奥井みさき、旅の記録と徒然日記

仕事の合間に旅行、旅行の合間に仕事。
フリーライター・奥井みさきの旅日記と、日々思うこと。
札幌からです。

関寛斎とは

2014-11-28 05:49:51 | 北海道の旅日記(道東)



関寛斎は幕末から明治期にかけて活躍した蘭方医。

1830年に今の千葉県東金市に生まれ、
佐倉順天堂(千葉県佐倉市・順天堂大学の前身)で蘭医学を学びます。

26歳で千葉県銚子市に開業、長崎遊学後徳島藩・蜂須賀家の典医を経て、
戊辰戦争では官軍の奥羽出張病院頭取として従軍し功績を挙げます。

この時は敵味方関係なく治療にあたり、
赤十字精神の先駆として西郷隆盛からも高く評価されたといいます。

「軍医総監男爵は造作もない」(徳富蘆花)という功績を挙げたにもかかわらず、
官職を捨て徳島で町医者として開業し30年余りにわたり地域医療につとめました。

当時徳島では「関大明神」と言われていたそうです。

1902年、なんと72歳で北海道開拓に向かい陸別町に入植。
四男・又一が札幌農学校を卒業後、1901年に陸別町に入植していた縁ですね。

そして82歳で服毒自殺するまでこの地で開拓と医療活動に従事しました。
関寛斎は陸別町の「関神社」に祀られています。

徳島で「大明神」、陸別では「神」だ。
そして陸別町の国保病院は“関寛斎診療所”と称されています。

いかに人望があったか、これでわかる。

これが略歴ですが、この間に様々な有名人と関わりがあります。

佐倉順天堂で師事した佐藤泰然は順天堂大学の基礎を作った方。
銚子開業時に長崎遊学の資金を出したのは、
「稲むらの火」のモデルになったヤマサ醤油の濱口梧陵。

その長崎で師事したオランダ海軍医・ポンペは長崎大医学部の前身となる病院を作り、
徳富蘆花や二宮尊徳の孫である二宮尊親とも親交がありました。

関寛斎は優れた医者であり慈善家だったといえます。
そして陸別町の開祖として敬愛されている。

そんな人物です。
コメント
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