時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

江戸の女性弦楽三重奏

2018年03月11日 | 午後のティールーム


葛飾応為
『三曲合奏図』”Pictorial evidence for sankyoku gassou”
ca.1844-1856絹本著色、1幅、46.5x67.5cm, Museum of Fine Arts, Boston, William Sturgis Bidelow collection.

3人の女性が三味線、胡弓(尺八の代わり)を合奏する画題で、女性の配置の構図、色彩ともに素晴らしく、応為の画家としての力量を思わせる。


映画は別として、TVで連続物や長編ドラマを見ることは、ほとんどないのだが、『眩〜北斎の娘〜』(くらら〜 ほくさいのむすめ〜)は、葛飾北斎への関心とのつながりで、なんとなく見てしまった。女流作家、朝井まかてによる歴史小説が元になり葛飾北斎の娘で天才女絵師・葛飾応為の知られざる生涯を描いた作品のテレビドラマ化であるとのこと。

筆者の古いTV画面でも画像は大変美しく、ストーリーを楽しむことができた。葛飾北斎の娘で「江戸のレンブラント」とも称される天才女絵師・葛飾応為の知られざる生涯を描いた佳作である。

実は、ラ・トゥールほどのフリークではないが、北斎については、比較的以前から機会があれば追いかけてきた。番組は葛飾北斎の娘(異論もあるが三女と推定)で、天才女絵師・葛飾応為(お栄、応為)の知られざる生涯を描いた作品だ

応為は北斎と後妻の間に生まれた子供たちの三女であった。北斎と後妻(こと)との間に出来た子供たちについて判明していることがいくつかある。次男・多吉郎(崎十郎)は本郷竹町の商人勘助に養わせている。その後、多吉郎は御家人の加瀬家に養子に入り、多知という女子が誕生、この多知は臼井家に嫁いで二人の男子を産み、次男の昶次郎は加瀬家の養子に入り家督を継いでいる。

四女のお猶は早世、三女のお阿栄がよく知られる葛飾応為(生没年不明、応為は画号)で、阿栄は堤派の絵師・南沢等明と結婚するも、夫の絵が自分より下手だといつも馬鹿にし、これが原因で夫婦仲も良くなく、離別して父のもとに帰り一緒に暮らし、再婚もせず晩年およそ20年近くにわたり父の世話をしながら代筆もやり、美人画については北斎を超える腕前とされ、江戸後期を代表する女絵師の一人に数えられている。

阿栄は父の死にショックを受け、その後は門人や親戚縁者のもとを転々とするものの、突然消息を絶ってしまった。加賀前田家に扶持されて、金沢で没したとの説もあるが、今の段階では真偽不明になっている。慶応年間に没したとの推定もある。現存する作品も10点前後と少ない。北斎の作品とされていながら、実際は応為あるいは父親との共同制作がかなり含まれるとの推定もある。

応為の手になると確定しうる作品数が少ないのが残念だが、継承された作品から見る限り、父北斎の血筋を引き、画才の点でも構図、色彩の選択など、この時代の画家として突出していた女流画家であることが伝わってくる。

 

葛飾北斎の先妻との関係:北斎には先妻に一男二女、後妻(こと)にも一男二女いたといわれる。ただ北斎は自由奔放な生涯を送っているので、家族についても不明なことが多い。先妻との子供の内、長女の美与は、門人の柳川重信と結婚、男子を産むが、離婚して父のもとに戻って若くして死亡。残された孫(名は不詳)は手に負えぬ放蕩者となり、祖父である北斎を悩ませることになるが、その後は不明。長男の富之助は、北斎の実父と考えられる公儀御用鏡師・中島伊勢(北斎の叔父とも、父方は川村氏という)家を継がせるも早世し、次女のお鉄も早世した。

 

葛飾応為は、「江戸のレンブラント」と言われることもあるようだが、実はレンブランドの娘も画家として放逸、貧窮の生活を過ごした晩年の父を助けて画家となった娘があったことが小説化されている。このブログで小説化された『バタヴィアへ行った画家の娘 』を紹介している。画家であった父親の死後、画業を継承した娘の事例は他にもあり、いずれ紹介してみたい

 

Reference:

HOKUSAI: BEYOND THE GREAT WAVE, EDITED BY TIMOTHY CLARK, Thames & Hudson, The British museum, Reprinted 2017.

HOKUSAI AND JAPONISME: 北斎とジャポニズム、国立西洋美術館、2017.

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