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カントそしてヘーゲル

2016-06-28 22:01:22 | 日記
ヘーゲルに、ミネルヴァの梟は、黄昏を待って旅立つ。という言葉がある。
要は、哲学は時代が成熟して初めて生まれると言うのだが、何のことはない、自分の哲学について語っただけだ。
ヘーゲルは、自分で哲学が終わった。と信じていた。絶対智だ。
絶対智の前では、宗教も、表象,Vorstellungに過ぎないとして、神を、哲学の一歩手前に置いた。
哲学の信仰への優位だ。かくして、神は殺されて、哲学=絶対智、が支配する。
ヘーゲルは自分で哲学が終わったと信じたから、せっせと哲学史を整理した。
哲学史というのが前になかった訳ではないが、哲学史を学問に高めたのはヘーゲルだ。
しかし、どうも、神を殺したヘーゲル哲学の基本がキリスト教にあるとしたら具合が悪い。
実際、ヘーゲルの弁証法の起源はキリスト教にあるという意見もある。
鍵となるのは、ケノーシスという概念だ。
ギリシア語は知らないので恐縮だが、このケノーシスという概念は重要で、己をむなしゅうして、とか、自己無化とか訳されるが、要は、神が、イエスつまり、人の子として展開したことを指すが、ヘーゲルの、外化の概念には、この思想があるという指摘もある。
カントもそうで、この哲学者は、知識と信仰を分離したと言われるが、僕の見るところ違う。
カントは、道徳法則を、理性の事実として与えられているgegeben ist,という。
与えられているなら、誰が与えたのかということになるが、普通に考えれば、全ての義務を、神的命令,gottlich Gebotと看做す。というのだから、神であろう。
ここで、gottlich Gebotと言われ、Gebot Gottes,と言わないのは正しい。神の命令,になっちゃうと他律となる。
従って、わざわざ神が与えたのであるから、道徳法則の表象,とまたここで、Vorstellung,を使う必要もないのであり、別の場所でカントははっきり、心の中に極めて太い文字で書かれている、と道徳法則について述べている。
そもそも、カントにおける自由とは、あくまで叡智的なものであるからして、実践理性批判の段階では、道徳法則に従う自由しかない。
すると、カントはどこでどう、知識と信仰を区別したのかという話になる。
カントの道徳哲学の根本にキリスト教があるのであり、それは、最高善の概念、ひいては、永遠平和の概念へと引き継がれるのだが、いずれも、神の国を地上へ。というキリスト教的概念に他ならない。
というわけで、カントにしろ、ヘーゲルにしろ、キリスト教の影響は強すぎるのだ。