国の放送担当者もいた(らしい)。
結構繊細な問題だった。