会津藩が朝敵などでないことは、多少の常識があれば誰の目にも明らかなことです。しかし薩長はこれを武力による社会変革の狼煙として、内外にそれとわかるように派手に打ち上げる必要があった。江戸城無血開城が成った以上、その狼煙となるのは会津以外に残っていなかった。
江戸城無血開城の際、「西郷隆盛は軟弱だ」と影口が叩かれたとか。つまり薩長側は血を欲していた。
会津藩を赦す気など、初めから一片も持ち合わせてはいなかったのです。
会津藩と共に、やはり討伐の対象になっていたのが、庄内藩でした。江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしたことから、その対象になってしまったわけですが、この庄内藩と会津藩がまず連携します。そこへ米沢藩が加勢し、これに仙台藩が関わる形で、奥羽越列藩同盟の母体が出来上がっていきます。米沢藩はかつて、お家取り潰しの危機に瀕した時、会津藩初代藩主・保科正之の口添えによって免れたことがあり、以来会津藩に恩義を感じていました。仙台藩は同じ東北の藩として、理不尽な仕打ちに会っている会津藩を、単純に助けたいと思った。そこには東北随一の雄藩としての、誇りと意地もあったでしょう。
さらに越後・長岡藩もこれに加わります。長岡藩は飢饉の折、会津藩の社倉米を分けてもらったことがあり、それ以来の恩義がありました。
つまり奥羽越列藩同盟の母体は、恩義と友情によって出来上がったといって良いのです。
薩長率いる新政府軍と同盟軍との本格的な衝突は、白河城攻防戦でした。
会津・仙台連合軍対新政府軍の戦いは、圧倒的な軍事力の差で、新政府軍が勝利します。最新式銃を備えた新政府軍と、武器調達が遅れ、ほとんどが火縄銃の同盟軍とでは、力の差が歴然としています。それに仙台軍と会津軍との連携も上手く行かず、指揮系統の統一もされていない。近代戦というものを経験したことがない同盟軍には、ほとんど勝てる術はなかったと言えます。
会津軍には元新撰組の斉藤一も参加しており、白河城に籠城せず、前にでるべきだと進言しますが、会津の総督・西郷頼母は頑として譲らず、それが結果的に敗北へと繋がります。
初戦の大敗北は、同盟内に大きな動揺を与えます。同盟に参加した諸藩の中には、断ることも出来ず仕方なく参加した藩も多く、彼らは最初から新政府軍に敵対することに消極的でした。この後も同盟軍は負け続け、徐々に裏切りに傾く藩が出始めます。
さて、仙台に軟禁されていた奥羽鎮撫総督・九条道孝ですが、仙台藩家老・但木土佐が、この総督をみすみす逃してしまう失態をやらかします。九条総督は、同盟側の言い分を朝廷に進言すると言葉巧みに但木をそそのかし、乗せられた土佐は、わざわざ護衛の兵までつけて、九条総督を盛岡まで送り届け、九条総督はその後秋田へ入ります。
九条総督を留めておけば、同盟側にとっては、なにかと使える手駒になったはずです。それを手放してしまうとは、まるで政治がわかっていないとしかいいようがない。東北人の人の良さが、徒となりました。
しかし、それと入れ替わるようにして、上野寛永寺御門跡、輪王寺宮公現法親王が東北入りします。
輪王寺宮公現法親王は孝明天皇の義弟にあたられ、上野彰義隊の戦いの戦火を逃れ、東北へと逃れて来たのです。親王は薩長に根強い不信感を抱き、東北にこそ正義があると信じていました。東より真の勤皇の旗を掲げようという同盟としては、これほど相応しい旗印はありませんでした。我らの天皇がおいでになったと、街道は出迎えの群集で溢れ、松平容保は感涙に塗れながら親王を迎えました。その後親王は、同盟の本部が置かれていた白石に入りました。
ところで、九条総督の入った秋田藩ですが、秋田藩は元々恭順派で、戦争には消極的でした。ここに九条総督が入ったことで、藩論は一気に同盟離脱へ傾きます。秋田藩の不穏な動きを察知した仙台藩は使者を秋田に派遣しますが、秋田藩の若い藩士が血気にはやり、この使者一行を斬殺してしまう。その巻き添えを食って盛岡藩士一名も斬られてしまった。
秋田の転心。仙台藩は秋田にも兵を派遣、盛岡藩もこれに加わり、戦闘が開始されます。これを契機として同盟からの離脱を図る藩が出始め、内外の敵を抱えた同盟軍の苦境は増すばかりでした。
一方で二本松藩のように、高い士道を貫いた藩もありました。やむをえず戦に参加したにもかかわらず、二本松兵は奮戦し、落城の際には藩の重鎮が自刃、少年兵たちも玉砕覚悟でよく戦いましたが、新政府軍の猛攻の前に敗れ、二本松は完全に新政府軍の手に落ちます。
慶応3年〈1868年)8月、会津鶴ケ城は新政府軍に取り囲まれます。
(続く)
参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫
『それぞれの戊辰戦争』
佐藤竜一著
現代書館
『仙台戊辰戦史』
星亮一著
三修社
江戸城無血開城の際、「西郷隆盛は軟弱だ」と影口が叩かれたとか。つまり薩長側は血を欲していた。
会津藩を赦す気など、初めから一片も持ち合わせてはいなかったのです。
会津藩と共に、やはり討伐の対象になっていたのが、庄内藩でした。江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしたことから、その対象になってしまったわけですが、この庄内藩と会津藩がまず連携します。そこへ米沢藩が加勢し、これに仙台藩が関わる形で、奥羽越列藩同盟の母体が出来上がっていきます。米沢藩はかつて、お家取り潰しの危機に瀕した時、会津藩初代藩主・保科正之の口添えによって免れたことがあり、以来会津藩に恩義を感じていました。仙台藩は同じ東北の藩として、理不尽な仕打ちに会っている会津藩を、単純に助けたいと思った。そこには東北随一の雄藩としての、誇りと意地もあったでしょう。
さらに越後・長岡藩もこれに加わります。長岡藩は飢饉の折、会津藩の社倉米を分けてもらったことがあり、それ以来の恩義がありました。
つまり奥羽越列藩同盟の母体は、恩義と友情によって出来上がったといって良いのです。
薩長率いる新政府軍と同盟軍との本格的な衝突は、白河城攻防戦でした。
会津・仙台連合軍対新政府軍の戦いは、圧倒的な軍事力の差で、新政府軍が勝利します。最新式銃を備えた新政府軍と、武器調達が遅れ、ほとんどが火縄銃の同盟軍とでは、力の差が歴然としています。それに仙台軍と会津軍との連携も上手く行かず、指揮系統の統一もされていない。近代戦というものを経験したことがない同盟軍には、ほとんど勝てる術はなかったと言えます。
会津軍には元新撰組の斉藤一も参加しており、白河城に籠城せず、前にでるべきだと進言しますが、会津の総督・西郷頼母は頑として譲らず、それが結果的に敗北へと繋がります。
初戦の大敗北は、同盟内に大きな動揺を与えます。同盟に参加した諸藩の中には、断ることも出来ず仕方なく参加した藩も多く、彼らは最初から新政府軍に敵対することに消極的でした。この後も同盟軍は負け続け、徐々に裏切りに傾く藩が出始めます。
さて、仙台に軟禁されていた奥羽鎮撫総督・九条道孝ですが、仙台藩家老・但木土佐が、この総督をみすみす逃してしまう失態をやらかします。九条総督は、同盟側の言い分を朝廷に進言すると言葉巧みに但木をそそのかし、乗せられた土佐は、わざわざ護衛の兵までつけて、九条総督を盛岡まで送り届け、九条総督はその後秋田へ入ります。
九条総督を留めておけば、同盟側にとっては、なにかと使える手駒になったはずです。それを手放してしまうとは、まるで政治がわかっていないとしかいいようがない。東北人の人の良さが、徒となりました。
しかし、それと入れ替わるようにして、上野寛永寺御門跡、輪王寺宮公現法親王が東北入りします。
輪王寺宮公現法親王は孝明天皇の義弟にあたられ、上野彰義隊の戦いの戦火を逃れ、東北へと逃れて来たのです。親王は薩長に根強い不信感を抱き、東北にこそ正義があると信じていました。東より真の勤皇の旗を掲げようという同盟としては、これほど相応しい旗印はありませんでした。我らの天皇がおいでになったと、街道は出迎えの群集で溢れ、松平容保は感涙に塗れながら親王を迎えました。その後親王は、同盟の本部が置かれていた白石に入りました。
ところで、九条総督の入った秋田藩ですが、秋田藩は元々恭順派で、戦争には消極的でした。ここに九条総督が入ったことで、藩論は一気に同盟離脱へ傾きます。秋田藩の不穏な動きを察知した仙台藩は使者を秋田に派遣しますが、秋田藩の若い藩士が血気にはやり、この使者一行を斬殺してしまう。その巻き添えを食って盛岡藩士一名も斬られてしまった。
秋田の転心。仙台藩は秋田にも兵を派遣、盛岡藩もこれに加わり、戦闘が開始されます。これを契機として同盟からの離脱を図る藩が出始め、内外の敵を抱えた同盟軍の苦境は増すばかりでした。
一方で二本松藩のように、高い士道を貫いた藩もありました。やむをえず戦に参加したにもかかわらず、二本松兵は奮戦し、落城の際には藩の重鎮が自刃、少年兵たちも玉砕覚悟でよく戦いましたが、新政府軍の猛攻の前に敗れ、二本松は完全に新政府軍の手に落ちます。
慶応3年〈1868年)8月、会津鶴ケ城は新政府軍に取り囲まれます。
(続く)
参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫
『それぞれの戊辰戦争』
佐藤竜一著
現代書館
『仙台戊辰戦史』
星亮一著
三修社
歴史を知ると複雑ですね。平将門とかも?お疲れ様です。ありがとう御座います。ハイペースですね。ありがとう御座います。m(__)m
斎藤一のファンは多いですね。どこかミステリアスで、悲しげな影を抱えている孤高の剣士というイメージが受けるのでしょうね。私もこの方には興味があります。
なんか、このまま一気に行きそうです。明日のことはわかりませんけど(笑)
いつも嫌わないようにこの時代では仕方なかったんだ、と思うようにしている私。
良心を売り渡すことをしない、負けるが勝ちの視点では圧倒的に東北の方々がそうです。
お国の為に、と言う言葉に野心や己のプライドを乗せてるのは長州だよ~って言いたくなってる自分です。
まぁ、そうは言ってもこの時代の方々より志もない弱い自分を見つめよう。
会津や東北の方々の志を見習い、思いをはせます。
あっ、仙台藩は保守的とはいえ、開国には保守的な訳ではなかったんですね。
江戸時代にもロシアと貿易をしていた時もあったはずですが仙台藩も関わってますか?東北の方々はこの逸話だけでも分かりますが、何が正しいか?と賢明に判断をしていて、江戸時代の東北の方々がどんな外交をしていたのか気になります。
斎藤一は何故会津とこんなに親しくなっているのかも、前からの謎。
容保公と同じく、自分のことを喋らないで維新後黙って生活していたイメージあります。
斉藤が会津に無事辿りつく史実があるので、本当は、墓の下に何も埋められていないという会津の近藤の墓には、近藤の首が埋まっているんだよ、という含みを持たせ、ファンを喜ばせる演出でしたね。
その斉藤一を演じたオダギリジョーが、また今回新島 襄役で大河に出演する。また前回同様第一話からしばらく出てこない(笑)。私は新島襄がどんな方か知らないのですが(すいません)、会津話にオダギリジョー出てきた!と面白かったです。
ロシアとの貿易ですか、あいにく不勉強でよくわかりません。調べられるようなら、調べてみたいです。
斎藤一は最後まで会津に忠誠をつくしたようです。土方歳三が斎藤に蝦夷地行きを打診したとき、「会津と共に最後まで戦うのが武士の道だ」と、蝦夷地行きを断ったとか。よほど容保公に恩義を感じていたのかな。
そうか、変わり者だからオダジョーなのか…(笑)