風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

被差別民と東北 ~ちょっとBreak Time~

2015-11-10 07:56:47 | 岩手・東北





だいたい、「東北」と十把一絡げにしてしまうのは無理がありますね。

東北といっても広うござんす。大雑把にわけても「北東北」と「南東北」では違うし、もっと細かい地域ごとに、歴史やらなにやらの背景の違いから、結構おおきな差異も生じるでしょう。

だから、差別というものをテーマにするなら、そうした細かい事象を一つ一つ丁寧にとりあげて、比較検証していかなければならないでしょうが、東北の部落差別研究は、まだそこまで至っていないのですかね。



初めに申し上げました通り、私は「差別そのものをこの記事のテーマとしている」わけではありません。

まあ、タイトルに「被差別民」と挙げている以上、どうしても「そっち」の方向に引っ張られてしまいがちになりますが、私の趣旨はそこには、


「無い!!!」



昨日の記事へのUnknownさんの投稿は、それはそれで参考になります。ありがたく拝読させていただきます。投稿していただくのは一向にかまいません。

ですが、この記事の趣旨は、決して「そちら」方向ではないということだけは、ここではっきりさせていただきます。




その上で、今後の記事の展開をお楽しみにしていただけたら

極めて、幸甚であります。


この記事、しばらく休むかもしれませんが、

でも、まだまだ〈続く〉

で、ありやす。

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14 コメント

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Unknown (玲玲)
2015-11-10 09:01:03
はい、分かった気になって書きますが、薫風亭さんが書きたいことは、例えば東日本大震災に遭っても不屈の愛情力がある東北に繋がる、隠されていたけど、今現代の日本に伝わって欲しい思いやりのようなものに繋がるのかな?と思いながら読んでいました。
ですので続きをお願いします。
それとは別にunknownさんの投稿で今まで私の中でモヤモヤとしていたものが少しハッキリしてきて。現代の部落問題、同和問題に混同されて尚且つ本当の穢多の人達の部分が利用されていたり、隠されてしまっているのではないか?と思ったので、unknownさんの投稿も読みたいです。
私も茨城県では少ないなと感じて調べていたら、江戸時代に天狗党と戦った穢多の方々がいたり、まぁ天狗党も慶喜くんに粛清されましたが、本来の穢多の方々は気骨のある、すごい方々だったと思うのです。
そちらが隠されているし、同和問題に関しては東京の一部を除いて(これは在日問題や左翼団体に利用されて、一般市民でも朝日新聞を間に受けてる人が多いリベラル層が住んでるから)東日本と西日本で温度差があると思います。
本当の穢多の人達は、上手く言えないけど会津藩士に通ずるような魂があるのでは?なんて思います。
さて、今日は本当にイヤイヤ行くセミナーに行くので、なんとか楽しんできまーす。
Unknown (薫風亭奥大道)
2015-11-10 14:15:49
玲さん、ありがと~。
Unknown (Unknown)
2015-11-10 19:38:43
東北・仙台の部落学ぶ
http://www.bll.gr.jp/siryositu/siryo-syutyo2008/news2008/news20080414-5.html

【栃木支局】県連の女性部と青年部が合同で、12月1、2日、初めての県外研修を宮城県仙台市内の被差別部落(未指定)でおこない、真宗大谷派の小野和徳・住職と和田献一・栃木県連委員長が案内した。
仙台市内の河原町・白山神社をはじめ、河原町に住んでいた人びとを供養していたことから皮坊(カボウ)寺とよばれた曹洞宗福聚院、東北大学脇の仙台藩牢屋跡に建てられた片平丁にある片平市民センターなどを視察した。
同センターでは、岡崎修子・館長から、仙台城(青葉城)から城下を措いた仙台城絵図(1862年・写し)をつかい「旧城下町皮坊町から城下町外の河原町南東裏に穢多町が指定され、穢多、皮坊とよばれる人びとと河原者とよばれる人が住んでいた。
領内21郡(宮城県全域と岩手、秋田の一部)の死牛馬の皮革を一手に扱う権利を有した。そうしたことから裕福であった。
また、罪人の牢番、市中引き回し、磔刑や治安維拝のための辻番を務めていた」と当時の説明を受けた。
参加者からは、「仙台に被差別部落があることは、集会や本などで知っていたが、今回参加して、勉強することができた。これからもこうした研修をおこなってほしい」という声が多く出された。
Unknown (Unknown)
2015-11-10 19:41:14
犯罪処理過程における領民の諸負担を通してみた仙台藩刑事法の研究
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/41206/1/kaken-10620001.pdf

仙台藩刑事法史研究としては、高柳真三「仙台藩の刑法及び刑事裁判」が現在のところ最もまとまったものであり、その他いくつかの研究がなされているものの、これを超えるものはない。
この高柳論文によれば、犯罪捜査機関としては、町奉行の配下に町横目・町同心がおり、同心の下に目明し、さらにその下に「稜多・ジウ・乞食小屋主」がおり、また同心や目明しが在方に出張した場合に召使う同心手先、御小人目付の手先である目明小方などが存したとされる。
なお、在方の支配を担当する郡奉行・代官・大肝人の下には、徒者締役と呼ばれる者のいたことも指摘される。
本研究の問題関心は、かかる諸捜査機関の活動に領民がいかなる負担を伴いつつ関わったかである。
以下、城下と在方とに分けて考察する。

まず乞食について。
乞食を支配した目明し十右衛門が享保4年(1719)11月に提出した口上書によれば、城下・在々に非人頭が80名余おり、各自がそれぞれ3~8人ほどの乞食を抱えているというのが当時の現状であった。
この乞食が諸種の理不尽なねだりごとをするため「諸人迷惑」であったので、その取締り体制として以下のことを十右衛門は提案する。
つまり、「小泉川原に罷有候非人頭十人有之内弐人を以乞食頭」として村方の非人頭を支配させる。
小泉川原の残る8名の非人頭は、4名ずつ昼夜城下を見回って徒者等を召捕らえ、村方の非人頭も同様昼夜見回って怪しい者等を召捕るようにさせる。
さらに在々宿場の市等でも「盗人・巾着切之類」を召捕らえるようにさせたい。この提案が藩により基本的に認められている。

この口上書以前には乞食が犯罪捜査に携わることがなかったのか否かについては、にわかに判断しがたいが、少なくともこの時期から乞食が犯罪捜査機関の一環として位置づけられたことは間違いない。
実際、安政元年(1854)に刈田郡白石本郷の乞食小屋主岩次郎が、怪しい者2名を咎めたところ柴木で打ちかかられたので、「十手を以打向、捻合」ったけれども、相手の者によって小刀をのどに突き通され死亡するという事件も生じている。
十手をも持たされていたことが注目に値する。
もっとも、犯罪捜査機関としての乞食の活動には制約が課されていた。
それは、被疑者を逮捕しても、その処理は原則として村役人の指示を仰がねばならなかったことである。
これは、乞食はあくまでも身分的には百姓の下に位置する者であることを認識させるものであり、この分を超えてはならなかった。

次に被差別民である。
前掲『仙台昔話・電狸翁夜話』は、「犯罪の検挙には、目付役主となり。其下に同心、目明し、河原者(穢多)、ジウ(非人)等を使役した。即ち同心は今日の警察官(藩主の行列の警護をも務めた)の如きもので、目明しは刑事巡査部長ともいふべく河原者は今日の平巡査如き職務を執り、ジウはまた其下働きを務めたものであった。犯罪の捜査には、河原者またはジウが専ら立ち廻り、目明しは其指図をするのである」と述べ、また、鈴木省三『仙台風俗志』も、 「穢多の手下となりて斃馬牛を取り締るが其役目」であった「ジウ」(「戎の字なるか、本字明ならず」との注記がある)について、「じうは罪人を捕縛することを勤とする故、平生、十手・早縄・棒なとを良く習ひ、いさといふ場合には之を応用して罪人を捕へることなるが、(中略)平日は十手早縄を腰にさしはさみ股引脚半に草鞋はきの出て立にて米袋を肩に掛け土民の家々を『おかんじん』といひて廻はり」とする。

これらによれば、被差別民、とくに「ジウ」と呼ばれた者が犯罪捜査機関として活動したことになるが、遺憾ながらそれを裏付ける史料を入手していない。
仙台城下川原町穢多が死刑執行などの役を負わされたことについてはすでに触れたことがあるが、城下・村方いずれにおいても被差別民が犯罪捜査に係わったかどうか確認していない。
被差別民は、江戸では犯罪捜査に携わることはなかったが、大坂ではその職務を遂行したようなので、仙台藩の実態はどうだったのか、興味のあるところであるが、その解明は将来の課題とする。


仙台藩1
www2.hp-ez.com/hp/bunsei/page4/42

この他に、仙台藩には旧宮城郡南小泉村(現・若林区)に乞食非人用の処刑場があったといわれている。

東北大学大学院教授・吉田正志著「犯罪処理過程における領民の諸負担を通してみた仙台藩刑事法の研究」には、享保4年(1719)頃“城下・在々に非人頭が80余名おり、(中略)「小泉川原に罷有候非人頭十人有之内弐人を以て乞食頭」として村方の非人頭を支配させる。”とある。彼らは「じう(戎?)」と呼ばれていたようで、“罪人を捕縛することを勤とする”と、役儀負担を承っていたようである。

この「じう」の集住地に彼ら専用の処刑場があったとのことである。
Unknown (Unknown)
2015-11-10 19:42:48
悲田院のふるさとを訪ねて
http://blhrri.org/nyumon/yukari/nyumon_yukari2.htm

大阪市天王寺区悲田院町は、JR天王寺駅を降りて、北側の交差点を渡ると、すぐのところにあります。
大きなマンションが建ち、料亭やしゃれた飲食店が軒を並べており、「近代的な繁華街」という印象の町です。
江戸時代には、この町の一角に「悲田院垣外」と呼ばれた「非人」の集落があったのすが、そうした歴史を語る痕跡は、まったく残されていません。

「悲田院」の名は、聖徳太子が四天王寺を建立した際、医療と救済事業を行なうために設立した寺院の名前に由来しています。
四天王寺の造営が五九三年といいますから、約一四〇〇年もさかのぼることになります。

この「悲田院」に、いつごろ非人の集落が形成されたのか、残念ながらはっきりしません。
ただ、少なくとも一五九四年の太閤検地のころには、その存在が確認できます。

近世の大坂には、同様の組織が「悲田院垣外」以外にも「鳶田」「道頓堀」「天満」にあり、「四ケ所」と呼ばれました。
「悲田院」は、四ケ所の中ではもっとも古く、由緒のある組織と見なされていました。

非人の組織は、「長吏」をトップに「小頭」が数名、その下に「若き者」「弟子」がいましたが、悲田院の長吏・小頭などは、もともと古くから四天王寺に従属し、寺の職務に当たる役人でもあり、その職務の一つが、窮民に対する施し(施行)だったのでしょう。
ちなみに1789年の段階で、悲田院垣外は379人、鳶田は266人、道頓堀は343人、天満には170人の住民がいました。

「四ケ所」の垣外は、施行だけではなく、大坂町奉行の指揮下にあって、番人や情報探索など治安の職務も担っていました。
これらの職務は、大坂市中だけでなく、各村々にも及び、それが治安対策の広域ネットワークを形成していました。
大阪周辺には、幕府領もあれば寺社領もあります。
垣外の組織は、こうした支配の別を問わず、情報探索や犯罪者の逮捕に当たっていました。
つまりFBIのような組織だったわけです。
それが明治以降、大坂からこつぜんと消えてしまったわけで、それ自身、歴史の大きなナゾといえましょう。


犯罪捜査における広域ネットワーク - 鳥取藩非人頭を事例にして
http://blhrri.org/kenkyu/bukai/rekishi/rekishi/rekishi_0035.html

本報告は、1719年に発生した「善助一件」(大坂城代安藤対馬の中間善助が、金銭を横領し欠落し、西国へ逃亡したとの情報から、大坂町奉行所同心・大坂長吏など、6名が探索のために鳥取に行き、その日のうちに善助を召捕った事件)を題材とし、その経過を辿ることにより、犯罪捜査における広域ネットワークが存在した可能性を示唆するとともに、貧人・乞食のイメージに新たな具体像を加え、非人観を見直す手がかりを探ったものである。

善助探索の追手方には、竜野「貧人頭」益右衛門が「付添ニ而」同行したのだが、この益右衛門の姉が、鳥取谷「貧人頭」与次郎の妻となっている。
通婚による2人の個人的ネットワークは、益右衛門が「付添ニ而」同行したことを契機に、個別藩領を超えた捜査・召捕りの広域ネットワークに繋げられたのである。

この際、善助召し捕りに関する情報は、鳥取藩目付手には事前に報告されておらず、非人頭間のネットワーク上で大坂捕手方との情報のやりとり、召捕りの段取りまで行われており、与次郎が持っていた従兄弟という関係ルートを超えた意識、つまり藩領を超えてまで、大坂町奉行所に積極的に協力するという強い意識が背景にあると考えられる。
このような与次郎の行動は、悲田院年寄の手下となることによる京都町奉行所との繋がりだけでなく、他領地の非人頭、大坂長吏・小頭、大坂町奉行所とのかかわりを鳥取藩に知らしめること、また自らの司法的・社会的存在を大坂方に認知させることにより、藩領を超えた犯罪捜査網を拡大する上で必要なことであったのではないか。

「善助一件」に象徴されるように、個人的ネットワークや非人頭の持つ「頭」ネットワークが結合することにより広域ネットワークが形成されるのであるが、このような関係を円滑に運営するにあたっては、接待・贈答が必要なのも現実であった。
実際に万兵衛(与次郎の家名)は京都悲田院年寄や大坂長吏・近辺非人頭に土産物を持って挨拶に行っている。
個人的ネットワークがどのような歴史的過程を経過して長吏・小頭ネットワークに繋がったのかは今後の課題ではあるが、このような広域ネットワークを駆使して犯罪捜査に成果を挙げた非人を「下級警察の最末端」と位置づけることはいかがなものなのか。
Unknown (Unknown)
2015-11-10 19:45:22
岡山藩の「穢多頭」
http://existenz.seesaa.net/article/310455429.html

この史料を見ると、「穢多頭」の役務である治安警察と行刑の内容が具体的に書かれており、よく理解できる。

簡単にまとめれば、郡中の取締・国中の穢多統率・盗賊悪党の探索・隠密の御用・処刑・処罰・取調・逮捕・囚人の護送・臨時の御用などで、これらの役務を実行するために、「帯刀御免」「永代弐人扶持」「御用提灯の使用」「国外での探索」「威鉄砲やすべての捕方道具の使用」「煙亡や非人の使用」等々が許されている。

また、「磔」が実施される場合,70人もの「穢多・非人・煙亡」が動員され、「引廻し」から「処刑」「死骸片付」まで細かく役割が分担され、その役割に応じて「手当」の賃金まで決められている。
「磔」が古来よりの「慣例」に従って行われてきたことがよくわかる。


文化14年の磔刑
http://ameblo.jp/0721jjjj/entry-11879197611.html

文化14年の夏、穂波郡横田村の百姓である長助が女房と密通した父親を殺した廉で、磔刑に処されました。

この刑を執行したのは穢多ですが、これが福岡藩の穢多ではなく肥前から二名の 穢多をわざわざ呼んだらしいのです。
と言うのも、福岡藩では年代が下る毎に刑罰の簡略化、軽量化が進み、この磔刑がうん数十年ぶり。
なので福岡藩の穢多は磔刑のやり方が判らず、肥前から指導の意味でも呼んだそうです。

これは、旧稀集に収録されていますが、暫くぶりの磔刑だけに大群衆が集まっている様子が絵図に残っていました。

◆ 参考文献
旧稀集/庄林半助
Unknown (Unknown)
2015-11-10 19:46:53
渋染一揆の指導者の実像
http://blog.goo.ne.jp/eigaku/e/1538d6979f0729383bffe2170c66ffb7

『被差別部落の暮らしから』の著者・中山英一は、このように語ります。

「世間の人は「部落の人は字を知らない」とか「文化の程度が低い」といいますが、そういう現象は明治以降なのです。それ以前は、部落の人たちは、文字がなければ生活できなかったのです。なぜかというと、「長吏」という役は権力の末端を担う仕事ですから、さまざまな役があるのです。今でいう「警察」や「刑務所」の仕事です。だから、字を読め、あるいは、書き、役目を理解する必要があるのです。字を知らないと、「長吏」という役がつとまりません。たとえば、「何日から何日まで牢番をしろ」という命令が文書でくるのです。それで、たしかに命令を受け取ったという請書を書くのです。今でいう文書のやりとりです。必然的に字の読み書きが必要になってくるのです。高度な漢書を自由に読み書きできる人もいました。こういう人たちがどこの部落にも必ずいました。そして、その部落の文化を大きく支えていたと思うのです」。

水平社宣言の執筆者のひとり、平野小剣こと栃木重吉は、福島県福島市代町の被差別部落出身です。
阿武隈川畔にある彼の「生まれた村は小さな町くらいの戸数と人口を有していた」といいますが、「明治34年の冬であったか火災にあって全戸数のほとんどを焼燼して、今は(1926年当時)わずかに15、6軒しか残っていない」といいます。
現在では、一般民家に吸収されて、その存在は消滅していますが、栃木重吉は、昔の記憶をたどりながら、このように語ります。

「この俺の生まれた町、昔はどんな社会的待遇をうけていたか、老翁の語り草を思い出してみる。この村の一角には獄屋があった。そこへは村人はたいがい番卒として働いていた。・・・大仏城主の板倉様からは不浄役を仰せつけられ祿米をいただいていた・・・。浪人どもは時おりこの村へ足を入れた。そのたびごとに村人に手習いや読み物などを教授してもらった・・・。(穢多村に出入りしていた浪人や武士の中には)この村に一生を過ごした者もある」。

栃木重吉は、幼き日に聞いた古老の話を、振り絞るように思い出すのですが、そのかすかな記憶の中にも、穢多村の子どもたちが読み書きを学んだ様子が語り伝えられているのです。

幕府が、「穢多」の名を持って統一した、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての穢多は、当時の社会の知識階級を形成していた下級武士と同様、高度な知識と教養を身につけていたものと思われます。
Unknown (Unknown)
2015-11-10 19:49:59
群馬県被差別部落史料 -小頭三郎右衛門家文書-
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-479-2.htm

「小頭三郎右衛門家文書」は、上野国(群馬県)の植野村(現前橋市)を中心に群馬郡13か村の職場を統轄する弾左衛門配下の小頭三郎右衛門家に伝わる被差別部落内の文書である。
この文書は代々、三郎右衛門を名乗った現平井家に伝わるもので、長い間、手をふれないまま大切に保存されてきたものであるが、戦後その一部がさまざまな事情で紛失、流出している。
およそ500点の近世文書が現存し、今回新たに400点の近・現代史料が保存されていることが判明した。
この文書で確認できる最も古いものは享保3年(1718)のものである。
寛永16年(1639)付の「根本由来」や、年月日不詳の「由緒書」「箕輪城主長野業政天文・永禄年間軍功記」などがあるがこれは後世のものと考えられる。
今回、近世の文書は一部の断簡や和本類を除いてほとんどを収録し、近代以降については明治期のものはほぼ全部、大正以降は生業、政治・社会、信仰、環境改善の一部を収録。
*近世文書については、『東京部落解放研究』63/65・66/68号所収のものを増補した。

一、記録(文書)と教育について
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho833.htm

近代の部分にふれる前に、「文書」という記録についてひとこと述べておきたい。
記録は、紙という記録するものがあり、記録するために人が文字を習得して自在に書くことができなければならない。
日本の場合、書くという点では、鎌倉時代、宮中で発明されたひらがな、カタカナが全国に流布し識字率が飛躍的に向上し、すでに江戸時代初期には地域の中でもかなりの人が文字を書き、読むことができるようになっていたと考えられる。
それは、日本では中国から六世紀頃伝来した紙の製造法が普及し、早くから紙に文字を書いて知識の蓄積と伝達を行っていた上に、ひらがな、カタカナという話し言葉をそのまま書き取る技術が普及したことによる。
ひらがな、カタカナ五〇音を書き、読むことができれば、意志の疎通が手紙などでできるようになるし、自分の記録としても残すことができるようになる。
これによって識字率が向上するとともに生活の質が向上し、農業や金属加工などの各種技術が向上、普及したと考えられている。
今回の史料集の中にも手紙などのひな形と思われるものが入っているが、それはその習得と活用の一端を示すもので、ひらがな、カタカナを習得した後、漢字を順次習得して、活用するために手紙などのひな形(手本)で学んだ。
こうしたことは西日本では中世にはすでに教育機関として寺に「寺子屋」が普及し、東日本ではやや遅れて近世になって手習いの師匠が教育にあたった。
それだけでなく、自習用の教科書も江戸時代には普及している。
それらがこのたびの文書の中に含まれていたかどうかはわからないが、あまりに当たり前の文書として、保存されないことが多いので、その実態はわからないことが多い。
(本史料集には、三七二ページから三七四ぺージにかけてわずかに手習文と書上(たぶん教科書の写しの一部)が収録されているだけである。もっともこうした教科書的なものがあってもこうした史料集にそのまま収録するのがよいのかどうかは別の問題となろう。)
ただ、被差別部落がこれらの事柄から別であったとは考えられない。
むしろ早い段階で文字を書くことは可能であって、近世の弾左衛門の支配システムに組み込まれた段階から文書を作成・保管していたと考えるのが妥当だろう。
教育の面では、巻末の「小頭三郎右衛門家文書目録」に、年月日不詳として「消息往来」(手紙の教科書であろう)、「世話千字文」「手習本」「習字手習本」などがあり、部落の中でも手習いなどの教育活動が行われていたことが推測できる。
ただ、教育については、もっぱら部落の中で行われていたのか、一般の村の中にあった手習いの場に通うことができたのかは、史料からはわからない。
史料集に収録されている江戸城の門一覧や大名家一覧の断片(三七三ページ、たぶんこれは江戸の町に関する地理の教科書(往来物)から写した(手習いした)ものだろう。)があるところから推測すると、教育活動は行われていたことは事実であろう。
本史料では、確認できる最も古い文書は一七一八年(享保三)であるという。
白山神社が勧請されたのが伝承では一六六三年(寛文三)ということなので、その年か、あるいはそれ以前からこの地に居住して、記録は残していたのであろう。
ただ、家文書として保存するようになったのは、意識として地域の「公式」あるいは「公的」な記録、また家の記録として保存すべきという意識が芽生えた時期以降となると推測されるので、それが少なくとも享保期だったということになるのだろう。
(したがって明治以降、世の中のシステムが変わり、残す意義が薄れてしまうと廃棄されたり、売却されたりした。これは一般の家文書にも言える。)
ことにひらがなで書かれることが多かったと推測される私信、メモの類はほとんど廃棄されたと考えられる。
かくて今回の史料集に収録された文書は、明治以前は四七五点、明治以降は一三〇点となっている。
明治以降は明治期中心に収録したという。(松浦利貞「群馬県被差別部落史料-小頭三郎右衛門家文書の刊行について」)
Unknown (Unknown)
2015-11-10 19:53:24
「役」の解体・再編と被差別部落

近世の被差別身分の役は、穢多役または革田役であった。
明治に入り、これらを含め、すべての役が解体された。
広島藩では、被差別身分は革田としての役を担った。そして他の被差別民の役に非人があった。
福山藩では、穢多、茶筅、非人の役があり、それらすべてが、穢多役としての非人番を勤めた。(以下、広島藩に言及する場合は革田役、福山藩に言及する場合は穢多役と表記する)

革田役・穢多役は、次のような職務を担うものであった。
第一に、死牛馬の処理と皮革の権利独占、第二に、刑の執行と罪人の移送などの業務、第三に、市中の清掃、そして第四に、消防、犯罪者の捕縛であった。
これらの職務の執行は、幕府や藩の権力のもとで行なわれた。
職務の一つである処刑は、過酷な身体刑であっても、法と、倫理規範としての「作法」(広島では柴山流)により厳密に統制されていた。
また、被差別民自身が犯した犯罪は、一般の法と異なる法によって罰せられた。
幕府や藩は、職務においてもそうでない時も、彼らを厳しく統制した。
それは、彼らが幕藩体制にしっかり包摂されていたこと、それだけに、封建体制を維持する重要な役割を担っていたことを意味している。

政治の第一の目的は、治安にある。
とすれば革田役の第四の仕事が、その主たる任務となる。
武士は、立法・行政・司法を担い、軍人でもあったが、彼らによる政治=治安は、もう一つの軍事力としての革田役により支えられていた。
武士は本来軍人であったが、実際は政治官僚として存在しており、平時の日常的な軍事は、革田役が担った。
また、第二の刑吏の仕事は、過酷な身体刑を遂行するものであり、権力機構の「自立した部門」としてあった。
それは、「処罰されうることは醜い、だが処罰することも名誉ではない」ために、「司直が自分自身と、自分の課す懲罰とのあいだに確立した二重の保護組織」[Foucault 1975=1977:15]を必要としたためである。
その役を担う者は、高度な技術をもつことが求められた。
福山藩の小畠代官所で、茶筅が「見事に」斬首を執行したとする記録があるが、それは彼らの技術水準を物語っている[神石郡教育会 1927:279]。
このような技術があったからこそ、かの杉田玄白等の求めに応じて腑分を請け負うことができた。
Unknown (Unknown)
2015-11-10 19:54:21
革田役と穢多役の武力行使

広島は西国街道が貫き、東西の出入り口に革田の居住地が置かれていた。
後藤陽一によると、東は現在の尾長町、西は福島町の辺りである。
1599(慶長4)年に、広島城が築城され、町割りされた。
これら二つの被差別部落は、起源をその時代に求めることができる。
また1818(文政初)年に、東の出入り口に革田215人、定非人328人、西の出入り口に革田513人、定非人373人が定住したという記録がある。
西の革田の人口が東の2倍近くで、非人の人口もやや多い。
後藤は、その理由を、西方からの軍事的圧力が強かったためとしている[後藤 1982:268]。
さらに革田は、村役人の了解のもとに、郡中革田を支配下に置いており、郡中へ直接出動することもあった。
また郡中革田は、必要に応じて配置転換が行なわれた。
それは、福山藩においても同様であった[橋本1979:256]。
革田や穢多が置かれた状況には、戦略的な意味が大きかったと思われる。
江戸幕府が統治した260年間は、経済が順調に発展し、戦争がない時代であった。
そのため、革田や穢多の軍事能力を判断できる史料は、乏しい。
しかし、百姓一揆の際や幕末の内乱時に、彼らが優れた戦闘能力を発揮した事例が、いくつかある。
なかでも、1786年に福山藩で起きた天明一揆の例は、興味深い。
一揆は、藩主阿部正倫の幕閣就任などにより、藩の財政が逼迫したことが原因で起きた。加えて、凶作となり物価も上昇した。
福山藩は、危機回避策として、年貢月割先納という政策を採った。
農民はこれに反発し、同年12月から翌年の3月までの、長期に及ぶ一揆を行なった。
この時、藩命に従って一揆の鎮圧に出動したのが、穢多頭・三八配下の40-50名の人々であった。
彼らは、左右が竹薮という地勢において、8,000名もの農民に包囲され、投石などの攻撃を受けた。
しかし彼らは、脇差しを抜き、農民の包囲を破って帰還する[青木 1968:360]という戦闘能力の高さを示した。
三八の勢力は、深津郡三吉村(現福山市)を拠点としていた。農民は、そこに火をかけて、備中方面へ逃亡しようとした。
彼らは、藩が手勢を割いて消火に当たって、追跡が手薄になることを知っていたからである[青木 1968:376]。
このことからも、福山藩の穢多の戦略的役割が浮かび上がる。
従来の研究では、三八配下が農民の襲撃を受けたことだけが強調され、彼らの戦闘能力に触れられることはなく、
また、彼らの居住地がもった戦略性も無視されてきた。

幕末の1866年に広島藩が出した通達に、「御触書并諸国状写帖」がある。
そこには、「屈竟ノ革田ドモ得物持参、成ルタケ多人数急速ニ罷リ出候様取リハカライ申スベシ」と記されている。
それは、幕府と長州の戦争に革田の動員を命じたものである。
その際、革田の得物すなわち武器は、自前であった。
このことも、革田が恒常的に武装していたことを示している。
この点も、従来の研究では注目されることがなかった。
早くより経済が発展した後背地を抱える瀬戸内の海賊は、藩をおおいに悩ませていた。
江戸期には「水軍」は消滅していたが、海賊の軍事力は侮れるものではなかった。
革田は、その海賊の取締りも行なった[広島県 1973b:988, 990]。
藩にとって、他面で、被差別民の高い戦闘能力や、犯罪者の追捕能力は、大きな脅威となった。
革田が経済的に豊かになり、権力のイデオロギーから自由にでもなれば、革田の居住地は、権力が及ばない空間ともなりかねない。
このように、革田は軍事的存在であり、役の実行は、軍事力の行使であった。

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