昨年10月に大津市の公立中2年の男子生徒(13)が自殺した事件について、学校、教育委員会の対応に対して、
とうとう、子どもたちが怒りの声を上げました。
報道限りの情報ですが
大津市教育委員会は、直後に行った校内のアンケートに、多くの生徒から
「(男子生徒が)自殺の練習をさせられていた」とするアンケート結果がでていたにもかかわらず
これを隠していたということです。
TBSの報道では、映像をぼやかした何人かの子どもたちから
「蜂の死骸を食べさせられそうになっていた」
「トイレに連れ込まれて殴られていた」
「ハチマキで手を縛られて椅子に後ろ手に縛られ殴られていた」
という発言や
また、「学校は隠してばかりだ」「学校に口止めされた」
というような言葉までがでていました。
これまで、子どもたちは、話してはいけないと学校から口止めされたことには
尋ねられても口を閉ざしていたことがほとんどでした。
でも、いじめ自殺の問題に関わるときに、周りにいた子どもたちに話を聞くと、みんな見ているのです。
そして、そのことを先生たちが知っていたり、先生に訴えたりしていることも多いのです。
でも、学校も教育委員会もこれをいつも隠しました。
そのようなことに出会った子どもたちは、信頼している教師、大人に対して大きな不信感を持ちます。
これは、実はかなり根深いもので、事件から数年たっても子どもたちは忘れていません。
それどころか、当時は情景しか認識できていなかった記憶について、その意味が分かるようになってきます。
当時、自分が見ていた光景は、陰湿なイジメだったり、耐えきれずにじっと下を向いてやり過ごすしかなかった
友だちの表情だったり、あるいは当然気づくはずの先生の立ち位置だったり。
子どもたちに聴き取りをすると、時間が経つにつれてそのことを深く語ってくれたり、
その思いを忘れたことはない、語る子もいます。
もっと、真実を知らせてほしかった、その事件の対処をしっかりしてほしかった、という思いになって残っています。
ところが、学校や教育委員会からは、
“残された子どもたちに配慮して”
そのことに触れないようにした、といういいわけさえも、よくされるのです。
これまでは、先生や学校などの言いつけにしたがってきていました。
話すなといわれれば、子どもたちはそれを守って、自分だけの問題だと思ってきました。
でも、とうとう、子どもたちが不信感を口にしてしまいました。
これを聞いた子どもたちは、自分ひとりがそういう体験をしているのではないのだ、
声に出してもいいのだ、と気づいてしまったはずです。
そうしなければ教育現場の大人たちは無視し続けようとするのだ、と気づいてしまったのです。
一番大切にし、気遣わなければならなかった子どもたちを、
「子どもなんて口を封じるくらい訳ない」あるいは、その存在さえも気に留めてこなかった
教育現場が、目撃証人たちに「もう信じられない」と気づかせてしまったということです。
今、大人にできることは徹底して「子どもの視点に立つ」ことではないでしょうか。
とうとう、子どもたちが怒りの声を上げました。
報道限りの情報ですが
大津市教育委員会は、直後に行った校内のアンケートに、多くの生徒から
「(男子生徒が)自殺の練習をさせられていた」とするアンケート結果がでていたにもかかわらず
これを隠していたということです。
TBSの報道では、映像をぼやかした何人かの子どもたちから
「蜂の死骸を食べさせられそうになっていた」
「トイレに連れ込まれて殴られていた」
「ハチマキで手を縛られて椅子に後ろ手に縛られ殴られていた」
という発言や
また、「学校は隠してばかりだ」「学校に口止めされた」
というような言葉までがでていました。
これまで、子どもたちは、話してはいけないと学校から口止めされたことには
尋ねられても口を閉ざしていたことがほとんどでした。
でも、いじめ自殺の問題に関わるときに、周りにいた子どもたちに話を聞くと、みんな見ているのです。
そして、そのことを先生たちが知っていたり、先生に訴えたりしていることも多いのです。
でも、学校も教育委員会もこれをいつも隠しました。
そのようなことに出会った子どもたちは、信頼している教師、大人に対して大きな不信感を持ちます。
これは、実はかなり根深いもので、事件から数年たっても子どもたちは忘れていません。
それどころか、当時は情景しか認識できていなかった記憶について、その意味が分かるようになってきます。
当時、自分が見ていた光景は、陰湿なイジメだったり、耐えきれずにじっと下を向いてやり過ごすしかなかった
友だちの表情だったり、あるいは当然気づくはずの先生の立ち位置だったり。
子どもたちに聴き取りをすると、時間が経つにつれてそのことを深く語ってくれたり、
その思いを忘れたことはない、語る子もいます。
もっと、真実を知らせてほしかった、その事件の対処をしっかりしてほしかった、という思いになって残っています。
ところが、学校や教育委員会からは、
“残された子どもたちに配慮して”
そのことに触れないようにした、といういいわけさえも、よくされるのです。
これまでは、先生や学校などの言いつけにしたがってきていました。
話すなといわれれば、子どもたちはそれを守って、自分だけの問題だと思ってきました。
でも、とうとう、子どもたちが不信感を口にしてしまいました。
これを聞いた子どもたちは、自分ひとりがそういう体験をしているのではないのだ、
声に出してもいいのだ、と気づいてしまったはずです。
そうしなければ教育現場の大人たちは無視し続けようとするのだ、と気づいてしまったのです。
一番大切にし、気遣わなければならなかった子どもたちを、
「子どもなんて口を封じるくらい訳ない」あるいは、その存在さえも気に留めてこなかった
教育現場が、目撃証人たちに「もう信じられない」と気づかせてしまったということです。
今、大人にできることは徹底して「子どもの視点に立つ」ことではないでしょうか。
おはようございます。
このところ、少年による、凶悪な犯罪や陰湿な犯罪が目立ちます。
これは極論ですが、私は、例え、生まれたての赤ちゃんであろうが、もうすぐ冥土へ旅立たれるようなお年寄りであろうが、犯した罪に対して受ける罰は、同じでなければいけないと思います。それが、真の「法の下の平等」だと考えます。
ですから、少年だからと言って「更正の機会が望めるから」と言って、住所や氏名を隠し、刑罰を軽くするのは、「法の下の平等」の精神に反していると思います。「更正の機会」は、少年にだけではなく、全ての犯罪者にあります。それが「法の下の平等」です。
加害者にも人権があります。同様に被害者にも人権があります。被害者の住所や氏名を報道するのであれば、加害者の住所や氏名も等しく報道すべきです。
ですから、私は、少年法などという、犯罪を犯した者を庇い、被害者に対して「死人に鞭打つ」ような、被害者の人権を著しく蹂躙する「少年法」のような、被害者人権を侵害する法律は、即刻廃止すべきだと考えています。
杉浦先生は、どう思いますか?
こう考えたときに、加害者をどう処遇したら、社会にとってベターな存在にできるか(この発想は、逆に大きな人権侵害とも考えられますが)。日本の少年法が一定の成果を上げているといわれ、厳罰化の道を選んだアメリカが成功していないといわれることなど、感情論とは別に考えなければいけないのだと思っています。
こんにちは。
私は、感情論で、「少年法なんて要らない」と言っているわけではないのです。繰り返しになりますが、私は、例え、生まれたての赤ちゃんであろうが、もうすぐ冥土へ旅立たれるようなお年寄りであろうが、犯した罪に対して受ける罰は、同じでなければいけないと考えています。それが、真の「法の下の平等」だと思います。
杉浦先生は「少年法」は上記の「法の下の平等」に反しているとは感じられませんか?
私は、少年にだけでなく、全ての犯罪者には、「更正の機会」があると考えています。だから、私は死刑制度には、断固として反対です。
少年にだけ「更正の機会があるから」として、犯罪事実(犯罪者の住所、氏名、顔写真)などを隠蔽し、刑罰を軽くするのは、「法の下の平等」に著しく反していると、杉浦先生は感じられませんか?
問題は、実質的に不平等かどうか、ということです。大人と子どもの違いに対して、扱いを変える必要性があるのか、必要性があるとして、その違いを設けることが相当かどうか、ということです。
教職員や市教委までグル、隠蔽に関与していたということで、もう保護されるべきではありません。
彼らにその権利はありません。