奥様は海外添乗員〜メモリアル

添乗後記~故郷を離れパリの街で何を思う

    

パリの街を訪れた人なら必ずやって来る、あるいは通りかかるであろう場所がここコンコルド広場。フランス革命の折にはギロチン台が置かれ、ルイ16世やマリーアントワネットが露と消えた場所であることはご存知の通り。それでも現在は中央に立つオベリスクを中心に水しぶきを上げてる噴水を取り巻く広場は観光客が後を絶たないスポットだ。ところでこの広場に立ってるオベリスク、みなさんはどうご覧になるだろうか。えっ、気にしたことがない?まぁ、それも仕方のないところ。なにしろこの広場まで来るとそのすぐ奥にエッフェル塔やら凱旋門やらが視界に入ってくるし。それはさておき、パリでは必ず「エジプトから贈られた」と紹介される(エジプトのガイドは「奪われた」と言うが)このオベリスクが今回の話の主役。はい、勘のいい方ならお解かりでしょう。実はこれ、私がこの10月に訪れたルクソールから海を越えてはるばるやって来たもの。

          

そもそもこのオベリスク、古代エジプトで多く製作され神殿に飾られたモニュメントの一種で、側面には王の名や神々への賛辞が描かれている。これが古代ローマ時代以降戦勝品として略奪の対象となることが多く、実際その多くがエジプトから持ち出され現在でも世界各国(特に多いのはイタリアでなんと13本!)に散らばっている。もっともこういった類のものはオベリスクに限られたわけでもないんだけど。

    

ただしここパリのオベリスクは19世紀に「エジプト総督ムハンマド・アリからフランス国王ルイ・フィリップに贈られたもの」というのが定説。1831年、当時のフランス国王シャルル10世のもとで海軍技官ルーバという人物がムハンマド・アリからルクソール神殿正門に立つオベリスクのうちの1本を貰い受ける話を正式にまとめ、実際の運搬、再建まで関わったとのこと。いや、それにしてもこれだけ大きなオベリスクをエジプトからよくぞここまで運ぼうと思ったもんだと感心するというか呆れるというか。

          

ちなみにその過程を追ってみると…1831年10月から1ヶ月近くかけて現地での取り外し作業が行われた後、1832年8月にはいよいよルクソール号という運搬船に乗せられナイルを下ってアレキサンドリアへ。そして地中海から大西洋、さらに英仏海峡へと渡りセーヌの岸へたどり着いたのが1833年12月。その後の陸揚げ作業とこの広場への再建作業には相当時間がかかったのか(あるいは途中で作業が中断したのか?)、最終的にここにこのような晴れがましいその姿を見せたのは1836年10月のこと。なおこの際の作業の様子がオベリスクの下部に描かれてるのでパリへお越しの際はのぞいて見てね。

          

そんなわけで3,300年前にラムセス二世によって造られた高さ約23m、重さ約227t(文献により異なる)のオベリスクは現在華の都パリのど真ん中に建っている。ところでこのオベリスクがここパリへやって来るそもそものきっかけを作ったのはやはり18世紀も終盤のナポレオンのエジプト遠征か。でも前述したように彼が力づくで奪い取ったというのは誤り。むしろナポレオン率いるエジプト調査団が発見したロゼッタ・ストーン、これを「エジプト学の父」シャンポリオンが解読に成功し、さらにヒエロ・グリフの解読が進みエジプト学に大いなる功績を残したというのが事実だろう。もっとも、これが果たしてオベリスクのパリお越し入れに関わっているのか否かは謎だけど。ところで対で立っていたオベリスクのカタワレを失ったルクソール神殿は確かに淋しそう。画家でありエジプト研究家でもあるレスリー・グリーナーはこの様子を見て「堂々たる塔門は一本の牙を失ったゾウのような淋しい様相を呈している」とコメント。はたして当のオベリスクはどう思っているのか…


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