風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

『幕末維新と会津藩』~6~ 奥羽越列藩同盟の結成

2013-02-14 23:53:29 | 会津藩
慶応4年(1868年)1月17日、京都在中の仙台藩家老但木土佐は御所に呼び出され、会津藩主・松平容保の追討令が出されたことを聞かされ、仙台藩の手で会津藩を討つように、と下命されます。
仙台藩が会津藩を討つなど思いもよらないことでした。仙台藩御小姓組頭・坂本大炊は長州の最高実力者・木戸孝允(桂小五郎)を訪ね、真意を質します。木戸は池田屋事件で新撰組に追われ、京都市中を逃げ回った経験があり、禁門の変の苦渋と合わせて、会津藩に対しては怨み骨髄でした。会津追討の意志は固く、仙台藩としても朝廷からの命とあらば断わり切れない。
坂本は御所に出頭して錦旗を預かり、急ぎ仙台へ戻ります。
仙台藩内では、官軍に選ばれたのであるから、これは名誉であるとし、会津を討つべきであるという意見の一方、これは薩長の専横である、とする意見もでました。
但木土佐の腹心・玉虫左太夫は、薩長が仙台藩に対し一方的に命令するのはおかしい。欧米に負けない新しい社会を目指すなら、まずは東北諸藩とも協議を謀るのが至当である。これでは単に薩長が幕府に取って変わっただけではないか。この様な専断は到底尊皇などとは言えず、新しい社会など期待できない、と断じました。
玉虫は日米修好通商条約の批准を見届ける使節団の一員として、幕府勘定奉行・小栗忠順らと共に米軍艦ポーハタン号に乗り込み渡米した経験があります。その際にアメリカ社会を粒さに見聞して回り、いずれは日本もアメリカのような”共和制”に移行しなければダメだと強く確信します。その玉虫から見て薩長の在り様は、到底共和などとは言えず、その専横専断、そのまま受け入れるわけには行かないと結論づけました。また仙台藩の藩校である、養賢堂の学頭・大槻磐渓は「そもそも天皇陛下が直接政治を行うなどあってはならない。政治は臣下が行うべきである」とし、「禁門の変にて長州は逆賊となったが、あれは不可抗力であったとして後に赦された。会津藩だとて天皇に弓引くつもりで鳥羽伏見を戦ったわけではないのは明らかである。にもかかわらず長州のみが赦され、会津が赦されないのはおかしい。これは偏に薩長特に長州の私怨であり、到底官軍としての大義名分など成り立たない」と明快に切って捨てました。
仙台藩としては、ここはひとまず、会津攻撃は待ってもらうよう、働きかけることにしました。

そもそも禁門の変というのは、長州が御所に攻め入って天皇を拉致し、自分達の側の旗印にしてしまおうという計画のもとに行われたもの、天皇の意志などまったく考慮しておらず、非常に自分勝手で無謀且つ不敬な作戦としか言いようがない。それと比べて会津のいわゆる“罪”が、どれほど重いというのか。客観的にみても、理不尽としかいいようがなく、東北随一の雄藩・仙台藩としては、そう簡単に受け入れられるものではなかった。戦争となれば東北全域に戦火が拡大する恐れもあり、仙台藩は東北諸藩と連携して、会津藩に穏便な処置を施すよう、嘆願することを図るのです。

その頃、京都に在中していた盛岡藩の家老・楢山佐渡は、新政府軍の方針を質すため、新政府軍の参謀・西郷隆盛を訪ねます。その時西郷は庭にあぐらを掻いて座りながら、薩摩藩士達と牛鍋をつついており、その姿をみた楢山は幻滅してしまう。盛岡藩で代々家老の家柄に生まれた楢山としては、西郷のような「下賤の者」が指揮を執るなど到底信じられず、新政府など使用できぬと断じます。東北の保守的な気風が、ここでも出てしまいました。

さて3月に至り、新政府軍の奥羽鎮撫総督・九条道孝が仙台入りします。会津攻撃を強く迫られた仙台藩は、やむなく福島あたりまで兵を進めますが、もとより本気で攻撃するつもりなどはなく、会津藩に秘かに使者を送り、これは見せ掛けであることを会津に知らせます。会津藩としては仙台が兵を進めてくるなど寝耳に水で、仙台藩に不審の念を抱きますが、ここはひとまず仙台に頼ってみることにします。会津としては、自分達が朝敵であるはずがないことはわかりきった話だが、徒に戦争をするつもりもありませんでした。容保は恭順の意を示しており、穏やかに済むならそれに越したことはなかった。しかし一方では軍政を西洋式に改革して軍備を図り、戦争への備えも怠りありませんでした。

仙台藩は白石に奥羽諸藩の代表者を招集し、会津赦免の嘆願書を朝廷に上奏することを図ります。東北諸藩としても戦争をせずに済むのなら、こんな有り難いことはない。この時点ではまだ、戦争することに関しては、決して積極的ではなかったのです。

ところが事件が起こります。仙台藩の福島派兵に同行していた、奥羽鎮撫総督府下参謀・世良修蔵が、仙台藩士によって斬殺されてしまったのです。
世良という男は非常に乱暴且つ尊大な男だったようで、ことあるごとに仙台藩士達を罵り、あからさまに差別的な態度を取り、仙台藩士から憎まれておりました。上述したように仙台藩は派兵をしたものの、会津攻撃を行おうとはしない。業を煮やした世良は、秋田にいる鎮撫総督府下参謀・大山格之助に書状を送ります。これが世良の動向を探っていた仙台藩士の手に渡ってしまう。その書状には、仙台藩は皇威を軽んずる逆賊だから、西郷参謀とも図って、仙台も攻撃してしまえ、といった内容のことが書かれていました。
これを読んで激怒した仙台藩士達は世良を捕まえ、阿武隈川の河原で白昼堂々、衆人環視の中、世良を斬首しました。こういうところが仙台藩、東北人の正直さで、わざわざ皆が見ているところで殺さず、闇討ちにしてしてしまうという手もあったはずなのですが、そういうことはしないわけです。これが薩長だったら、ほぼ間違いなく闇討ちにして、知らぬ存ぜぬを貫くはず…とは言い過ぎですかね?
世良は酷い奴でしたが、鎮撫総督府の正式な役人であるわけで、このような行為は明確な宣戦布告です。もはや戦争は避けられない状態となりました。

二回目の奥羽諸藩の会議において、仙台藩家老・但木土佐と軍事総督の坂英力は舌鋒するどく薩長を偽官軍であると非難、この上は東方より真の尊皇の旗を掲げるべく、薩長を討つべしと演説します。ここにまさかの開戦が決定し、仙台に軟禁されていた九条総督を旗印として、奥羽軍事同盟が結成され、ここに越後も加わり、奥羽越列藩同盟となるわけです。

五月、白河口において、新政府軍と列藩同盟との先端が開かれることとなります。
(続く)



参考文献
『仙台戊辰戦史』
星亮一著
三修社

『それぞれの戊辰戦争』
佐藤竜一著
現代書館

『会津と長州、幕末維新の光と闇』
一坂太郎・星亮一
講談社

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2 コメント

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ありがとう御座います。 (よしの@)
2013-02-17 01:52:14
弱者が惜しまれる文化て不思議ですね?勝ち負け、生き死に、関われば、やったもん勝ちでしょうが、三國志とは、またひと味違いますな~。生意気いって、ごめんそうろ~。はい、私は、はやいんです。m(__)m
心のよみときには、おおくのけいけんが…、はは、ハクション、ズルズル、ぶるる。あれ?なんだっけ?忘れてしまいました。歴史ていいな~、日本ていいな~。とかる~くおもいました。お疲れ様です。ありがとう御座います。m(__)m
Unknown (薫風亭)
2013-02-17 03:38:26
“判官びいき”という言葉もあるくらいで、日本人は敗者の側に感情移入するメンタリティを持っているようです。滅びゆく者の美しさというか、栄枯盛衰、うたかたの泡と消えゆくこの世の定めを感じてるとでもいうか。上手く言えませんが、私もそんな日本人の一人。
「イチバ~ン!」それはハルク・ホーガン…。

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