奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

ホハレ峠(3-3) 0802

2020-08-03 09:36:26 | 奥揖斐の歴史など
ホハレ峠(3-3)
2020年8月2日(日)No128
 最終回は、今から5年前、Iさんがホハレ峠~門入旧集落まで歩きながら話したことを写真とともに紹介します
(文章は長いです、気の短い人は、読まないでくださいね)

平成27(2015)年10 月12 日(日)ホハレ峠から門入
7:00 坂内道の駅にIさん含め9名集合(IさんはS10 年生れ、この時80 歳)

~道の駅からホハレ峠へ行く途中の正面の谷の杉林付近にて~
・坂内から歩いてホハレ峠へ向かう時、この杉を目印にした。そこ(杉林)からホハレ峠(今の林道ではなく杉林から小尾根伝いに峠へ向かう)までが一番急勾配でキツイ難所であった。中間の極楽寺の平地で行き帰り休憩した

 車を止めて正面の谷の杉林付近を見る

8:00 ホハレ峠で安全祈祷を行い、御神酒を各自頂き、門入旧集落まで黒谷を下る
~峠でIさんの話を聴く~
・峠から下り口の右側(東側)に径20 ㎝程度のブナの木、左手側に径50 ㎝以上のブナの木あり
・40 年ほど前に左手側に径20 ㎝程度のブナの木があり、伐採夫に切らないように指示した。40 年ほど前は右のような小さい木(径20 ㎝)だったが、今は左側(径50 ㎝以上)のように大きく育った
・ブナは風通しの良い、水気のない、日当たりの良いところに育つ
・セタ(背負子):材料はヒノキ、荷杖もヒノキ、セタの底の部分は休憩時荷杖で支えるので栗の木であった。荷の栃板は一枚10 貫、二枚で20 貫(約75 ㎏)
の重さであった。ボッカ(荷物を運ぶ人夫)は一枚いくらではなく、一才(才=厚さ1寸、長さ6尺2寸、幅1尺2寸前後)いくらで請け負った
(1才は鋸の歯分、鉋の削りで八分厚の仕上げとなった)
・門入から川上へ行くときは70 ~ 80 ㎏の荷、帰るときは50 ~ 60 ㎏の荷を持って帰った
・林業でブナなどを搬送するワイヤーを運ぶ時は、ワイヤーを切らずに1人分ずつ巻いて順番に並んで運んだ。休む時も順番に並んで休んだ
・ボッカの賃金は他の一般的な仕事の2倍くらいになった。〔昭和初期、普通の賃金が1 円未満というような時、日当が1 円30 銭くらいで賃金としては良かった[徳山ダムの記録 p129]

~ホハレ峠から黒谷を下り始めての話~
・この一帯は昔炭焼きの人が沢山いた。土地(徳山)の人ではなく、よその集落、坂内などや江州の人達であった。木挽き職人は技術者であったので、賃金はボッカの2倍位になった。銘木の目利き(木の医者)、見極めが必要だったからだ
・また、キジヤダイラという平地があり、木地屋の作業場があった

 キジヤ平=ホハレ峠から下って約20分くらいの川を数回横切るところの平地

・馬坂峠[本郷から旧根尾村樽見へ抜ける峠]は霧が多く、夜は歩けないほど見通しが悪かった。ホハレ峠も夜は霧が濃い
・門入には勇敢な美人娘がおり、門入から1人でホハレ峠へ歩いて登っていたところ、峠で商人と会い襲われかけた。そのとき娘は男根をねじ切ろうとして無事だった
・この辺はツグミ(食用の鳥)が沢山獲れた。昔、他所の人が霞み網で一朝に3千羽ほど獲り、(目的が達 成し)直ぐに鳥屋を閉めて帰った。監視も厳しかった
・ホハレ峠は生活道路として、毎日往来があった。江州から衣類関係の行商人、越前からは魚、肉、漆、刃物商人などが入ってきた(行商人は門入や戸入の旅館に泊まった)
・冬期でも親戚関係の冠婚葬祭などではホハレ峠を利用していた
・木地職人は、越前の人が小屋を作ってトチの木やケヤキの木を材料として加工していた

~門入の昔話など~
・道普請:昔、村(門入)の慣習で年2回、1回目は5月、ツルハシを持ってホハレ峠への歩道の補修に出かけた。年寄りなどで参加できない者を除き皆(30人くらい)参加した
・8月は道の草刈りがあった。魚を捕る名人が3~4人別行動し、昼休みにはイワナを焼いて出してくれた。そのくらい、この谷にはイワナが沢山いたが今はいなくなった。違法な捕獲法[バッテリー、塩素(サラシコ)使用など]による乱獲でほとんどいなくなった
・滝下で魚を捕り、その魚を滝の上で放流して生息域を増やしたりした
・雪の事故
親戚の用事で帰りに真冬のホハレ峠を越えて村の近くまで来て力尽きた人があった。〔行きは複数人で行っても目的が違えば帰りは一人で行動することがあり、事故に繋がる。そのため坂内には川上からホハレ峠まで送る専門の職業があった
・栃の実は、区長が取っていいよと触れが回ってからでないと採れない。例年、大体9月10日前後に採ってよいことになる。実は長期保存ができ、5年も10 年も食べられた
・ツセ(屋根裏)にすだれを編んで、その上に栃の実を保存した。保存しておいたのを皮を剥いで灰で煮る。灰汁をとる。→ 1週間水に晒す
・栃餅:米一升に栃の実一升を蒸らして杵でつく
・餅菓子(ホチモチ):米と栃の実に砂糖を混ぜ焚いて乾燥する。子供のおやつ
・栃コロ:米一升と栃の実二升を煮て、すりこぎでつく。棒状に仕上げて輪切りにして食べた。栃の実は米の代用食だった
・トウキチ菜:栃の木の下に多く生えている。徳山では木の下に生えるから、(木下)トウキチロウと呼んだ。菜は、おひたしが美味しい。10 ㎝の高さまでが美味しい。一般名はシズク菜

 トウキチロー:木の下に生える=木下藤吉郎

・ホトロ(シダの一種)クド葉。トイレットペーパーの代わり。葉を乾燥させて紙として使った。乾燥しすぎると夜露にあて、肌ざわりを良くした

 ホトロ 9:10撮影

・フキの葉も葉が付いたまま採集して持ち帰り、少し乾燥させて裏の方でお尻を拭いた。門入の家の軒先にはフキは軸を少し着けて束ねて下げてあった
・門入は葉があるだけましで、余所は長い縄で拭いていたと親父に聞いた
・水菜:お盆の頃まで食べられる。身欠きニシンと煮ると美味しい
・この辺(一里ヤスマ手前付近)では良いワサビが採れた。軸が美味しい。長野から買いに来た。皆でワサビの茎を採り、束にして売った。当然、根は何倍も高く売れた
・イラ:麻の代わり。繊維にし、衣類にした
・シナの木、6~7月、10 ㎝以下の木を皮をとって1~2mの長さに切り、水に浸して1ヶ月。余分な皮を腐らせて、手で裂いて繊維にした。これは衣類には用いなかった。藁細工に使った
 
 シナの木 9:09撮影

・アザミ、フナリ、ななめ草:肥料として使用。ななめ草の皮は戦争の時に乾燥したものを強制的に供出させられた
・せと:キジヤ平(キジヤダイラ)~一里休場(イチリヤスマ)の間の黒谷左右両岸。熊の通り道。秋、落葉するころになると5回のうち、3回は熊を見た。熊は人を恐がらなかった
・フナリの根:春に掘って根を食べる熊の好物。フナリがあると、熊が居そうで、避けて通った
・春に生える「ウド」、「トウキチ菜」、「アザミ」は品質が良かった

~水のない谷を通過~ 8:49
・この谷(左岸枝谷)は、通年水がない(涸れている)
・その次の谷(左岸)、この谷は、通年水があり冷たい。上流に登って調べたら、斜面から何カ所か水が吹き出ていた。だから通年冷たい、量も変わらない。岩盤は石灰岩ではないかと思っている

  一里休場(イチリヤスマ)の岩 9:01、イチリヤスマは門入から歩いて約1里の休み場所

・左岸側の道は、庭師が石を取るために道を造った。王子製紙の道は右岸に渡ってから分岐していた
・ナカマタ(左岸) 中又、3つの谷の中になる谷。アラシ(焼畑)や山畑があった。谷にはイワナがいる。30 ~ 40 ㎝のものも。ワサビあり。上流左手に焼畑があった。移転する前まで、中又谷土倉谷の合流地点にサワクルミの大樹(径90 ~ 100 ㎝)があった
・サワクルミの木、神様の木。木地屋さんは信仰心が強い、木地屋さんが神様とあがめたサワクルミ(神木)が40 数年前まであった
・ツチクラ(左岸)、魚がいた。漁法は釣りと網。魚は背びれをさわると直ぐに逃げる。腹を触ると逃げない。箱めがねを使い、竹の先に針をつけた糸を結び魚がかかると針が竹から外れる仕掛けで、引っかけて採った
・銚子の谷(右岸)、黒谷3番目の谷。魚止の滝があって滝の形が銚子に似ていることからその名がついた
・たか洞(左岸)、焼畑があり、なだれ(5 ~ 6 月)の後、ワラビが採れる。ホハレ峠から門入の間で一番なだれが起きるところ。5月末でも雪橋(なだれが川を塞ぎ、その雪の高さが)4mある時も

 9:46 たか洞

・たか洞は、なだれが対岸にぶつかり、右岸側にはたか洞、木が生えていない(9:46写真)、
雪崩が川をせき止める。なだれが谷川の石を対岸に押し上げる。高いときは50 mも押し上げる
・冷や水(左岸):冷たい水が流れ出る谷。門入で一番冷たい湧き水。きれいな水。水源は数十m上の斜面。子供の頃、弁当箱に水を入れ、ひっくり返して真空状態にし、お母さんに持って帰った

 タラタラ(右岸) タラタラ付近から下流側を見る10:12

 ホハレ峠と門入の間の黒谷で、唯一丸太の一本橋があった。木の生えていないところに水がたらたらと流れていたところ(地名:p243-19)
・Iさんが17 ~ 18 歳のころ、出水の際に渡った兄弟が丸太橋の根元が洗われて丸太がくるりと横転して落水した。弟はなんとか泳いで岸に着いて助かったが30 代の兄は流されて亡くなった。遺体は戸入近くまで流されていた
・小飛倉(コビクラ)の谷(右岸):300 メートル程奥にきれいな滝がある。測ったことはないが30 メートルくらいの高さ
・黒谷で一番大きい堰堤(S44 年完成:写真11:08)、川の流れが変わっている(地形が変わっている)
・ウロ谷(左岸)、尾根上に船[三角点「船ヶ丸」959.7m]、私は森林業者と谷から登ったことがある。ホハレ峠から戸粕[北西尾根上の三角点名「戸粕」1076.8m]経由で北東へ下るか、門入集落からだと望郷広場の前の西谷川を渡り尾根に取り付き南西へ登る。途中とても急な坂が一部あった。雪のある時期に登った
・ウロ谷付近で、いつも巾着にたくさん金を入れていた越前の商人が流された。村中巾着目当てに商人を捜したが1軒だけ探さない、仲間に入らない村人がいた。数年後、春に切ったツダ(たき木:春に切るから春木ともいう)を冬前に村に流した(春木のツダ流しという)が、その流す時に仲間に入らなかった村人が巾着を見つけた。仲間に入らなかった(正直)者に縁があったと村人は話した
・オギンコロビ(おぎん転び)、おぎんという人が生活のため栃板をボッカして運ぶ途中足を滑らせたところ
・コウジヤスマ(工事休場)右岸、村の普請やボッカの人がここで集まり、相談してから仕事にかかった。門入からホハレ峠へ行くときに初めて荷を下ろしたところ。ボッカの段取り、準備とか、普請の相談をした
・馬坂峠が通れない年があり、塚や櫨原で伐採した木材もホハレ峠から出した。ダム(小飛倉谷下流の堰堤)工事の時はホハレの道を10 ㌧トラックが走った。道の修理費の賦課として(王子製紙が)使用料を取った
[ 櫨原のSさんは、ホハレ林道(H20 年更新の国土地理院1/2.5 万地図にこの林道が載っている)をトラックで運転したことがあると言っていた]
・オトロ(左岸)、細くて急峻な小さな谷。赤土の畑でここのサツマイモは美味しい。小さい頃、学校へ行く前、お母さんと畑仕事について行った。オトロは、ツチノコが出るところで、蚊、ブトがいるので虫よけに布で藁と生草(カビ)を巻いたものに火をつけて煙を出し待ち構えた。笹の葉がガサガサと揺れたら母に教えろと言われ、見張り番をした覚えがある。オトロのサツマイモは特に美味しく、上等のお客さんに出した
・イヌブセ(犬伏せ)、「船」に行く途中に焼畑があり、そこに登る坂は、犬でも腹ばいになって休むほどの急峻な道があった
・ハヤタニ(右岸)、門入には田が多かった。早谷の近くには田が多くあった

 早谷の橋11:08

・カヤタテ(茅立て)、早谷の門入集落の手前付近には田んぼがあった。現在植林された杉のところにススキが多く生えていた
・田んぼは個人所有だけど、あとは共有山林。門入は個人所有の山は少なかった

【門入手前】
・西谷川にニゴイ、ウグイが増えた。栗の木に熊が出る。
・共有山林、ミョウガが生えていた。木地師が苗の根付けをしたようだ
・ここ(門入集落手前・黒谷右岸)から小さな山を越えて西谷川右岸のコムラ(小村に出た。黒谷の川沿いは雪崩があったりして危険であった
・門入大橋が架かる前には長い丸太の一本橋が架かっていて、よそから来た人は渡る際にはすくんで、丸太にしがみつくようにして渡った
・小村には今井源次郎という弓の名人がいた。(地名 p259)
・ヒッカクレ(日隠)、この場所は直角に曲がっており、出征兵士や口減らしのため紡績工場などへ出稼ぎに行く娘達を、見送りしていると急に人影が見えなくなり、名残惜しさが尽きないところ。村民はここまで、親戚は工事休場やホハレ峠まで、本人の家族は隣村の川上まで送った

~村内の慣習など~
・今の望郷広場、昔、お宮があったところの、八幡神社のお宮の下の川を、お宮の下だから、「宮の下」
・西谷川と黒谷の合流付近の川を「じよもの川」、門入大橋のある辺りの川を「じんだの川」
※ 門入の家には各屋号があり、じよも、じんだはその家の屋号、じよもの川は、じよもの
家から降りた川付近の意味
・集落から下流側のお墓のある辺り(門入集落の下にある巻きの淵)の川を「どろまき」と呼ぶ。下着やおむつは「どろまき」で洗った
・昔、門入の村にお風呂のある家は少なく、夏場は川で行水、冬は月に2~3回風呂を沸かした。今日はうちの家で風呂をわかしたぞ、と触れて回ると15 ~ 20人が入浴しにきた。親戚や近所の人に先に入浴してもらうと湯が汚れきってしまって、家人のために夜になって再度風呂を沸かすこともあった
・宮の下では、行水はできなかった。暗くなるとじよもの川、じんだの川で隠れて行水した
 11:58 I山荘に着く(3-2参照)
・おしお山(地名 p233-16 ではウシオ)、昔、山手地区へ街道が通じていて、牛の通行もあった。坂を牛が登らないので牛のお尻を後ろから押したので、おしお(牛尾)山と言った[「牛尾」(690.8m)という三角点がある]。山手とは、結婚など交流があった
・止山(留山)、なだれ防止のため、木を切らないように申し合わせたところで、今でもりっぱなブナ林が残っている
・昔、門入の半分以上の家には小便場がなかった。家周りの畑の隅とか軒下、畦などでしていた
・Iさんが小学生の夏、ボッカで「甥」を負ぶってホハレ峠を越えて川上(坂内村川上)まで連れて行った。甥が背で小便をしたことも気づかず到着したころには自分の背中がただれていた。しかし駄賃に塗り絵や貼り絵を買って貰えたのでつらくはなかった
〔坂内へ行ったのは、働く母が甥(赤子)に乳をあげるために連れていったもの。〕
・帰りは、甥をおぶっておらず単身で気楽に帰れた ・・・この稿、おわり


 黒谷(ホハレ峠から門入までの図)、詳しくは下絵(美濃徳山の地名p242から抜粋)を参照してください






 美濃徳山の地名の絵図は、1992年(平成9年)12月、水資源開発公団 徳山ダム建設所 監修から複写しました

その他参考
・Iさんはこのとき80 歳、ホハレ峠から門入間を1時間10 分で歩いた。私(山荘オーナー)はこの時63 才、単独で歩いても1時間20 分、Iさんは私より10 分早い

👂👂👂 目安箱
 今回のブログ「ホハレ峠」3-1、3-2、3-3に、ご意見などありましたら、下記へお願いします
 taketo.hunter-cub-ct110@docomo.ne.jp
(手数ですがアドレスをコピーしてメールお願いします)

 どうです、一度、ホハレ道歩いてみませんか、日帰りでしたら、案内します(ただし、土日以外で月、火曜がベター、四駆で来てください、5名様まで)

     最後まで読んでいいただき、ありがとう 奥揖斐山荘オーナー
 

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