時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

変なブログ(3)

2006年09月23日 | 雑記帳の欄外

  ブログという得体の知れないものを始めてから、自分はなにをしているのだろうかと思うことがある。今ごろ、どうして妄言を書いているのかと。 

  このところ何人かの友人、知人が突然、世を去られてしまった。特に一緒に仕事をしたり、懇親の時を共有した人々の場合は衝撃が大きい。(「世間」は狭く、担任の教師まで同じであることが分かった)西洋中世史のA先生も、少し前にお会いした時、そろそろ店じまいを考えているとのお話をうかがい、まさかと思ったが、本当になってしまった。ただご冥福を祈るばかりである。

  愚鈍に生き残っている自分に改めて気づく。ブログなど書いている暇があったら身辺整理でもしたらと思わないわけではない。ただ、始めるまでは気づかなかったが、ブログというメディアには、これまで過ごした人生の記憶の断片収集や接着作業のような役割を果たしてくれる面もある。

  大体、1-2行のメモから書き始めると、とめどなく広がってしまいそうな場合が多い。記憶の仕組みの不思議さに改めて気づく。友人からは「長いなあ」といわれることもある。テーマもばらばらで「ひとりで書いているの」と疑われることもある。世のブログと比べると、冗漫で現代のスピードにも合っていない。
  
  ブログの長所、短所も分かってきた。この記事に書いているようなことは、ブログのようなメディアには向いていないと思うことが多い。パッチワークのようになって、収まりが悪い。時の経過と蓄積の効果に助けられて、多少熟するのを待つしかない。

  しかし、以前の堅苦しいホームページに戻る気もない。思いついた時に書き込めるという自由度はあるが、短かすぎればなんのことか理解できないし、長くなれば読む人に負担になってしまう。結果として、多くの記事は中途半端である。わざわざ読んでくださる方には不要な細事まで書き込んでいることもある。

  多少の効用があるとすれば、書いている間に新たな知識を得たり発想が生まれ、連鎖の糸のように拡大し、自分でも驚くことがある。この柔軟さと拡張の可能性は、インターネットの大きな恩恵であることは間違いない。

   こんなことを考えながら、この「変なブログ」はなんとか続いているが、いつまで続くのか、自分でもまったく分からない。 

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