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古い本 その78 19世紀の日本の文献 5

2021年11月05日 | 化石
 次の論文。
G 1900 横山(又次郎)「海牛の化石」
 まず、著者は単に「横山」としているが、もちろん横山又次郎(1860−1942)である。1882年から東京大学理学部教授(1886年東京帝国大学となる)として、日本の古生物学の基礎を築いた。たくさんの化石種を命名したが植物や無脊椎動物が多く、脊椎動物に関しては著作が少ない。
 文章は、「豫て岩崎重三氏が河馬類の化石ならんとて理科大学地質学教室にて研究中の美濃産の哺乳類は蓋し河馬其の他。馬類似のものにあらずして新海牛の遺骨ならんとの疑いあり・・」から始められている。
 岩崎重三(1861−1941)は、理科大学で研究中とあるが東京帝国大学理科大学を卒業後旧制第三高等学校(京都)で応用鉱物学を教えていたという。
 研究している岩崎氏ではなくて横山教授が正式な論文よりも先にこの化石のことを記していることは現代ならありそうにない。それはさておき、文章はミュンヘンのチッテル先生に写真を送って意見を聞いたら「初めマストドンならんかと思いしに・・種々考えたるも写真のみにては能く分からず但し事により新海牛の歯なるやもしれず」との回答を得た。そう思ってみると「チッテル先生の想像も大に其の当を得たるものものと信せらるゝなり」としている。
Karl Alfred von Zittel (1839-1904) はミュンヘン大学の教授で、Text-book of Palaeontology の著者として知られる。Prof. Zittelと連絡を取ったのは横山教授のように書いてある。
 この標本について、2年後の1902年に論文が出版された。
Yoshiwara, S. and J. Iwasaki, 1902 Notes on a New Fossil Mammal. The Journal of the College of Science, Imperial University of Tokyo, Japan. Vol. 16, Art. 6: 1-13, pls. 1-3.
 日本人による最初の本格的な古脊椎動物学の論文で、英文でもある。惜しいのはこの時にはこの動物の学名をつけられなかったこと。しかし、まだ歩き始めたばかりの日本古脊椎動物学に与えられた標本としては、あまりにも難解なものだった。最初に標本の産出地について記してあり、美濃の「Kanigōri」戸狩となっている。戸狩は土岐郡に属していて、可児郡でないから誤り。吉原博士はこの誤りに気づいておられなかったようで、ずっとのちの「昔の思ひ出」(後出)という文でも「可児郡戸狩」としている。戸狩村は1889年発足、1897年に他の3村と合併して明世(あきよ)村となっている。(標本の発見は1898年。)現在は瑞浪市だが、合併した4村のうち、もっとも西に位置する河合村は分離して、後に土岐市の一部となった。著者のうち吉原は現地を訪れて新たに同一個体の臼歯を発見したと言うから、産地は確認されたことになる。そして約800メートル離れたところで吉原はサイの歯を伴う下顎を見つけたという。これが、先の吉原, 1899に出てくるものと思われる。吉原はその時東京帝国大学大学院で研究していたという。前に書いたように、この場所は確かではないが様子が一致する所があった。太平洋戦争のころ、第三紀層に大規模な横穴を穿って、軍の司令所を作ろうとしたところ。私が中学生のころにはその穴に入ることができて、化石層が壁に連続していた。

246 日本軍が掘った横穴で化石層を見学する 1976.7.28 瑞浪市化石博物館の行事で撮影

 この後、本文は標本のくわしい記載にはいる。特に上下顎に前方に向かって生えている4本の牙状の歯について詳しく記録し、断面図を挿図として示している。断面を「diagrammatic section」としているのは、この部分が十分に剖出してないことと、上下が少しずれていることによるのだろう。

247 Yoshiwara and Iwasaki, 1902, p. 6: 吻部の断面

 左上(Fig. 1)が左下顎第二切歯(歯種の判断はのちに変更される)の断面で、歯の先端から7.5cmのところ、左下(Fig.2)は同じ下顎第二切歯の断面で、先端から3.2cmのところ。右上(Fig. 3)と右下(Fig.4)はdiagrammatic sectionで、それぞれ上顎先端から15cmと22cmの位置である。後で出てくる甲能, 2000論文を見ると、先端から20cmあたりに標本の割れたところがあるので、そこで観察できたのだろう。また左上顎に部分的な割れ口があって、「先端から3.2cm」「同7.5cm」あたりのようだから左の2図はそこで観察したのだろう。しかし右下の図はどうやって作ったのかわからない。なお、右上の図で背面に穴が空いているのは外鼻孔である。

248 Yoshiwara and Iwasaki, 1902, pl. 1 ホロタイプ頭骨背面

 頭蓋の様子は、2枚の図に描かれているが、スケッチであり、割れたところは修正してあるから、どこで断面を取ったのか判定し難い。そこで、ずいぶん後の論文だが、「国立科学博物館のレプリカ」の写真を見よう。

249 ホロタイプ頭骨背面と右側面 亀井・岡崎, 1974 から

 これを見ると外鼻孔の少し後方に標本の割れ口があることがよくわかる。なぜか1902年の論文もこれも陰影の方向が掲載の位置とはあっていない。下顎がじゃまをしない左側を下にして机の上に置いて、上からの照明で横から撮影したのだろうか。ところが、側面の図は比較的保存の良い右側を掲載するのが良いので、背面も右を前方にそろえることになる。そんなわけで陰影が上に来てしまったのか。

 第3図は13枚の臼歯の写真である。日本の古脊椎動物化石の論文で初めて使われた写真図版ではないだろうか。

250 Yoshiwara and Iwasaki, 1902, pl. 3.

 このうち、左右の列と中央列上の2枚は戸狩の標本、中央列下の2枚は島根県産の別の標本である。島根県の標本は, 1897年にS. Ito氏が持ち込んだもの。氏によると、標本は島根県松江の近くの湯町村で同村の別の人が採集したという。著者らは、同種でないにしても同属の動物のもの、としている。湯町村は1889(明治22)年に町村制がしかれた時にあった村(意宇郡・のちに八束郡)で、1905年に玉造村と合併して両村の字をとり玉湯村と変更、1959年には町制に移行した。さらに2005(平成17)年には松江市に併入された。現在の玉造温泉あたりである。
 先に記したように、この論文では動物種を決めていない。文末の系統に関する論議では、長鼻類、とくにDeinotheriumと比較した後、海牛類と似ていることにも言及し、最終的に長鼻類と近いが海牛類、それに原始的有蹄類の可能性もあるとの結論を記している。注目されるのは謝辞で、横山教授と渡瀬教授のほか、Osbornにも謝辞を記している。横山教授については先に記した。渡瀬庄三郎(1862-1929)は東京帝国大学動物学教室の教授。日本哺乳類学会の初代会頭であった。動物地理区の「渡瀬線」で知られる。

 長くなってしまったので、続きを次回に持ち越す。Desmostylusの名は次回世に出てくる。

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