風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

明治天皇東北御巡幸

2014-01-02 19:46:37 | 岩手・東北
 

明治天皇の東北御巡幸のことを考えていました。

明治天皇は明治5年から18年にかけて、ほぼ日本全国を御巡幸あそばされています。

わけても東北には二度。明治9年と14年の二度に渡っておいであそばされておられる。

御巡幸の御目的は、主に民心の掌握と産業奨励であったとされています。陛下はよく民衆の話を聞き、開拓地や新たな産業を興したところに赴かれ、奨励金を与え、人々を御はげましになられたとか。



明治新政府としては、富国強兵を進めるうえで産業の奨励は不可欠であり、また日本を本格的な中央集権国家とするためにも、民心の掌握は必要なことでした。

それには、天皇行幸以上の効果的な方法はなかったでしょう。

特に東北は戊辰戦争の記憶も生生しく、未だ新政府に反感をもつ輩も多いと聞く。武力で抑えるのは容易いがそれでは後々まで禍根が残る。

明治10年には西南戦争が勃発し、この影響を受けて東北でも再び反政府的な空気が勃興してきているという情報もあったようです。そのようなことから、二度に渡る天皇御巡幸が行われた、と見られます。



御巡幸の際の随行メンバーがまた凄い。皇族の二品・北白川宮能久親王。やはり皇族で左大臣・有栖川宮熾仁親王。
右大臣・岩倉具視。内閣顧問・木戸孝允。内務卿・大久保利通。参議・大隈重信その他その他総勢百四十八名。
その本気度が分かるというものです。

新政府の主要メンバーに、東北の実情をよく見知ってもらい、いかにして東北に産業を興すかを考えてもらう。

明治新政府は決して東北を見捨てていたわけではないんですね。広大な東北の大地と、そこに住む民衆の心を掌握し、国民一丸となって国のために働いてもらわなければ、日本を守れない。

その東北民衆の、というより日本人の心を一つに纏めることができるのは、ただ御一人。

天皇をおいて、他にはおられなかった。



当時はまだ鉄道も敷かれておらず、移動は大変だったと思われ、そのような中でも陛下は大変意欲的に御巡幸を進められたようです。

この御巡幸ですが、明治天皇の御意図の中には、民心掌握と産業奨励の外にも、別の御目的があったのではないか、と私は思っています。

それは、「霊的慰撫」ではなかったか。



大霊格者たる明治天皇が御巡幸されるだけで、土地土地の精霊や浮かばれぬ霊たちが慰撫され、昇華されて行く…特に東北はいにしえより中央との確執が多くあった土地です。それだけ念入りに御巡幸されねばならなかったのではないだろうか。それによって、霊的にも日本を一つに纏め上げる。そのための御巡幸であった…。

妄想です、妄想。



明治天皇は御巡幸の際、会津御城下に直接立ち寄られることはなかったようです。ただ猪苗代湖の疎水工事の視察ということで、有栖川宮熾仁親王を代行させておられます。

これをもって、明治天皇は会津が嫌いだったとか、そのような憶測を下すのは容易い。

しかし、そうなのでしょうか?というか、明治天皇とは、不敬ながら「その程度」の御方だったのでしょうか?

もとより御巡幸のルートを、天皇御一人で決められるわけもなく、そこには多くの人達の思惑が入り乱れていたことでしょう。陛下はあらゆる方面に気を配り、深い深い御英慮をもって、ルートを御了承なされたのでしょう。
その御英慮がどのようなものであったのか。そのようなことは、我ら臣民があれこれ忖度することではないと心得ます。そのような行為は寧ろ、陛下を貶める行為ともなりかねないことを知るべきです。

私にはただ、「信じている」としか言えない。国民の「父」たらんとした陛下を、ただ「信じる」としか。

私には言えない。




明治天皇は御巡幸の際、日光に立ち寄られ、中禅寺湖を「幸のみづうみ」と名付けられたとか。

後に日光東照宮の宮司となった元会津藩主・松平容保公は、中禅寺湖を詠んだ歌を残しています。


  「紅葉するあきのけしきはいかならむ さらてもあかぬ幸のみつうみ」




容保公の想いは、どのような境遇に陥ろうとも変わることがなかった。

一つの理想とすべき日本人像がここにある。

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4 コメント

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Unknown (玲ちゃん)
2014-01-02 23:49:33
容保公の歌はお人柄が現れているよう…。
私には戦で死ぬより生き残って、悔いながらも懸命に生きる方が大変なことに感じます。
新撰組の資料があまり残っていないのは、明治時代には「悪党」と言われて民衆に吹聴されていたり、物語として聞かされていたと何かで読みました。
そして私だったら、懸命に出来ることをしただけなのに逆賊と言われたら言い訳したくなったり、もう自分の人生終わり~と自暴自棄になるだろうと簡単に想像出来るので、生き残って淡々と生活した方々を尊敬します。
戦で亡くなった方々の想いを受け取りながら生きたんだろうな。
斎藤一も名前を変えるしかなかったんだろうな…。
民を想う天皇が会津を、東北を想わない訳がない!と私も思います。
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Unknown (薫風亭奥大道)
2014-01-03 07:43:24
玲ちゃんさん、懸命なる明治天皇が、わからないわけはないんです。そう信じてます。
容保公はひっそりと暮らしながら、皇室への想いは変わらず抱き続けている。切ないけど、なんか、綺麗だよね。
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春に寄せて (美樹枝)
2014-01-03 16:38:15
自室に天皇陛下、皇后陛下、の寄り添われておられる(新聞の切り抜きですが)小さい御写真を貼っています。横に可愛いので、くまモンのパッケージの切り抜き。窓のカ-テン近くに日章旗。 お正月三日間、日章旗飾ります(本当は玄関に掲げたいが家族が嫌がる…)。 不思議です。子どもの頃、身近な大人は天皇陛下を悪し様に言い、学校では日本の美しい唱歌は教科書を開いてもらえず、私は父母やピアノの上手い友達に、「君が代」「荒城の月」や「花」や「おぼろ月夜」「夏が来れば…」の歌を教わりました。国旗掲揚を嫌がる先生も居られた~。 美しい日本語の歌や美智子様が好きでした。少しだけ習った道徳が面白かった。 半世紀生かされて、自分に正直に生きられる…とは不思議で幸福なことですね。アノ世のむすこ達にも平安が伝わればいいな。      「絶対に不動の自分」貫かれた容保公。会津藩の人々。凄い御方々ですね。 畏れながら、このような家臣?を持たれた孝明天皇は御幸福な方です。いや日本人は本来そうなのかしらん。
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Unknown (薫風亭奥大道)
2014-01-03 22:13:40
美樹枝さん、孝明天皇と容保公は運命的な出会いだったと思います。このお二方の出会いは明らかに時代を動かしてます。その役割は悲劇的だったと言えるのだけれど、この両名の行動は維新のキッカケとなる役割を果たしています。もっと感謝されていい。
裏と表があっての歴史です。表だけでは、なんにもできない。そこがわかってない人が多いんですよ、まったく…おっと、これ以上は愚痴になるから止めときます(笑)
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