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メモ2020.08.08 ―自己表出と指示表出へ ⑦ 追記2021.1.22

2021年01月22日 | メモ
 メモ2020.08.08 ―自己表出と指示表出へ ⑦  疑問点を考える 第三回

 追記 2021.1.22



 最初に刊行された『言語にとって美とはなにか』に掲載されている品詞図(図4 1965年)、これと違う『中学生のための社会科』(2005年3月刊 )の中の品詞図と『SIGHT』(VOL28 2006 SUMMER)に「言語論要綱―芸としての言語」として掲載された中にある「図1」の品詞図、この両者の間の違いについて再び考えてみる。

 吉本さんの講演A164「心について」(「吉本隆明の183講演」ほぼ日刊イトイ新聞)の「講演のテキスト」を読んでいたら次のような箇所がった。これは後者寄りの年代ではあるが、上の両者の品詞図の間になされた講演である。


4 内臓から発せられる言葉――自己表出(引用者註.これは小見出し)

 そうしますと、心の働きというのは、内臓の働きだということになります。
 そういうことがわかって、自分にとって役に立った――役に立ったというより俗な言い方をすれば得したぞと思ったのは、ぼくは自分なりにつくった言語論というのがあるわけです。その言語論で、言葉というのは指示表出――何か対象を見てそのあげくに出てくる言葉の面――と、もうひとつ叫び声のように声が出ちゃうという言葉の面を自己表出と言います。人間の言葉というのは指示表出と自己表出というところからなりたっている。その組み合わされたものが言葉だという考え方をしてきたわけです。
 たとえば、人間の手とか顔とか足というような名詞というのは、指示性が強い言葉で、自己表出性は影に隠れています。動詞みたいに何もイメージは起こらなくても動きだけを伝える言葉は、自己表出性が全面に出てきて、何かを指すという作用が少なく出てきたというのが動詞です。形容詞というのはその中間で、美しいなら美しいという形容詞は、確かに対象を見ていなければ美しいかどうかわからないんですけど、指示表出性もあるんだけど名詞とは違うので、自己表出性も入っていて、半々なら半々になって出てくるのが形容詞みたいなものなんだという解釈にぼくらの言語論だとなります。
 名詞を一方の端にして一方の端を動詞にしますと、後形容詞とか助動詞とか助詞――「の」という助詞は何もイメージを浮かばせない自己表出性が前面に出てきて指示表出性が後ろ側に退いちゃっているのが助詞みたいなものです。「の」とか「は」というのは何も指示しないんだけど言葉には違いないんです。
 そういうふうにしますと、名詞の一方の端、動詞を対照的な端としますと、その中間に形容詞から助動詞、助詞、副詞みたいなものまでぜんぶ入ってきて、そのかに(ママ)微差ですけれども自己表出性の微妙な差異というのが人間の言葉をつくっているという考え方になります。
 そういうふうに考えてきましたけど、三木さんの考え方というのを数年前にあれしまして、結局心の働きから出てくる言葉を自己表出的な言葉というふうに考えればいいんじゃないかということにはじめて気がつきました。おれは漠然と、言葉は自己表出と指示表出から出ている、その交差したものが言葉だと考え方を出してきたけど、身体的・生理的に言えば、心の働き、内臓器官の働きに関連する表現の仕方というのが自己表出であって、そうではなく感覚器官の働きに関連する言葉の働き方が指示表出なんだと考えれば、これは身体的・生理的基礎というのはおれの考え方に根拠を与えるんじゃないかとはじめて気がつきました。
 ぼくらはそういうことでいちだんと自分の考え方が広がったように思って、とても役にたったんです。びっくりすることばかり、三木さんのことを読むとたくさん書いてありまして、内臓器官の感覚というのが、心の働きと考えれば非常にわかりやすい。もちろん現実的には両方が入り交じって出てくるわけで、どちらかが多いかということに過ぎないんですけれど、そういうことです。
 そうすると、心というのはそういうふうに位置づけること、意味づけることができるということになって、いろんなことがわかるように思えてきました。
 (「心について」講演日時:1994年9月11日 収載書誌:筑摩書房「ちくま」1995年1月号、2月号)



 この中の「そういうふうにしますと、名詞の一方の端、動詞を対照的な端としますと、その中間に形容詞から助動詞、助詞、副詞みたいなものまでぜんぶ入ってきて、そのかに(ママ)微差ですけれども自己表出性の微妙な差異というのが人間の言葉をつくっているという考え方になります。」という言葉は、後者の品詞図に対応する説明になっている。
(この部分は、筑摩書房「ちくま」1995年1月号の文章を載せている『吉本隆明資料集130』の「心について(上)」の文章では、次のようになっている。)

 そうしますと、名詞の一方の端にして、他方の端を動詞としますと、その中間に形容詞から助動詞、助詞、それから副詞みたいなものまで全部円になって入ってきます。そのなかに指示表出性と自己表出性の微妙な差異があってことばをつくっています。(P105)


 ところで、前者の品詞図(図4 1965年)についての説明をもう一度引用すると次のようになっていた。


 わたしたちは形容詞のなかに動詞よりもつよい自己表出性のアクセントを、したがって指示表出性のよりちいさくみえる状態を想定できる。
 (『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』角川選書 P61)



 以上のことから、これまで述べてきたように前者の品詞図と後者の品詞図は矛盾するものであることは確かである。(「メモ2020.08.08 ―自己表出と指示表出へ ⑦」に引用している二つの品詞図で確認できる) そして、その矛盾の原因として、目も悪くなった吉本さんのミスかもしれないと前に述べたことは、今回の講演「心について」の中のその言葉の存在によって、退けなければならないことになる。

 前者の品詞図と後者の品詞図、さらにそれぞれと対応する吉本さんの説明は明らかに矛盾する。したがって、ここには、このメモの①で取り上げた、『言語にとって美とはなにか』の自己表出と指示表出という基本概念をマルクスの『資本論』の経済概念である使用価値と交換価値にそれぞれ対応させてきたことが、途中からそれぞれの対応が逆の対応に変化させたこと、それに似たなんらかの思考の深まりなり変更なりがあることは確かである。そのことの検討はまた別の機会にしたい。


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